![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/1d/5630fae44073550d51d7421729939c68.jpg)
(写真は、修復された日光東照宮の”眠り猫”)
本日は、午前中に、日光街道の最後の宿場である「鉢石(はつ
いし)宿」の見物を既に終え、午後は「世界遺産・日光
東照宮」を見物してから横浜に帰る予定です。
日光東照宮の見学の前に、”幕末の日光(鉢石宿、杉並木、
東照宮)”について説明しておきたいと思います。
鉢石宿の外れの金谷ホテルへの登り口のところに、次頁の写真
の「板垣退助像」があります。
何故、ここに「板垣退助」の像があるの?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
板垣退助の像がここに建ったのは、戊辰戦争のときに、
新政府軍と旧幕府軍がここで衝突した際の以下のエピソード
によるものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/1b/53b9d05eac596f79a09f231f93b89b11.jpg)
「錦の御旗」を掲げて北上を続ける新政府軍に対し、旧幕府軍
は「東照大権現の御旗」を掲げて交戦します。
最も激戦となった宇都宮城の攻防戦で勝利した旧幕府軍は、
勢いに乗って、日光を拠点にして会津藩や仙台藩と連携して、
連合戦線を築こうと「日光廟」へ向かいます。
また、宇都宮城の攻防戦で負傷した土方歳三らは、「大鳥
圭介」率いる旧幕府軍に合流して、会津藩士らと共に
「日光廟」に立て籠もりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_shock_s.gif)
日光廟に立て籠もった大鳥圭介軍に対し、地元の僧侶は、
東照宮を戦火から守って欲しいと、旧幕府軍と新政府軍の
双方を説得します。
この説得を受け入れて、「板垣退助」は、旧幕府軍が会津への
撤退を完了するまでの間は、攻撃を差し控える旨、大鳥圭介に
伝えます。
大鳥圭介は、板垣退助との約束を信じ、旧幕府軍は日光廟を
抜け出して、会津まで退きました。
こうやって、東照宮は、戊辰戦争の戦火から辛くも逃れること
が出来たのでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hakushu.gif)
また、この一方で、これに伴う悲劇も起きました。
東照宮の参道を下りた突き当たりの所に、下の写真の「八王子
千人同心」碑が建っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/7a/898a0b77d0464e1f55e150d0218b72b8.jpg)
碑には、「日光火之番 八王子千人同心 顕彰之燈」と刻まれて
います。
「八王子 千人同心 」の役目は、東照宮の警備であり、千人
同心の頭1名と同心50名で、半年交代で警備していました。
新政府軍が日光に進軍して来たときの千人同心の頭は、石坂
弥次右衛門(やじえもん)でした。
弥次右衛門率いる八王子千人同心は、大鳥圭介率の指示に
従い、刀を交えることなく、日光廟を新政府軍に明け渡し
ました。
その後、弥次右衛門は、千人同心の仲間達から、戦わずして
日光廟を明け渡したと非難されます。
任を解かれた弥次右衛門は、八王子に戻りますが、帰郷した夜
に切腹しました・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
![]() | 一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2) |
アーネスト サトウ | |
岩波書店 |
幕末の英国外交官だったアーネスト・サトウは、親しい間柄
だった大隈重信に、戊辰戦争の戦況を聞いた内容を、
「一外交官の見た明治維新」の中で、以下の様に書いています。
(岩波文庫:上下各840円)
13日に日光付近の今市で戦闘があり、官軍はこれに勝って
進撃中である。
大隈重信の藩主である肥前侯は、今市の町のある下野
(しもつけ)まで進撃した自藩の部隊から、 藩主自ら攻撃の
指揮に当たる様に要請されたが、家老達がその出陣を思い
止まらせた。
そして、旧幕府軍が日光廟を抜け出して会津まで退いた後に、
大隈重信から聞いた話しとして、以下の様に書いています。
進撃中の官軍が長岡を占領したあとも戦闘は続いており、
両軍の損害は共に多く、新潟は未だ会津藩士の手中にある。
官軍は、地歩を確保しながら増援を待っているが、増援部隊
が到着すれば、白河と秋田から来援する部隊をも加えて、
一気に会津の首都・若松まで進撃する予定である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/0f/9d9c3b67cf7227ab76fb7fe8de9c5f03.jpg)
「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡ると、正面に上の
写真の「杉並木寄進碑」があります。
この碑は、大沢宿の手前にあった碑と同様の趣旨の「杉並木
寄進碑」です。
日光杉並木は、川越城主の松平正綱・信綱(別名”知恵
伊豆”)の親子が、二十数年をかけて20万本余りを植栽
しました。
現在は、日光街道と例幣使街道、会津西街道の計37キロに
わたり約12,000本が残され、唯一、特別史跡と特別天然
記念物の二重指定を受けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
明治5年、アーネスト・サトウは、宇都宮宿で人力車を
手配し、杉並木の中を走り抜けて「鉢石宿」に宿泊しました。
このとき、サトウは、初日に宿泊した脇本陣から、翌日は旅籠
へ、その翌日は他の旅籠へとたらい回しにされます。
徳川幕府の聖地だった日光の人々は、明治初期には、未だ
外国人の宿泊を忌み嫌っていたらしいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
江戸時代には、日光山の門前町として大いに栄えた「鉢石宿」
も、サトウ一行が訪れたこの頃には、幕府の庇護もなくなり
寂れかけていました。
明治政府は、財源確保のために、日光杉並木の大量伐採を計画
していました。
アーネスト・サトウは、英国大使を動かして、杉並木の文化
価値を明治政府に強く進言、伐採を思い止まらせました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hakushu.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡り、石段を登ると、
もう「日光東照宮」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/54/ced630fd4f73a5fdfce5b23d7b39e6af.jpg)
日光東照宮への入口である「日光橋」の左手には、上の写真の
「神橋(しんきょう)」があります。
この朱に塗られた橋は、奈良時代の1250年に、「勝道上人」
によって創建されたと伝えられる国の重要文化財で世界遺産
です。
このアーチ型の木造反り橋は、山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋
