何でんかんでん

自分はどうしたいのか自身に問いながらの日記

是川縄文館 / 縄文人は文明人

2023-10-21 14:14:55 | 古代・遺跡

是川縄文ムラは、本州北部の太平洋に面する八戸。平野から丘陵への変化点、新井田川が北流する小盆地に是川地区は立地しています。ここから南へと連なる丘陵には、豊かな山林が広がり、新井田川につながる沢が豊富に流れ、川を下れば豊かな海が広がっています。

縄文時代のころから、こうした環境が広がっていたとみられ、狩猟・漁労・採集によって生きる縄文人にとって、山・川・海の資源が豊富な、またとない好立地でした。

縄文時代草創期にはヒトが活動していたとみられ、前期後半にはムラがつくられています。それ以降、場所を変えるなどしながら、各時期にわたってムラがつくられました。

(是川遺跡パンフレット抜粋)


遺跡は、一王寺、堀田、中居の3つからなっていて、縄文晩期の中居遺跡では、居住域・墓・捨て場、配石など発掘されており、低湿地の捨て場からは、精巧な土器・土偶・木製品や漆製品が多数発見され多様な生業が行われていたことが伺えます。

  

     ~ 是川縄文館 ~

ガイドさん説明付で見学

中居ムラの縄文人は、現代に通じる漆の利用と知識をもっていた。縄文前期~中期ころには利用がはじまり、晩期の熟成した漆文化へ繋がったと考えられている。

「漆は北海道で古くから使われていた」

「発掘された場所が低湿地で常に湿った条件におかれていたことで、このような綺麗な色を保つことができた」

👇 木胎漆器(鉢)~縄文晩期~

👇 漆塗り壺形土器

👇 盤胎漆器(鉢)

綺麗に色が残っていることに感動しました。当時とかわらぬ状態に驚きです。

 


縄文の漆

👇 赤と黒

精製した漆に木炭を混ぜる⇒黒色漆、赤色顔料を混ぜる⇒赤色漆

3回~5回の重ね塗りをして仕上げている

👇 漆塗り櫛 左2つは複製 右は本物

👇 玉類 縄文後期 (翡翠だったと思います)

この他にもイヤリングなどの装飾品あり

縄文人はお洒落だった。

デザインや色の組み合わせ方など 美的感覚に優れていたのでしょう。見てみたいです!

女性の装飾品や 髪型なども独特なものがあったのだろうな。

原始的な生活をしている野蛮な感じや”みすぼらしさ”などは全くなかったと思います。

    


縄文の美

👇 深壺型土器 

👇 注口土器

👇 単孔壺型土器 

     よく見ると👆穴が開いている「何に使ったのでしょう?」

木片の栓があったとか?何だろう???

  


  縄文の食

👇 石槍(せきそう)

ヤリの頭の部分、この他にも釣り針、石斧柄など展示あり

ムラの周りには食料や木材となるクリ・トチ・オニグルミ、漆などの林が広がる「里地」が広がっていました。すぐそばには、「里川」の新井田川が流れ、秋になって上ってくるサケやマスをとり食料や衣料としていた。また、銛や釣り針なども見つかったことから海に出て漁をしていたことがわかります。

植物を編んで衣料にしたり、木を編んで船にしたり、釣りをしたり、貝を獲ったり、三内丸山遺跡と合わせて考えると、食事は木の実・植物・魚介類。獣肉あまり食べていなかった。一王寺遺跡に貝塚があることから貝をよく食べていたことが分かります。貝汁と季節の野草などを合わせていたのかな? 縄文人はグルメだったのでしょう。衣食住の在り方が非常に優れていたようです。

 

一王寺遺跡の貝塚

早期の縄文海進で八戸地域に形成された内湾は、前期半ばの十和田火山噴火と、その後の火山灰泥流により埋め立てられた。貝塚の上の中期の土層では、貝がみられなくなり、動物の骨がたくさん含まれていた。中期には山の資源を中心にした暮らしに変わっていたようです。

中期には食料を得るために、しかたなくシカやイノシシを狩猟していたのでしょう。大型動物の狩猟は危険と隣り合わせです。熊もいただろうな。

 


使用用途が分からない3点

👇 ミニチュア土器

かなり精巧につくられています。

絵具や染料を入れていた? 子どもの教育玩具か?

