10年前、東日本大震災の激しい揺れにより、
老舗カメヤケーキ店も大きな被害を受けました。
間近まで迫った大津波からはなんとかのがれたものの、
ショーケースが壊れたり、物が落ちたりして、店内は足の
踏み場もない状態になりました。
店主でもあり、パティシエでもあるヒロさんもこの状況には
打つ手がありませんでした。
自然災害を恨んでもしょうがないと、ヒロさんは、地震の直後
から商品のケーキなどをすべて車に積み込み、被災者が
押しかけている近くの避難所3か所に届けたのでした。
翌日、ヒロさんは改めて店内を眺めると、その惨状に途方に
くれてしまいました。
ケーキを焼く機械、材料を練る機材なども壊れてしまい
ましたし、何より電気は止まってしまったのでどうしようも
ありません。
従業員には、無期限の休暇を与えて自宅に帰しました。
なすすべのないヒロさんは、とりあえず高齢のお母さんと
二人で店内の片づけを始めました。
ふと、手に取ったノートは注文を記録したノートでした。
市街地は津波で大変な惨状になっていることを思うと、
いつもカメヤのケーキを喜んでかってくださるたくさんの
お客さんのことが心配になりました。
「お母さん、予約してくれた方々に、お断りの電話を入れ
たいけれど、電話もいつつながるかわからない、どうしたら
いいだろう」
「そうだね、どうしようもないね。せめて、先払いのお客さん
には、早いうちに返さなくちゃね。こんな状態だと、この先
どこに避難するかかわからないもの……」
厳しい寒さと不気味な静けさが被災地を包み、翌日も日が
暮れようとしていました。
その時、一人のおじいさんが店にあらわれました。
「あのう、わたしはフジイともうします。注文していたケーキ
なんですが……」
ヒロさんは、申し訳なさそうに 「……注文していただいたの
ですね。でも、これこの通りです。電気も止まり、ケーキを
作りたくても作れないんです。……すみません……」
「そうですよね。……どこの店もシャッターが下りたまま
ですから、カメヤさんだけが営業できるってことはない
ですよね……でも…あ、いや……わかりました。
どうもすみませんでした」
「いいえ、すまないのはこちらの方です。おわびのしようが
ありません……」
何か言いたげなおじいさんでしたが、とても残念そうな顔を
して帰っていきました。 ヒロさんは、さっき手にした注文ノート
を開いてみました。 確かにありました。
「藤井様 3月12日(土曜日) 午後5時引き渡し 誕生日
デコレーションケーキ 1つ (子供用)」 ヒロさんは、申し訳
ない気持ちでいっぱいになりました。
(こんな時だからこそ、ケーキを食べて元気を出して
ほしいのに・・・) ケーキ職人として大事な時に力を発揮
できないやるせなさを味わったのでした。
その翌日もやることは片付けと注文客への返金だけでした。
余震が起こるたびに、不安が襲いました。
お母さんと二人では、片付けも容易には終わりません。
店の前を歩く人はほとんどいませんが、県内外のパトカーや
消防車そして自衛隊救援部隊の車が往来するように
なりました。
そんな午後、またあのおじいさんが店にやってきました。
「……あのう…」 「ああ、フジイさんですね。
昨日は申し訳ありませんでした。確認したら、誕生日ケーキの
注文を承っていたようですね。本当に申し訳ありません……」
と、ヒロさん。
「……あのう…ケーキでなくとも、クッキーでもチョコレート
でも何でもいいんですが、いただけないでしょうか」 しかし、
店にはクッキーもチョコレートも何もありませんでした。
震災直後に食べられる商品はすべて避難所に届けた
のでした。そのことをヒロさんはていねいに説明し、ふたたび
お詫びしました。
おじいさんは、 「……そうですよね……わかっています。
……ただ……注文していたケーキは3歳になる孫の誕生日
祝いのケーキでした。私の息子と嫁さんの子どもです。
息子夫婦は、街でちょっとした商売を営んでいて、日中は
孫を私と妻のばあやがみていました。
でも、大津波が自宅兼店舗を襲い、息子も嫁さんも津波に
のまれてしまったのです。
一人息子の誕生日プレゼントだったのでしょうか、嫁は孫の
好きなパンダのぬいぐるみが入った箱を抱きかかえていました。
……本当は、ケーキどころではないのかもしれません。
いやあ、失礼しました……残された孫が不憫でならないのです。
……せめて何か、ケーキでなくとも孫が喜ぶお菓子があれば
と思って………」 そう言って涙をぬぐったのでした。
ヒロさんもおじいさんの話に、涙をこらえることができません
でした。 ヒロさんのお母さんがポツリと言いました。
「……ヒロよ、なんとかしてあげたいね……」
「うん……でも……」
おじいさんは、 「……無理なことを言ってしまってすみません。
ご迷惑おかけしました……」
ヒロさんは、何を思ったのか、 「フジイさんちょっと待っていて
ください」 そう言って、店の裏にあるケーキ工房に行きました。
ケーキ工房も乱雑なままです。やっとで電気の通っていない