と共に日本三奇橋と呼ばれているそうです。
神橋の下を流れるのは、大谷川の清流で、神秘的な雰囲気が
漂います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_4.gif)
この様な神秘的な風景の中で芭蕉も句を残しています。
”あらたうと 青葉若葉の 日の光”
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/s2_sum_mount.gif)
(青葉や若葉に差し込む日の光は、この日光山のご威光そのもので、実に尊いものだ。)
そして、日光橋の右手前には、次頁の写真の「天海上人像」
があります。
天海上人は、108歳で亡くなるまでの間、徳川家康・秀忠・
家光の三代にわたって相談役として仕え、家康死後は東照宮
の創建に尽くした「日光山中興の祖」です。
それにしても、江戸時代に108歳とは凄い!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/0d/3559334cf2a96f90cc37c744eba8ceb7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/9d/fb9781101c29998640cee7e1c01d7b99.jpg)
前頁の「日光橋」を渡ると、いよいよ日光東照宮へ向かう
上りの石段です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/70/a99dd5e3a7d8bb68a9257f37fb3932f7_s.jpg)
東照宮は、1617年、二代将軍秀忠によって造営され、三代
将軍家光によって建て替えられて、現在の豪華絢爛な社殿群
になっています。
徳川家康を祀る境内には、国宝8棟、重要文化財34棟を含む
55棟の建造物が並びます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
東照宮は、今回、私が行った時は、数十年に1度の平成の
大修復中でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0142.gif)
境内に15ある重要文化財の社を、順番に修復してゆき、
全ての社の復中が完了するのは12年後だそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/b7/b2adc2894915d1c6a7727fb5cab3d3ed.jpg)
上の写真は、「輪王寺三仏堂」ですが、ここも残念ながら、
約50年ぶりの大修理が、約10年の歳月をかけて行われて
います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/0d/2b496af738531b2b8c6bb5cf5057fd21.jpg)
しかし、修理の第一段階として、三仏堂の大伽藍を覆う
「素屋根」が平成23年に完成していて、ここに「展望見学
通路」が設けられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
ここからは、三仏堂の屋根頂上と同じ高さから修理現場を
見られるので、逆に貴重な見学が出来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_4.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/7c/32a5f348bf628cafea128f8e8f79b381.jpg)
東照宮の表門を入り、陽明門へ向う途中の有名な”三猿”は、
前頁の8面のうち左から2番目(赤丸印)の画の「見ざる、
言わざる、聞かざる」の部分だけが修復を終えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_4.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/e5/055d272b3f014015080e6af597d2a875.jpg)
三猿の左右は、誕生から親になるまでの一生を、8面に
分けて表しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/10/783bbdf2d6f50df90f788d49498e6128.jpg)
上の写真は、日が暮れるのも忘れると言われる程に装飾が
豪華な「陽明門」ですが、こちらも残念ながら修復中でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0143.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/25/a6e215d581ea8c28104797eec4392dbe.jpg)
上の写真は、有名な国宝「眠り猫」です。
こちらは、丁度、60年ぶりのお色直しを終えたばかりで、
色鮮やかに復元されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_4.gif)
修復前は、猫は目を閉じていましたが、資料に基づき、
何と!、目を開けた姿にして修復したそうです!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
目を閉じている様にも見えますが、家康を護るために、目を
細めて、いつでも飛び掛かれる姿勢をとっているのだそう
です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
次頁の写真は、その「眠り猫の裏側」の2羽の雀で、平和な
時代を象徴しているらしいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/90/8fa898511c280fa8176d6e01fa4479f9.jpg)
眠り猫は、江戸時代初期の作品で、左甚五郎作との伝承はある
ものの、作者不明だそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/cd/4494eda817a9b012347111068e7a4714.jpg)
前頁の写真の五重塔では、ちょうど塔の内部の初公開を
やっていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
(東照宮五重塔の心柱特別公開(300円))
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/f6/335000e82f8077a7a690cfbe11cfcaa0.jpg)
上の写真ではちょっと分かり辛いですが、心柱(しんばしら)
の下は浮いており、塔と分離した心柱は、免震の機能を
果たしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
そして、この心柱の技法は、東京スカイツリーに活かされて
いるそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
そうか!