 

👇 土製品 イモガイの断面を写実的に表現したようなもの

中心に穴が開いている

 

👇 左、渦巻模様 右、精巧で美しい模様

右回りの4つの楕円で描かれている 

「何に使われたのでしょう?」

左の渦巻模様の土器は、装飾品ではなさそうだ!

 

楕円の渦巻はなにを表すかというと

 ・宇宙の広がり 星⇒銀河⇒大銀河

縄文人の宇宙観

 ・内から外へ広がるエネルギー、無限進化の仕組みを表している、

       宇宙に属するものは内から外へ渦状に変化する。

 ・渦の中心(それまでのものを大事に=自愛) /  渦の一番先っぽ(他愛にしていく)

宇宙は生命体と同じで細胞分割している 0 ⇒ 2 ⇒ 4 ⇒ 8 現在8つの宇宙体があると云われている(石が二つあったとか?)

ということは何?

何かの教材か?治療や癒しの道具か?わかりません!

 


土偶

モデルさんがいたかのような具体的な描写をしています。

👇土偶 一番人気

 お腹の点々は妊娠線を表すそうです

👇 こんな顔した人がいた? どっかの星の人?

👇 手が長い人

 


合掌土偶(風張1遺跡出土)

平成21年 国宝に指定

縄文時代後期後半(約3600年前)

高さ19.8cm 幅14.2cm 重さ1050g

 

👇 出土時の写真    特徴

👇正面と後ろ姿

肩幅が広く見えますが、後ろ姿は女性っぽいです。

妊娠線からしてモデルは女性です。

👇横からの姿

両足付け根と膝、腕の部分が割れており、アスファルトが認められた。

当時の人が修復して大事に使っていたようです。

頭部などに赤く塗られた痕跡があり、全身が赤く彩色されていたと考えられます。

さて、「何に使われていたのでしょう?」

 

私の想像です

縄文時代は自然崇拝が主であったことから、命を育んでいる存在を神というならば、この祈りのポーズは、母なる地球(地の大神)に向けて「感謝の念を手向けているところ」だと思いました。

  

もう一つは、

女性/シャーマンとの見方をするならば、何か帝王学的な教えを宇宙から受けている場面ではないかと思いました。 

東北の地の古の教えというのが これなのどうかは分かりませんが、「国の目的は整えて平和にすること」「上に立つ者は世のため人のために尽くすこと」という国家理念ともいえる思想、「トの教え」というのがあります。 ざっくり簡単に書いてます ⇒  縄文思想「トの教え」=他星人教?

   

何れにせよ、

偶像を崇拝するとゆう発想はなかったと思いますので、お守り的(意識を高めるための目当て)な芸術作品として大切に飾っておいたのかも知れません。

しかし、ただの芸術作品ではないことは確かです。(理由は後ほど)

(あくまでも私の今の考えです)

  


◆ 縄文人は立派な文明人

衣食住の在り方からみても縄文人の知恵は古くからあり、非常に優れた文化を持ち合わせた 立派な文明人であったと思います。

◆ 思うこと

私たちが暮らさせて頂いている足元の地面、地球、そこから溢れんばかりの恵みを頂いている。しかし、その母なる地球に対して感謝することを忘れてしまっている。

その発想が抜けてしまっているが故に破壊・汚染・略奪…を繰り返す。全ての根源はここにあるのではないかと思うのです。

喜びをくれる存在、自分の命を育んでくれる存在を仮に神というのであれば、地面そのものが自分にとっての神として、心から感謝を伝える生き方をした方が、心も身体も豊に暮らせるのではないのかと、縄文人が笑顔で語りかけて来たような?そんな気がしました(笑)  

縄文人のように、あ~ ありがたいな~って思って暮らせらるって いいですよね。縄文思想でハイテクノロジー生活に憧れます。

そこに一歩一歩近づいていきたいですね

  


  泉山氏による発掘

是川遺跡は、大正~昭和のはじめにかけて、八戸市の泉山岩次郎・斐次郎兄弟によって発掘が行われ、出土した遺物の素晴らしさから全国的に注目を集めるようになりました。泉山両氏はこれらの遺物を大切に守るだげではなく、写真を撮って絵葉書を作成し、文化財保護の普及啓発を行いました。現在、地元で是川遺跡出土品をみることができるのは、ふたりの功績によるものです。(パンフレットより)

