誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

春告知草も咲き 桜もそろそろ楽しみです。

2023年03月25日 13時49分57秒 | 日記

今回は東北一之宮 塩竈神社の桜をシリーズで紹介致します

今年もこのような美しい桜が咲くことでしょう。

(一)

 

 

 

 


かもうな すず風 第二之巻(七)

2023年03月25日 11時14分19秒 | 日記

青葉城恋唄 さとう宗幸 YouTube

かもうな

すず風 第二之巻(七)

   治郎は確信している。人も馬も互いに信頼し合うが、馬の人への信頼は命を賭しての

   信頼だ。人は裏切るが馬は決して人を裏切ることはしない。だからこそ人は馬を裏切

   ってはならない。

   宝暦二年(1752)二月しては珍しく暖かく、すず風に乗馬して東六番丁を通ると白馬

   に乗った同じ歳くらいの青年に出会った。この辺は五百石取り以上の屋敷が多く、大

   き薬医門から見える屋敷杜も堂々たるものであった。

   あの若侍は誰だろう。

   それにしても白馬に朱漆の三懸(さんがい)とは見事なものだ。

   しかも弓手(ゆんで)に手綱、馬手(めて)に四尺位の棒を抱えている。

   じっと見つめている治郎にその若侍が気づいたのか、白馬の若侍は治郎に向かって軽く

   会釈した。治郎は慌ててすず風を止め会釈を返したが、我ながらそのぎこちなさに恥じ

   いるのだった。

    参)騎乗の場合、自分より格上の武士に出会ったら馬を止め馬上から会釈するのがこの時代の礼儀であった。

   これが治郎にとって宿命の出会いになるとは未だ知るよしもない。

    参)三懸とは、馬の顔や胸(胸懸)、尻(尻懸)の飾りを総称して三懸という。

                 ・・・続く・・・

青葉城本丸御殿図

 


かもうな すず風 第二之巻(六)

2023年03月24日 14時56分02秒 | 日記

広瀬川慕情 野路 由紀子

かもうな

すず風 第二之巻(六)

   右に清流青葉川(広瀬川)、左に青葉山峡谷を望み、遥かには花壇が見えてくる。

   すず風は放たれた蝶の如く追廻馬場を幾度となく駆け抜けた。

   いよいよ立ち透かしの大技に入る。治郎は手綱を抑え馬場に円を描くかのように

   すず風を走らせた。

   衣鐙をしっかりと踏みしめ走行の衝撃を吸収し、腰より上の安定を図りつつ馬脚を

   一段と早くしすず風の能力を最大限に発揮させる。

   既にすず風の軀は汗で濡れていたがそれに耐える力を持っていた。

 

   治郎とすず風はそのとき何を思って居ただろうか。

   この世で生を受け互いに出会えた喜びと、二度とは繰り返しが効かない人生の大切

   さを感じていたことだろう。

   すると突然中廐の方から「見事」という言葉と共に「ワアー」という歓声が上がり

   拍手が聞こえてきた。驚いたのはすず風である。

   治郎はすず風の首筋を優しく撫でながら素早く体制を立て直すと再び立ち透かしの

   大技に入る。

   運命の神は治郎に駿馬を与えたのであった。

   声の主は勘定奉行の星清左衛門で、側には御用馬方の戸津新之丞と厩頭の鈴木与一

   郎が笑顔で控えている。

   「お見事で御座った。さて貴殿の名はこの与一郎から聞き申したが、お住まいはど

   ちらかな。」

   「はい 東一番丁の梅屋敷でございます。」と治郎は屈託がない。

   「それにしてもあのような見事な立ち透かしは近年見たことがない。誰に主従なさ

   れたか」

   「はい 父で御座います」

   「時右衛門殿がのう。人は見かけによらぬもじゃて、精々お励みなされ」と小太り

   の軀を揺すらせながら二ノ丸に向かって歩きだした。

               ・・・続く・・・

 

 

 


かもうな すず風 第二之巻(五)

2023年03月23日 10時47分51秒 | 日記

かもうな

すず風 第二之巻(五)

