(写真は、大椚観音堂の二十三夜塔)
鶴川宿のメインストリートを出て、「旧甲州街道(大月・甲府
方面)」の標識に従って、坂を上って行きます。
やがて、Y字路の分岐点があり、これを右折すると、
下の写真の古い蔵がありました。
更に、竹林や雑木の中の緩やかな上り坂を進んで行きます。
やがて、道は緩やかな下り坂になり、中央高速の側道に
出ました。
その側道を暫く進むと、左手に「鳶(とび)ケ崎橋」があり、
この橋で中央高速を跨ぎます。
鳶ケ崎橋を渡り、急な上り坂を進んで行くと、左手に
下の写真の「大椚(おおくぬぎ)一里塚」跡碑が
ありました。
日本橋から数えて19里目(76キロ)です。
大椚一里塚から、更に、緩やかな上り坂を進んで行くと、
上の写真の1800年建立の「廿三夜(にじゅうさんや)塔」
(注)がありました。
(注)廿三夜塔:月を信仰の対象として、「講中」といわれる
仲間が集まり、悪霊を追い払うために、陰暦の23日の夜に、
月待ちをする行事。(二十三夜待ち)
当日の夜は、お経を唱え、飲み食いや雑談をして夜更かしし、
月の出を拝みました。
その供養を行った記念として建てられたのが、上の写真の
「廿三夜塔」で、月待塔(つきまちとう)とも呼ばれました。
廿三夜塔から、更に、緩やかな上り坂を進みます。
緩やかな上り坂の左手に、上の写真の「大椚(おおくぬぎ)宿
発祥の地」の朽ちた木の標柱がありました。
大椚宿は、前の鶴川宿と次の野田尻宿との中間に位置する
「間の宿」(あいのしゅく) でした。
「大椚宿発祥の地」の標柱の右横にあるのは、1777年建立の
「秋葉山常夜燈」です。
大椚宿発祥の地標柱から、更に、緩やかな上り坂を進みます。
緩やかな上り坂を進んで行くと、左手に写真の「大椚
(おおくぬぎ)観音堂」がありました。
観音堂の境内には、写真の「廿三夜塔」(注:前述)などの
石塔がたくさん並べられていました。
観音堂の境内の奥には、上の写真の「吾妻(あずま)神社」が
ありました。
案内板によると、神社の境内にあった大椚(おおくぬぎ)が
地名の由来でしたが、残念ながら枯れてしまったそうです。
大椚観音堂を出て、緩やかな下り坂を進みます。
やがて、緩やかな下り坂は、中央高速に沿った道に
なりました。
やがて、中央高速沿いの道の左手の小公園に、下の写真の
「古池や かわず飛びこむ 水の音」の「芭蕉句碑」が
ありました。
案内板によると、この小公園の東側に「濁り池」、更に
その北西に「殿の井戸」があったそうです。
ただし、芭蕉の前頁の句の古池は、この「濁り池」とは
直接の関係はなさそうです。
この「濁り池」は、中央高速の建設の際に埋められた
そうです。
芭蕉句碑の横に上の写真の「長峰砦跡」の碑がありました。
案内板によると、武田信玄は、甲斐の国(山梨県)の東口を
北条氏の侵略から防衛するために、この地に「長峰砦」
(中世の山城)を築いたそうです。
この地は、甲斐・武蔵・相模三国が国境を接する地なので、
“境目の城”と呼ばれました。
この「長峰砦」跡は、中央高速の建設工事の際の発掘調査
によって、郭、堀切、横堀の跡が発見されましたが、
この史跡も、工事完成時に埋め戻されました。
小公園から先に進んで、新栗原橋で、中央高速を跨ぎ、
坂道を下って行くと、切通しの間から、先方に集落が
見えて来ました。
あの集落が次の宿場町の「野田尻宿」の様です。
鶴川宿から野田尻宿までは約 4キロです。