ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(16:松井田) 群馬県松井田町 9km 2013.3.29


(写真は、高杉晋作・西郷隆盛の指名手配書)

松井田宿は、信州諸藩の年貢米が、一旦、ここに集積され、
それから江戸へ搬送するための中継地でした。

しかし、全てが江戸へ運ばれる訳ではなく、一部はここで
売却されたので、松井田宿では、米相場が立つ様になった
そうです。

また、松井田宿は、妙義山への追分でもあり、中山道の旅人
だけでなく、妙義山詣での人々でも賑わっていたそうです。

その妙義山詣での登山口の表示が、松井田宿に入った直ぐの
街道沿いの「かんべや」の古い看板として残っていました。



(妙義山)


松井田宿は、本陣の名残は何も残っておらず、電柱に
説明書きがあるのみです。

でも、旧道沿いには、下の写真の様に、趣きのある民家が
点在します。






・不動寺

 街道を少し右に入った場所に、不動寺があります。

 立派な山門の両側に写真の真っ赤な仁王様が立っています。



 山門の前に、卒塔婆(そとば)の役割をしていたという
 「板碑」がありました。松井田宿は、お寺や公民館の前
 に、トイレがあり、非常にありがたいです!

・松井田城址

 街道の右側に、写真の石垣があり、普通の石垣だと思って
 通り過ぎようとしましたが、説明板があり、これによると、
 この石垣が松井田城址とのこと。
 松井田城は、戦国時代は、小田原氏の北関東の守りの中心
 でしたが、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に落城し、その後は
 再建されなかったそうです。

・補陀寺

 石垣の隣には、北条氏の家臣・大道寺の菩提寺である補陀寺
 があります。
 北条氏を滅ぼした加賀藩・前田家の大名行列が、この補陀寺
 の前を通過するときには、墓が悔し涙を流すそうです。
なるほどね~!



宿場町を抜けて、信越線の踏切を渡り、国道18号を斜めに
横切り高速道路の下をくぐると、やがて五料の茶屋本陣です。




・五料(ごりょう)の茶屋本陣
(お西茶屋本陣とお東茶屋本陣)
 茶屋本陣は、信越線の線路の向こう側にあり、一般公開
 されています。
 信越線の踏切を渡り、茶屋本陣へ向かうと、入口の左手が、
 お西茶屋本陣で、右手がお東茶屋本陣です。




 写真の様に、どちらもお茶屋とは思えないほど立派で、
 普通の本陣よりも立派かもしれません。






 お西茶屋の2階は資料室になっています。

 写真は、その資料室に展示されている「高杉晋作」と
 「西郷隆盛」の指名手配書である人相書です。
 二人は、幕末には、幕府からすると、お尋ね者だった、
 ということなのでしょうかね。


(お東茶屋本陣から妙義山を望む)








・夜泣き地蔵


 街道は、カーブを描いて、やがて国道に突き当たりますが、
 その手前の信越線の踏切を渡り、急な坂道を登ってゆくと、
 坂の途中の左手に、夜泣き地蔵がありました。

 写真の右端の大きなお地蔵様が夜泣き地蔵だそうです。

 旅人が、荷物のバランスを取るために、ここに落ちていた
 地蔵の首をつけて深谷まで行き、用済みになったので、
 首を道端に捨てたところ、その首が夜な夜な”五科悲しや”
 と泣いたそうです。

 そこで、深谷の人が、首をここまで運び、首を付けて
 あげた、ということです。








夜泣き地蔵を過ぎ、信越線沿いの細い旧道をしばらく歩くと、
やがて下り坂となり、信越線の踏切を、臼井小学校の側へ
渡ります。
街道の両側に、道祖神や「百合若大臣の足痕石」などを
眺めながら、再度、信越線の踏切を渡ると、やがて信越線の
終点・横川駅に到着します。





ここで、懐かしの荻野やの釜めし弁当をお昼に食べます。

・横川関所跡

 横川駅の奥に、横川関所跡があります。

 下の写真は、旅人が手形の改めを受ける際に、手をついた
 という「おじぎ石」です。


一路(下)
浅田 次郎
中央公論新社

浅田次郎著「一路」では、やっとの思いで松井田宿に到着
した大名行列は、主君の左京大夫が急病で寝込んでしまい、
当時、天下の大罪である”参勤の到着遅れ”の危機が迫って
きます!
大名行列は、武士にとっては旅行ではなく、軍事訓練の一つ
の行軍訓練でした。そう、江戸入りの遅れは、武士にとって
は、合戦における着陣の遅れに等しかったのです。
主人公の大名行列が、幕府から許された旅程は13日間で、
ごれは幕府の厳命です。
(厳しい!私なら13日間では絶対に無理!)
そこに救いの神「安中の遠足(とおあし)」が現れます。
そう、前の安中宿で書いたあの安政遠足(侍マラソン)です!

左京大夫と親しかった安中藩主の命を受け、精鋭の3名の
安中藩士が、到着遅延の届出状を携えて、昼夜を問わず、
一気に江戸城までの130キロを走り抜けたのです。
信越線の終点駅・横川から横浜へ帰ります。

松井田宿から坂本宿までは意外と距離があり約9キロです。

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コメント一覧

更家
横川関所の取り締り
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
旅人が手形の改めを受ける際に手をついた「おじぎ石」が未だ残っているというのは、面白いですよね。

仰る通り、鉄砲の江戸への持込を厳しく取り締まったのですが、地元の人の話によると、実際に、鉄砲を江戸に持ち込んだ事があったそうです。

その方法というのは、中山道には女街道という抜け道があり、この道は横川関所を通らないですむので、横川関所の手前で、男女が別れ、女性に鉄砲を覆った包みを持たせて女街道を行かせ、横川関所を抜けてから、合流して鉄砲を受けとっていたそうです。

この様な、ガイドブックには書かれていない地元の人の話を聞くのも楽しいですよ。
○ちゃんです
横川関所(ToT)/~~~
横川関所では鉄砲の江戸への持込と、江戸諸大名の妻女が関外に出るのを厳しく取り締まったとのことです、横川関所の写真から当時の関所の様子が少し感じ取れます(^u^)関所の貴重な写真有難うございます(ToT)/~~~
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