誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 集約(3)

2024年03月01日 10時10分17秒 | 日記

かもうな

           これは自分の体験だが、昭和34年まだ学生だった頃上京し親戚を訪ねた時、在郷(ざいご)から

           来たとよく云われたものであった。上野から仙臺までは各駅停車の所謂「鈍行列車」で、もはや記憶

           が薄れたが延々8時間も新聞紙を通路に敷き両足を抱えながらの我慢の帰郷であったと記憶している。

 

           話を本題に戻そう

           その知行地(在郷)からの収入で各武士の生計(たつき)を立てるのには、知行地から税(年貢)を

           取り立てる必要がある。時右衛門は一定の割合で税(年貢)を免除している。

           その理由はこうである。

           遡ること享保17年(1732)仙臺藩を襲った冷害による凶作、さらに災害が仙臺藩を窮地に貶めた。

           むろん百姓達の困窮は言うまでもない。これを「享保の大飢饉」称している。

            時右衛門の知行地、つまり在郷も例外ではなく惨状を極めた。

           在郷の百姓達を救うには税(年貢)の軽減しかない、

           それでは武士としての生計(たつき)が成り立たない。散々迷ったあげく考えついたのは自らの経費削減

 

          であった。

           髙橋家の陪臣2名、中間1名、小者1名に因果を含めそれ相当の支払いで永暇を出したのである。

           それだけではない。享保6年(1721)藩主伊達吉村公参勤交代に同行し、江戸の神田で古本屋から買い求めた

           「本朝食監」や「農業全書」を参考に、当時の仙臺では珍しかった「梅紫蘇」を製品化にすることに成功し、

           その作り方を在郷の百姓達に伝授した。

            当時は江戸でしかなかった梅紫蘇は仙臺では大いに重宝され、時右衛門はその利を百姓に与え自らは質素

           倹約に徹した。

           養子縁組

           そのような時右衛門夫婦には一つの悩み事があった。

           後を継ぐべき子が無ければこの髙橋家は御家断絶の世である。時右衛門は妻お豊に云う。

           「武士たるものなんの未練があろうか、このまま野辺に朽ち果てようと、夢々この世に未練を残すでない」

           自分に戒め半分、妻お豊に言い聞かせるのだが、その寂しさだけは払いきれない。

           時に時右衛門40歳、妻お豊35歳の頃であった。

            養子縁組の話は過去に幾度かあり、その度に破談となっていた。理由はこうである。

           「これまでの養育費が欲しい」とか「借金の保証人になって欲しい」など人の弱みにつけ込む輩に

           時右衛門が怒ったことが原因だ。時右衛門はその度に吐き捨てるように言う。

           「いったい人をなんだと思っているのか、犬や猫でもそれ相当の愛情が湧くのに」

           そのようななか

           延亮元年(1744)兼ねてより懇意の白石藩二番座七の宍戸七郎右衛門からの文が届けられた。

           日頃のご無沙汰を詫び、次いで近況報告があり最後に養子縁組の話が綿々と書き綴らていた。

 

           かもうな  集約(4)に続く

           

    

 

 

           

 


かもうな 集約(2)

2024年02月29日 21時32分29秒 | 日記

                       かもうな

 

                      一場の春夢

         文化12年(1815)春は朧、春告草が咲いている。

         仙臺藩士いや隠居の身、髙橋治郎右衛82歳は老いた身を床に伏し、肩に灸をしていた。

         近頃は軀の節々が痛い。とくに右首筋から右肩にかけて痛む。

         諦めが肝心肝心を心に言い聞かせると少しは楽になるから不思議なものである。

         ふと、李白の「静夜思」をつぶやく

                     床前看月光   (しょうぜんと月光を看る)

                     疑是地上露   (疑うらくは是れ地上の露かと)

                     挙頭望山月   (こうべを挙げて山月を望み)   

                     低頭思故郷   (こうべを低れて故郷を思う)

         己の人生とは地上の露であろうか、それとも一場の春夢なのか。

         無我夢中で過ごした若き時代、老いも知り老いを迎えた昨今、まだ答えは出てない。

 

         眠い。

         治郎は見た。

                  遠くに馬がいる。「すず風」だろうか。

                  確かに馬だ。馬が嘶いている。

                  なぜここに「すず風」がいるのだ。

                  「すず風」が。

         治郎は深い眠りに入った。

 

         奥州仙臺

         奥州仙臺は武士の街である。当時の記録によると、仙臺藩に「梅屋敷」と呼ばれる武家

         屋敷があった。薬医門をくぐり玄関に至る脇には馬の口と称される厩舎があるが、馬の

         姿も見えず屋敷の寂しさを一層と際立てていた。

         梅の花咲く季節ともなると奥州仙臺は長い冬から開放され、城下の人々は東一番丁の

         「梅屋敷」にと春を狩りに繰り出すのだった。

         

         宝暦2年(1752)屋敷の主、髙橋右衛門は平士250石、学問方目付で40歳、妻のお豊は

         35歳、この夫婦には子が恵まれず二人暮らしであった。

         年ごとの梅実の収穫と庭の手入れなどで寂しさを紛らわせていた。

         250石取りでもなると家来(陪臣)や中間、小者など5~6人は居ても良いのだが、この

         屋敷には姿が見えないのである。

         故に、時右衛門出仕の折には、いつも一人である。朋輩からのあだ名は「お一人さま」

         で通っている。

         時右衛門の名誉にために云うが、決してケチなどではない。使うべきには使う。

         食べるものは食べる。着るものは着る。ただただ質素にと云うだけである。

         これには理由がある。

         当時、仙臺藩では江戸の武士とは異なり俸禄米制度はなく、石高に応じた知行地を与え

         られていた。つまり仙臺藩士は藩から知行地を与えられその知行地から得た収入で生計

         (たつき)と立てていた。当時その知行地を「在郷」(ざいごう)と呼んだ。

 