遺物は、個人が所有する沼地から出土したもので、日本政府から没収されないように 時期が来るまで蔵に隠しておいた。私財を投じて 漆器など縄文そのままの状態で保存されていたと思われます。

なお、発掘にストップが掛かるほどに、古い遺物が掘れば掘るほど出てくるようで、歴史が変わるのを〇〇が恐れているものと思われます。

 


◆◆◆

話は合掌土偶に戻りますが、実物はかなり精巧につくられています。 

復元された実寸のレプリカを手に触れることができます。

実物の写真では、座った状態なので見えませんが、驚くことに肛門まで再現されていました。縄文人の思想と合わせて考えると、ただの芸術作品ではなさそうです。

    

※ 縄文人思想

万物には靈が宿る(霊魂) 

アニミズム = 自然信仰

神 + + 物 = 三位一体

  ⇩

という字体の変化が昔と今を物語っています。

※旧字体

靈  

① 神=の神

「雲から雨がしたたり落ちる」象形

② 間を取り継ぐ=口口口

「神を祭る区切りの中で人が両手で祭具を捧げる」象徴

     祝詞を奏上し雨乞いをする巫女を意味する

     巫女の口から出る言葉と 異次元存在からもたされる言葉とが 交わされている様

③ 巫女(シャーマン)= 人人

「神を祭る区切りの中で人が両手で祭具を捧げる」象徴 ➪ 雨乞いをする巫女

  ⇩

※ 新字体

霊 ← 間を取り継ぐ口が一で消され異次元と現次元が遮断されています。

「靈、そんなものはありません」とした。

「そんなことを言う人は頭がおかしい人なんです。可哀そうな者たちと思って 話を優しく聞いてあげなさい」って

それ以上のことを考えられなくさせられた…

   

こんなところにまで細工されています。

考えすぎでしょうか?

     


◆◆◆

今回の青森旅行で3つの遺跡に行ってきました。

最後はポジティブに終わりたいのでイキりの一言で失礼します。

まもなく真実が表に顕れる時代がやってくる。

真実を理解致し意識革命がおこれば虚偽が払拭され、この世の中を狂わせていた悪(偽善者)は消える。

夜明けは近い⁉

 

なお、抗う者が追い込まれ 抗う場面(残虐非道な事件)を見させられていますが、ネガティブなエネルギーに飲み込まれないように、世の中良くなってきていると考えるようにしております。 気持ちだけでもポジティブに保ちたいですから。

  


お土産   (八食センターに売っていました)

👇 これ美味いです

 


次の目的地 ⇒ 八食センターで寿司を食べる


記録 

青森旅行の計画

①大平山元遺跡(外ヶ浜)10/4

②三内丸山遺跡(青森市)10/4

③是川縄文館(八戸市)10/6

 

 

 

 

 

 

 

 


三内丸山遺跡 / 縄文人の衣食住

2023-10-20 14:25:14 | 古代・遺跡

三内丸山遺跡は、

縄文時代前期~中期(紀元前約3900~2200年)のものとされています。

👇 人気土偶の形(大型板状土偶)

今から、5900~4200年前の大規模な集落跡が見つかり沢山の竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器・石器・木製品・骨角製品が出土した場所です。

紀元前3000年頃になると、三内丸山など規模が大きく、長期間継続し、地域の拠点となる集落が登場。

集落には、多様な施設が配置され、祭祀・儀礼の空間も発達した。中でも、盛土には土砂とともに、大量の土器や石器が廃棄され土偶などのまつりの道具も多く出土することから、世代を超えて祭祀・儀礼が行われていたと考えられている。

(縄文遺跡群パンフレットより抜粋)

👇 玄関

 


三内丸山遺跡には、

・屋内 展示「縄文時遊館」

・屋外 復元「縄文のムラ」

 があります。

  

👇 定期ガイド

大平山元遺跡から青森市内へ車で約1時間、何とか15:00に間に合いました。

   

      ~ 縄文時代の「ムラ」を体験 ~


南盛土

盛土は堅穴建物や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられ、小山のように盛り上がっている。現在、北・南・西の三か所が確認されていて北盛土や南盛土では土偶が特に多く見つかっている。

大量の土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが土と一緒にすてられ、約1000年間で丘のようになった。

使わせて頂いた物は自然界に戻すというシステム。 

縄文人は、自然界すべての物の中に靈魂が宿っているという考え。

 


竪穴建物(たてあな)

竪穴建物は地面を掘って床を作り、柱を立て、屋根をかけています。紀元前約3000年の竪穴建物を復元し、屋根は発掘調査の結果や民族例を参考に、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元。 時代によって、平面型、柱の配置、炉の位置や構造に違いが見られる。

👇 土葺き? 樹皮葺き

👇 内装 (5人ぐらいは入れる?)