入場のときに配られたクリアファイルに、五重塔と並んで
スカイツリーの写真があるのはそう言う意味なんだ!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/28/f8ad1b0af307a79835167313d874e7b8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/db/154ed2124ea44f08c19efccf90b52975.jpg)
上の写真は、「輪王寺大猷院(たいゆういん)」の山門で、
三代将軍家光の霊廟です。(550円)
この大猷院の本堂も、残念ながら修復中でしたが、下の写真
の鐘楼などは見られました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/ec/ed344ea2d58dc532ef799e78227de6b7.jpg)
東照宮を凌いではならないという家光の遺言により、黒と金を
基調とした落ち着いた造りに抑えられているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/5c/60503150d6c4b1247f909950eeb669ce.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/31/69d8c9f5d763d37be8b89ab0fbec5a67.jpg)
![]() | 完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫) |
イザベラ・バード | |
平凡社 |
最後に「家康の墓」に行きますが、ここについては、
明治11年に書かれた英国旅行家のイザベラ・バード
「日本奥地紀行1」(平凡社:3,240円)に記載された
「家康の墓」についての紀行文に、私の写真を挿入して
ご案内します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/85/25b881b177f005b2383fea51e9ad4bd7.jpg)
「家康の墓」へ行くには、東回廊に設けられている坂下門を
くぐり、苔や二輪草の緑が目立つ石畳の参道に入って行く
ことになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/7c/f2256870fa9f6008696fef62bfe98cdd.jpg)
墓は、207段の石段を上った山の頂きの一番奥の高い所、
家康を称えて建立された全ての社殿を背後から見下ろす
かの如くにあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/4e/ddeeb9e338cb0ec2b99201cffde12f2e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/f9/c7468e4446a1074e53171fe546aa04be.jpg)
大きな石積みの上に青銅の壺が乗る簡素な墓(宝塔)で、
そこに家康の遺骸が眠っているのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/63/7b3cf3e4097af5bf8b3e489f8e070579.jpg)
宝塔の前には、石の台が置かれ、その上には、青銅の香炉と
青銅の鶴が乗っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/0f/5dd64341b3be5d6acf5f4d46beb1e477.jpg)
私は、石垣、石畳の参道、石段、石棚の柱石にも感服した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/a4/b3d7e76fbe8aa02a9eacd607e961532d.jpg)
これらは全て、漆喰やセメントを用いずに、極めて精密に
ぴったりと組み合わされている。
このため、260年も経っているのに、継ぎ目は、雨にも
湿気にも根付こうとする植物にもほとんど侵されていない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
背後の山に生成する杉の大木は周りを昼なお薄暗くして
おり、木漏れ日が斜めに差し込むだけである。
周囲の自然が、偉大な将軍の荘厳な墓を、悲しみをたたえ
ながらすっぽりと包んでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/s2_sum_mount.gif)
(以上、イザベラ・バード「日本奥地紀行1」から : 私の
文章ではありません、念のため・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/7a/9c7ab4d0e57b23e007f9b8adc55b5465.jpg)
東照宮を出て、東武日光駅から、JR新宿駅行きの東武電車に
乗って、横浜まで帰ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/e0/f96a2e2009a93a650d771f0aa132aecd.jpg)
東武とJRとの相互乗り入れの電車に乗るのは始めてです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
ps.
日光街道踏破の全行程は、ホームページ(「中山道を歩く
(完全踏破の一人旅)」)の欄外に、「日光街道」として補記追加しました。
また、ホームページ(「東海道五十三次を歩く(完全踏破の
一人旅)」)もありますので、こちらも併せてごらん下さい。
今後予定している奥州街道/甲州街道や横浜東京近辺の
ウォーキングは、引き続きこのブログ「ウォーク更家の散歩」
(http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie)でご覧下さい。