                           集約(3)に続く

 


改めてこれまでの「かもうな」を集約します。初めに序文から 

2024年02月29日 20時29分14秒 | 日記

                          序文

    この物語の主人公は仙台藩士髙橋次郎左衛門の生涯を描いており、愛馬の駿馬「すず風」との出会いと別れを描き

    主人公の一生を生き様を表したものです。

    この物語のきっかけは我が家の家系図からのヒントです。ご先祖さん達を遡ると享保15年(1730)まで墓石から

    遡ることができました。ご先祖さん達はどこに住みどんな境遇で生活しお互いに慈しみあったか今となっては知る

    よしもありませんが、確かにこの世に仙臺に生を受けていたことは事実です。

 

    自分自身もこれまで数多くのペットとともに過ごし悲しい訣れを経験しました。

    それでも自分の周りには今だに可愛いペットがおります。ご先祖さん達もきっとペットを愛し慈しみ共に生活してい

    たと思います。動物も人間と何ら変わりがありません。

    慈しみ育てれば人間以上の愛を示してくれます。

    この物語の「すず風」は、主人公髙橋次郎左衛門と並ぶ主人公となっております。

    

    思いつくまま書いておりますので読みづらいこともありますが素人故ご勘弁願います。

 

                    かもうな 配役

    主人公:髙橋次郎左衛門 白石藩佐藤長十郎次男 仙臺藩士髙橋時右衛門に養子に入る。

    主人公:すず風(駿馬) 仙臺馬市から求む 

    次郎の養父:髙橋時右衛門(仙台藩士500石) 一番丁の通称「梅屋敷」

    治郎の養母:お豊

 

    集約(02)からこの物語が始まります。

 

  

 


嘘つきのお偉いさん(昨今の代議士を観て)

2024年02月29日 14時48分27秒 | 日記

これはいかなる新興宗教とも関係ありません。

 

大日月地神示 朗読「続」大日月地神示 2022.01.14 神世の仕組み

 

要約

嘘つきのお偉いさん ひざまついて詫びよ

口からでまかせ ホラ吹き 金集め

出世すると思うなよ

刑に処される者多数おるぞ

 

世のため人のためと申し

私利私欲満たす者

善の仮面被りた悪であるぞ

己の欲 どこからのものじゃ

よくよく聞いてみなされ

 

みなみな謝罪いたせよ

心入れ替えますと約束なされ

まずは、御人になる修行なされよ

皆々様、そこからやり直しじゃなぁ

 

己、魔のしもべとなりておらぬか

口から出まかせ、声ばかり大きな

ホラ吹きとなりておらぬか

 

仮面被りて人民だましておらぬか

金集め、人集めいたして

自己満足しておらぬか

 

人間が小さいのう

心の器が小さ過ぎるのぞ

 

全ては見られておりますぞ

そなたの所作、心持ち一切

ちゃんと見られておりますぞ


かもうな すず風 第二之巻(九)

2024年02月29日 13時42分07秒 | 日記

躑躅岡(榴ヶ岡)

                          宝暦二年(1752)清明の四月五日は穏やかな小春日和であった。                                       

                 奥州仙臺ではこの時期が一番住みやすい季節である。

 いつもは寂しい梅屋敷の前も軽やかに歩く人達の姿が見えるのであった。

 

 一方、梅屋敷では時右衛門が武士にあるまじく尻張折り(しりはしり)を

  して庭の手入れに夢中である。だいたい時右衛門は何事にもまめな性分だ。

出仕から帰宅すると継上下を脱ぎかえ着流しとなる。

水桶で顔手足を洗い、番茶を飲みながらの読書が始まる。

    腰の小刀は邪魔だと称し、扇子を帯に差して極楽、極楽と云っては笑っている。

 

    ちなみに、髙橋家の日課は明ヶ六ッ(日の出)と持って起き、暮六ッ(日没)に

    は寝るようにしている。「米一升、油三升」と云われたくらい当時の油は高かっ

のでそうならざるを得なかった事情もある。

 

    朝食はいつも一汁三菜、それを食べ終わるとお豊が時右衛門の月代(さかやき)

に剃刀をあて、櫛で鬢を整える。治郎はその次となる。

 

    昼食はぬきで夕飯も朝食と同じく一汁三菜であるが、時右衛門だけは朝食と夕飯

を晩茶のお茶漬けで過ごすことがある。

 

   今日は雲一つない快晴、次郎はすず風を駆って躑躅岡(榴ヶ岡)の桜見物にと

思い馬袴を穿き玄関に向かった。その時お豊(養母)が納戸から

「次郎 今日はすず風と躑躅岡に参るのですか」

「はい 天気も良いので参ります」

「私もお供してはいけませんか」と養母の控えめな声が聞こえた。

 

治郎は突然のことなので返事に窮しながら

「はい どうぞ」と云ったが、心ではすず風に乗馬できないという失望が

あったことは歪めない。

・・・・・次回に続く・・・・・

 

編集後記

妻が要介護2となり何かと忙しい毎日を暮らしています。

遅ればせながら続編を書いて行きたいと思っております

のでよろしくお願い申し上げます。