     一方、追廻馬場では若い藩士たちの騎乗訓練が行なわれていた。

     本日は馬術指南の佐久間久兵衛は心の臓の病にて休み、代わって御用馬方の戸津

     新之丞が代役での務めである。

     初めに御用馬方の指示に従い馬の手入れをする。本来は中間の役目だが訓練中は

     各々がする。藁の束子で優しく馬の毛並みを整る。それが終わりに近づくと馬に

     ついての講義が始まる。

     運動前には餌を与えないこと、馬の胃は消化不要を起こしやすいので餌は数回に

     分けて与えること、水分補給は欠かさず、塩は餌に混ぜて食させること、後方か

     ら馬には近づかないこと等など仔細にわたっての講義が延々と続く。

     当時は天下泰平の世であり、武士たる者の本分「尚武の気風」も薄れ馬を飼う等

     は余計な手間暇が掛かる上に出費もかさむので、藩の御用馬で訓練したという。

     そのような中にあって治郎はすず風という持馬を持つことになる。

     和馬は西洋の馬と比べると小柄ではあるが強健だと云われている。

     80キロもある鎧武者を乗せて全力で疾駆するのだから強健だったことは間違いない。

     最初に居鞍乗りから始まり、それを習得したらやっと馬上の人となる。

     廐頭の号令を受けて騎乗し一人づつスタートする。

     一番手の日野助五郎は乗るのにやっとで馬に縋り付いてのスタート。二番手の佐伯

     右衛門は日頃の鍛錬の結果がでてどうにか走っている。

     「三番」と御用馬方の声が響くと、すず風の足が地面を掻いて空を描く、治郎は手綱

     を開きすず風の行きたい方に誘導する。

     手綱は麻製の段だら染で優雅な一品で治郎の意志を的確にすず風に伝える。

     治郎は背筋を張り坐骨を伸ばしすず風の疾駆を助けた。

                  ・・・続く・・・

 

 


かもうな すず風 第二之巻(四)

2023年03月18日 15時37分00秒 | 日記

かもうな

すず風 第二之巻(四)

 

    16歳になり治郎が待っていたお城の馬場である追廻での乗馬訓練が始まった。

    いつも側には養父時右衛門が付き馬術の基本である「居鞍乘り」から始まり

    「立ち透かし」技を伝授している姿が度々追廻馬場で見られた。

    当時、仙台城内の追廻馬場は藩子弟の乗馬訓練の場所とされ、長さは200間程

    、青葉川(広瀬川)河岸にありその敷地には北廐、中廐、外馬繋場が配置され

    藩の御用馬が数百頭余りが養育されていた。

    養父時右衛門の訓導そしてすず風との触れ合いによって治郎が馬の名手なるの

    は時間の問題だけであった。

    これまで養父時右衛門は「五島(ごとう)を忘るな、馬とて人と同じ心ぞ」と

    治郎を諭してきた。確かに治郎とすず風は友であり、血を分けた兄弟でもあった。

     ※「五島」とは、後藤信康の愛馬で、伊達政宗公に献上され大阪冬の陣の際は老齢のため参陣することが

     出来なかった。それを嘆き仙台城本丸から身を投げた伝説の名馬である。また一説には元の飼い主後藤信康

     恋しさに身を投げたという説もある。

    当時、仙台藩では百石以上の家臣は軍役規定により馬上出陣が義務付けられていた

    が、泰平の世になり、また相次ぐ飢饉などで持ち馬を所持するのは比較的地位の高

    い武士だけの特権となっていた。

      ※「居鞍乗り」とは、和式馬乗りの基本で馬の右側から乗馬する(西洋の馬は左から乗馬する)。

      左腰の帶びた刀が馬に当たらないよう工夫された乗馬方法。

      ※「立ち透かし」とは、和式鐙(西洋のと異なる)をしっかりと踏みしめそのバネの力で馬から

      の衝撃を吸収し、腰から上を安定させる馬上技。流鏑馬などで矢を射るとき正確な狙いができる。

                  ・・・続く・・・