冷蔵庫を開けると、寒さが幸いしてか、バターが溶けずに
ありました。
生クリームはできないけれど、バタークリームなら何とかなる
かもしれない、そう思ったヒロさんはすぐに店に戻り、
「フジイさん、なんとかします。ケーキをつくります。
明日のこの時間までに誕生日ケーキを作っておきますから、
来てください」
「えっ、できるのですか?ほんとうに?無理はしなくていい
ですからね……」
「いえ、お約束します。私はこれでもケーキ職人を40年近く
やってきたんです。ケーキに関してうそは言いません」
おじいさんは、何度も頭を下げて、お礼を言い、店を後に
しました。
翌日、おじいさんは孫と一緒に手をつないで店にやって
きました。
ヒロさんはバターで丁寧にクリームを練り上げ、比較的乾燥
していないスポンジケーキを選び、散乱した食材から使える
ものを取り出して、パンダの顔をデザインしたバターケーキ
を作ったのです。
パンダのケーキを見た孫は、とび上がって喜び、おじいさん
に抱きつきました。おじいさんも笑顔でした。
悲しみの中にあるひと時の喜びでした。
しかし、今は一瞬の喜びでも、この喜びが未来への希望に
つながっていくと、ヒロさんは思ったのでした。 ・・・・・・」
昨冬まで使っていたファンヒーターが不調のため、買い替え
ようと家電量販店に行った。
店員さんの詳細な説明を聞いている間、洋介は機嫌よく
広い店内を歩きまわっている。
今年、高校生になった長女が後ろについて歩いてくれていたが、
しばらくすると、暗い表情で戻ってきた。
「ここ、マスクしてないと入れなんじゃないの?……と、
わざと聞こえるように言われた」という。
自閉症の人には珍しくないが、このコロナ禍にあっても、
洋介はマスクをしていることができないのだ。
誰もが感染に対して神経質になっているご時世、僕らは
何を言われても仕方ないな、と思っているが、思春期の
娘にはかわいそうなことをした。
感覚過敏で5分が限界
新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた4月頃、
洋介にもマスクが必要だろうと、何度か試してみたものの、
近所のスーパーに入って5分もすれば自分ではぎ取って
しまう。
服の刺激が嫌いで脱いでしまうなど「感覚過敏」がある人では、
マスクをすることも難しい。
マスクができない認知症高齢者への理解を求めていたが、
洋介に限らず自閉症などの人と家族にとっても、コロナ禍の
マスク問題は悩みの種となっている。
店員さんが顔見知りのスーパーなど、身近な施設では
マスクなしでも大目に見てくれている。しかし、好きな人には、
顔を数センチまで近づけるくせがあるので、ひやひやする
こともある。
見知らぬ人の中は怖いので、春以降、遠出や電車移動は
していない。洋介が通う通所施設でも、一部、頑張って克服
した人はいるものの、大部分の利用者が今もマスクができ
ないため、施設からお出かけする際は広い公園など野外を選び、
他の人たちにできるだけ接近しないようにしているという。
施設では「マスクをつけられません」と書いたプレートを
作っていて、洋介も一つもらって身に着けている。
通所もショートステイも使えず このコロナ禍で、障害のある
人たちの暮らしも様々な制約を受けている。洋介も例外
ではなく、緊急事態宣言が発令された時期は、通所は自粛、
ショートステイも使えず、自宅にじっとしているしかなかった。
いつもの生活パターンが崩れることは、自閉症の人にとっては
大きな負担となり、先の見通しがつかない不安とストレスで
パニックを起こすことは想像に難くない。
ところが、洋介がどうだったかといえば、昼間からアニメの
DVDを見ながら、仏壇に供えたお菓子を食べたりして、
特に変化を気にする様子もなかったのには拍子抜けした。
近所の店に買い物に行く、誰かを駅まで迎えに行く、といった
ことでも、洋介にとっては十分、気分転換になるようだった。
しかし、他の家庭の話を聞くと、かなり大変だったようで、
日ごろのパターンが崩れることにより、混乱して大騒ぎに
なったり、お店に入れない代わりに、ひたすら長時間のドライブ
を強いられたりと大変な思いをした保護者もいたという。
ずっと家にいるのもストレスだが、通所して万一、感染する
のも怖い。 ほぼ以前のように通所できるようになってからも、
ほとんどの利用者はマスクをできないので、施設でも感染防止
には相当、神経を使っているようだ。
食堂の密を避けるために、職員は寒空の下、屋外で昼食を
とっているというから、頭が下がる思い。
ロボットに追われる?
大阪では、マスクを着けていない客を見つけて注意する
「接客ロボット」が開発され、実証実験を始めて、店舗で
活躍したとか。
このニュースを読んで、ロボットに追いかけられ、店内を逃げ
惑う洋介の姿が一瞬、目に浮かんだ。こういう接近のされ方は
苦手なのだ、
たぶん。そんな時代が来る前に、新型コロナが終息すること
を祈るばかりである。 ・・・