誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 養子縁組 第二之巻(続き)

2023年03月08日 11時15分49秒 | 日記

かもうな

養子縁組 第二之巻

     時右衛門夫婦は養子となるべき佐藤長十郎の次男治郎左衛門に始めて逢う。

     ※ここからは治郎左衛門を治郎と呼ぶ。

     治郎は初めて逢う養父母に緊張しながらも正座をし、

     「この度はわざわざ仙台から私のためにお越し頂き有難うございます。未熟

     者ですがこれからよろしくお願い致します。」

     親に教えられたのか淀みなく挨拶をしたが肩が震えている。

     これから我が身に降りかかるであろう運命に抗う事ができない無力さを感じ

     ていたのである。

 

     運命とは人智の及ぶ所成、宿命とは人智の及ばざる所成、これを合わせて天

     命という。論語には「子曰く、吾十有五にして學の道に志し、三十にして立つ

     、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したがう)」

     とある。果たして治郎が天命を知るのは何時のことであろうか。

 

     幼き頃から慣れ親しんだ白石の町、ホタルが乱舞する清流、雪を抱いた蔵王連

     峰が治郎からいま離れようとしている。

     幼き治郎にとっては親兄弟と別れ見たこともない仙台での暮らしの不安は如何

     ばかりの事であっただろう。

                   ・・・続く・・・

 


かもうな 「養子縁組」 第二之巻

2023年03月06日 19時17分07秒 | 日記

かもうな

養子縁組 第二の巻(続き)

       白石城は標高76メートルの最項部には本丸、中の丸、西曲輪、中段には

       沼の丸、南ノ丸、巽曲輪、廐曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は

       空堀で斤陵を切断、館堀川で隔てた。平地には三ノ丸、外曲輪を配置し

       た平山城である。本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を囲み、三階

       櫓、巽櫓、坤櫓、裏大手門、裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物

       があった。

       二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわして崖を利用する等中世と近

       世城郭を併用した縄張りであった。 以上白石城・歴史探訪から引用

 

       大藩の多くが泰平の世に溺れ、武士たる者の本分が忘れ去られ、武士の一

       分が形骸化されつつある世において白石武士はなお「尚武の気風」を保ち

       続けた。

 

       「尚武の気風」とは、心身を強く持ち、勇気を持つことであり、さらに武

       を学び自己を確立し自立する大切さをいう。

       (有)フジックス社長はブログで、「これには陰と陽がある。陽は武道の

       技、それだけではなく陰の精神を尊ぶ心がけが必要」と説いている。

 

       さて白石藩士佐藤長十郎の屋敷は城から東の八幡山の麓で南ノ丸お堀近くに

       あり、至って質素な屋敷であったが、その佇まいは白石武士の質実剛健な気

       風が感じられたものである。

                    ・・・続く・・・

 


かもうな 「養子縁組」 第二之巻

2023年03月04日 11時09分53秒 | 日記

かもうな

養子縁組 第二之巻

 

         時右衛門夫婦に話に戻る。

         孫太郎虫で有名な斎川を過ぎると片倉小十郎の城下である。

         時右衛門夫婦は仙台から長町宿、中田宿、増田宿、岩沼宿、槻木宿、

         船迫宿、大河原宿、金ケ崎宿、宮宿、齊川を経て白石に到着したの

         は延享三年七月五日四ッ時(午前10時頃)であった。

 

         時右衛門の道中日誌にはこのように記している。

         「奥州街道を上りて白石に向う所に金ケ崎宿あり、白石藩足軽ども

         常駐し伝馬役を務めその屋敷の門、白石に向きたるなり。しかるに

         百姓どもの門は仙台に向きたる。真に面白き宿なり。」

         「また此の地には白鳥を神の使いとして尊ぶ風習あり、その碑寛文

         十三年(1673)及び元禄十二年(1699)二碑を見たり」

 

         少し片倉小十郎を紹介したい。

         「伊達軍団の弓取りたち」から引用すると。

         片倉小十郎景綱といえば、政宗の幕営にあって知識の聞こえ

         高かった名参謀として名高い。

         梵天丸といった政宗の幼少時代傅り役として訓導し、長じて

         その帷幕の軍師となって陰に陽に政宗を教導した人物である。

                   ・・・続く・・・

 


かもうな 「養子縁組」 二之巻(続き)

2023年03月03日 19時44分26秒 | 日記

かもうな

養子縁組 二之巻(続き)

            日頃のご無沙汰を侘び、次いで近況報告があり最後に養子縁組の話が綿々と

            書き綴られていた。

            内容はこうである。

            寛保三年(1743)不審火により白石藩勘定所が焼け、保管してあった諸記録

            が消失する事件があった。(白石藩主片倉小十郎村兼の時である。)

            当時、勘定方役であった佐藤長十郎が職務柄忘備録を記していたのが幸いして

            その上役である宍戸七郎右衛門の首が繋がったこと、さらに長十郎の律儀さを

            褒めその子ならばという文面であった。

            兼ねてより宍戸七郎右衛門の高潔な人柄を高く評価していた時右衛門は夫婦で

            白石に向かうのだった。

            仙台藩道中物語の「上り新道中歌往来」から引用すると

                長町や中田増田も早過ぎて 岩沼御経たて八楠木

                船迫こゆる荷物は大河原  さけた財布も重い金ケ崎

                宮でのむ酒は白石斎川   水おも入れずこす河の関

                また東北の街道「大藩の気風」には

            仙台藩は何事についても統制の激しい大藩である。

            藩境には越河宿(こすごう)宿があり境目足軽が集住し、藩堺を越える人、者

            を改を行っていた。

            藩主の参勤交代時にはここまで重臣たちが送り迎えし、仙台城下まで各宿駅に

            には重臣や家臣が斑を編成し詰めたのであった。

                         ・・・続く・・・

 


かもうな 養子縁組 一之巻

2023年03月02日 20時11分43秒 | 日記

かもうな

養子縁組 二之巻

                   そのような時右衛門夫婦には一つの悩みごとがあった。

                   後を継ぐべき子が無かったのである。当時子が無ければお家断絶の

                   憂き目に合うのは必定だった。時右衛門はいう。

                   「武士たる者なんの未練があろうか、このまま野辺に朽ち果てようぞ

                   夢々この世に未練など残すでない」

                   諦め半分妻お豊に言い聞かせるだが、その寂しさだけは拭い切れなかった。

                   時は、延享元年(1744)、時右衛門四十歳、お豊三十五歳の頃である。

                   養子縁組の話は過去に幾度かあったがその度に破談となっている。

                   その理由はこうである。

                   これまでの養育費が欲しいとか、借金の保証人になって欲しいなど人の弱

                   みにつけ込む輩が多かったからである。

                   時右衛門はその度吐き捨てるように

                   「人を何だと思うのか、犬や猫でもあるまい」

                   律儀な時右衛門はその度に怒る。

                   その様ななか、兼ねてより懇意の白石藩二番座七の宍戸七郎右衛門からの

                   文が届けられた。

 

・・・続く・・・