(写真は、野田尻宿の町並み)
「野田尻宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠9軒でした。
ひとつ手前の「鶴川宿」と同様に、鶴川が水量が増して川留に
なると、大いに賑わいました。
安藤広重は、ここ野田尻宿に宿泊したときの様子を、「小松屋
といへるにとまる。広いばかりにて、きたなき事
おびたゞし。」と酷評しています。
野田尻宿の町並みは、残念ながら、明治19年の大火で、
跡形もなく燃え尽きてしまいました。
野田尻宿に入ると、右手に「明治天皇御小休所址碑」が
ありますが、ここが「宮田本陣」跡です。
宮田本陣跡の道路向いに上の写真の「野田尻宿碑」が
ありました。
野田尻宿碑の後ろの家は、「旅籠・大黒屋」跡です。
上の写真の「犬嶋神社」は、野田尻宿の鎮守です。
以下は野田尻の町並みです。
野田尻宿を出ると、緩やかな上り坂になります。
緩やかな上り坂の左手に、上の写真の「お玉ヶ井碑」が
建っています。
伝説によると、昔、野田尻宿の旅籠の美しい女中の
「お玉」が、長峰の池に住む「竜神」と恋仲に
なりました。
しかし、お玉は、旅籠の主人に注意されたために、姿を消して
しまいます。
すると、旅籠の前に置いてあった手桶から水が湧き出し、
お玉は「竜神」と結ばれて竜になりました。
これは、お玉は念願の竜神との恋が叶ったので、水不足に
悩んでいた野田尻宿の人々のために、ここ「お玉ヶ井」に
水を湧き出させたのだそうです。
緩やかな上り坂の正面は「西光寺」です。
「西光寺」は、824年創建の臨済宗で、この辺りの臨済宗の
本山です。
西光寺の前のY字路を、右手の上り坂に入ります。
その上り坂を先に進み、道標「旧甲州街道 大月・甲府方面」
に従って、左手の「北久保橋」で中央高速を跨ぎます。
北久保橋を渡り終わると、土の道になりました。
土の道を進んで行くと、県道30号に出たので、ここを、
「犬目・鳥沢方面 旧甲州街道」の木製の道標に従って
右折します。
県道30号を更に進んで行くと、右手の擁壁の先に
「荻野一里塚跡」の解説板がありました。
この荻野一里塚は、江戸日本橋から20里目(80キロ)
です。
次回は、この一里塚から、更に、甲州街道の最大の難所だった
「座頭ころがし」を越えて、次の「犬目宿」へ向かいます。