家族で寄り添って暮らしていた。(屋内展示と合わせて考察すると) 生きる上での教育がちゃんと子供達になされていたのだろう。

それぞれが出来ること相応の仕事を分担して作業していた、今と違って明るく楽しみながら働いていたはずだ。

 


縄文人の食事は基本植物

野山で採取した木の実、海や川でとった魚・貝等です。ここ三内丸山では、動物の骨ではムササビやノウサギなどの(集合意識が強い)小動物が多いようです。肉を食べるというより毛皮として利用していたようです。

食べ物は必要に応じて必要なだけ取ってきて、みんなで料理して、季節に応じた食材を理解していた。衣食住すべて自然のものを活用できていた文化であったことが想像できる。平和的で生き生きとした光景が脳裏に映る。きっと料理を楽しんでいたのだろうな~ 

出土した動物の骨からみると、食べるための家畜はいなかったことになります。

三内丸山人は、靈意識が強かった? 生きとし生ける者、特に動物は自分達の仲間との考え。シカやイノシシなどの大型で単体意識が強い動物は、霊的な゙ことと合わせて、危険を伴うこともあり殺さないようにしていたのではないかな

 


掘立柱建物

地面の穴を掘り、柱を立てた建物跡があり、遺跡中央部分でまとまって見つかった。高床式の建物として復元。

👇 内部が覗けます(今は蜂がいないので大丈夫)

季節や周期を調べて季節の食べ物を採取するとともに、食品などの保管をしていたのかな?自ら進んでみんなのために働いているといった価値観だろう。 

 


大型竪穴建物

さて、誰が住んでいたのでしょうか? 何に利用されていたのでしょうか?

柱の表面を焦がすことで長持ちすることを縄文人は知っていた

ググってみたら・・・ムラの人口は最高で500人を超える程度だったと考えられています。 

このスペースに何人入るか実験をしたことがあるそうで、その時〇〇〇人(忘れた!)収容、ムラの人がほぼ収まる程の広さということが分かったそうです。

  

集会場?今風に言うと、定期〇〇総会とかやっていたのかな?

大都市なので、王という存在がいて、政を行なっていた?

真の王は字そのままの形で、神・靈・人、三界を繋ぐ人。政は神・靈、共にでなければ真の政は出来ないとされていた。人の科学など小さいということだ。

後述の大型掘立柱建物でシャーマニックな゙儀式を行い天啓を預り、ここの集会所?に皆を集め諮問会議でもやったのだろう。

時代が進み いつの間にか "繋ぐ" という部分を ”誰かに抜き取られて”  方向を誤り現在のこのザマになってしまった?  多分だけど、自分は弥生時代ぐらいから怪しくなったのではないかな と思うのだが…   それと、シャーマンという職業はかつて正式に認められていましたが、確か明治時代頃に外された経緯があるということを、付け加えておきます。

  


大人の墓

地面に掘られた墓に埋葬されました。墓は幅広い道路をはさんで向かい合うように配置され、約500基見つかっている。 道路は海方面に伸びており、墓の周りには何も建造物はなかった。計画的な街づくりをしていた事が伺える。

子どもの墓

埋設土器といい、子供は土器に入れて埋葬されました。穴を開けたり底を抜いた土器の中に握りこぶし大の丸い石が1~2個入れてあるものもある。これまで800基以上見つかっている。 なお、子供の墓は大人とは違い家の周りで埋葬されていた。

この頃の寿命は30歳代だったそうで、幼くして亡くなる人も多かったようです

縄文人は、靈人たちと伴に生きているという考え方。生きてる人に魔が入らないように、亡くなったら近親靈として付いている世であった 。異次元世界のサポート体制が充実しており、今のように容易に操られることはなかったのだろう。

  


大型掘立柱建物

直径1メートルくらいの栗の木です。

ロシアからシベリア鉄道で運んできたそうです!

