かもうな
これは自分の体験だが、昭和34年まだ学生だった頃上京し親戚を訪ねた時、在郷(ざいご)から
来たとよく云われたものであった。上野から仙臺までは各駅停車の所謂「鈍行列車」で、もはや記憶
が薄れたが延々8時間も新聞紙を通路に敷き両足を抱えながらの我慢の帰郷であったと記憶している。
話を本題に戻そう
その知行地(在郷)からの収入で各武士の生計(たつき)を立てるのには、知行地から税(年貢)を
取り立てる必要がある。時右衛門は一定の割合で税(年貢)を免除している。
その理由はこうである。
遡ること享保17年(1732)仙臺藩を襲った冷害による凶作、さらに災害が仙臺藩を窮地に貶めた。
むろん百姓達の困窮は言うまでもない。これを「享保の大飢饉」称している。
時右衛門の知行地、つまり在郷も例外ではなく惨状を極めた。
在郷の百姓達を救うには税(年貢)の軽減しかない、
それでは武士としての生計(たつき)が成り立たない。散々迷ったあげく考えついたのは自らの経費削減
であった。
髙橋家の陪臣2名、中間1名、小者1名に因果を含めそれ相当の支払いで永暇を出したのである。
それだけではない。享保6年(1721)藩主伊達吉村公参勤交代に同行し、江戸の神田で古本屋から買い求めた
「本朝食監」や「農業全書」を参考に、当時の仙臺では珍しかった「梅紫蘇」を製品化にすることに成功し、
その作り方を在郷の百姓達に伝授した。
当時は江戸でしかなかった梅紫蘇は仙臺では大いに重宝され、時右衛門はその利を百姓に与え自らは質素
倹約に徹した。
養子縁組
そのような時右衛門夫婦には一つの悩み事があった。
後を継ぐべき子が無ければこの髙橋家は御家断絶の世である。時右衛門は妻お豊に云う。
「武士たるものなんの未練があろうか、このまま野辺に朽ち果てようと、夢々この世に未練を残すでない」
自分に戒め半分、妻お豊に言い聞かせるのだが、その寂しさだけは払いきれない。
時に時右衛門40歳、妻お豊35歳の頃であった。
養子縁組の話は過去に幾度かあり、その度に破談となっていた。理由はこうである。
「これまでの養育費が欲しい」とか「借金の保証人になって欲しい」など人の弱みにつけ込む輩に
時右衛門が怒ったことが原因だ。時右衛門はその度に吐き捨てるように言う。
「いったい人をなんだと思っているのか、犬や猫でもそれ相当の愛情が湧くのに」
そのようななか
延亮元年(1744)兼ねてより懇意の白石藩二番座七の宍戸七郎右衛門からの文が届けられた。
日頃のご無沙汰を詫び、次いで近況報告があり最後に養子縁組の話が綿々と書き綴らていた。
かもうな 集約(4)に続く