柱が6本立っていたことは分かっていますが、どのような構造の建築物だったのかは分かっていません。

各々で想像してみてください。

  

👇私の想像は複数の用途がある。です

巫女を中心としたシャーマン集団が、太陽や月、地球(山川海火岩風雨・・・)を神として祭りごとをしていた場所。

空に伸びる柱は、自分達(魂)の先祖である宇宙銀河、星々と繋がっている。

 

目印?

宇宙から自分たちを視る人たちのへの目印?カーナビでいうポイントみたいなもの?

 

それと、

星を見て時期を調べたり、太陽の位置を刻んだり・・・

儀式的なことをしたり・・・

日巫女(ひみこ)= 太陽神を仕えた巫女たちの総称、長のような人がいたんだろうな~

  

今日は晴れでよかった! 

(昨日と翌日は雨でした)

 

👇 建物跡 保存されています

常にポンプで水位を調整している。

地下水が豊富なところで人が暮らすには最適な場所であった。

👇 直径1メートルの柱が良く見えるように水抜きしている。

👇 展示室「縄文時遊館」

石の斧で加工した痕跡がある

 

👇大型板状土偶

 

👇円筒上層式土器

👇食事の調理法は、焼くより「煮る」のが多かったようです。

👇 地下にも物凄い数の出土品があります。

目立たない場所にあるので、殆んど人が来ません

未開封の段ボールが(確か)万単位であると仰っていました。

縄文ビッグウオール(土器の破片5120個が使われている)

👇 まもなく閉館

なかなか見ごたえのあるところでした。

縄文時遊館はUの字の洒落た作りになっています。

あおもり北彩館(土産品)、れすとらん五千年の星(縄文食材の料理店)が隣接されています。

昨晩より、朝おにぎり1個しか食べてなかったもんで、急にお腹が空いてきました。

しかし、閉館間際でしたのでいずれも営業を終了していました。

(腹がへった)

  


記録 

青森旅行の計画

①大平山元遺跡(外ヶ浜)10/4

②三内丸山遺跡(青森市)10/4

③是川縄文館(八戸市)10/6

初日10/4で①②達成。

 

 


大平山元遺跡から歴史探検

2023-10-19 14:14:14 | 古代・遺跡

大平山元遺跡は、津軽半島の北東部、陸奥湾に注ぐ蟹田川の河口から8kmの左岸に位置し、津軽山地からの低位段丘上(太平段丘)南北500メートル、東西300メートルの範囲で標高23~30mに立地しています。

昭和46年、町内の中学生が拾った石器を契機に学術調査が実施され発掘調査により有樋尖頭器や細石刃等、旧石器時代の特徴を持つ石器群とともに最古の「土器片」と「石鏃」が出土しています。

土器の破片の緩やかな弧状の湾曲、断面をよく見ると2層構造になっていて、ただの石ころとは違うことが目視できます。

■ 土器のかたち

土器は、割れてカケラの状態で見つかっており、カケラひとつひとつをよく観察すると、割れ口の状態が違ったり、形状が弧状や平たいものであったりします。そのような特徴から考察すると、円形の平底とわかり、直径や深さも20cm以上あったとわかる。おそらくは、口の部分が平らな鉢型や深鉢型の器型であったと想定されています。

外ヶ浜町教育委員会の資料を拝借しました

  

■ 土器の年代

土器に付着した炭化物を放射性炭素の年代測定によると、14920~16520cal BPという測定値を示したことから、約16500年前のもので、現在のところ日本最古(世界最古)の土器になります。 

👇 年代分析データ

  

■ 外ヶ浜町大山ふるさと資料館

大平山元遺跡から出土した土器片や石器などを見学することができます。

👇 遺跡からすぐの場所(小学校跡を利用)

展示室は、こじんまり(来館者は私だけ)

説明によると縄文の定義は土器の使用が基準となっているそうです。そのことから日本文明(縄文)は、「今から16500年前から12000年続いた」という設定になります。 実際にはもっと前かも知れませんね。

旧石器時代から縄文時代への移行期の環境や文化様相を知る上で重要な遺跡です。 

  

■ 大平山元遺跡(おおだい やまもといせき)

WIFI繋いでQRすれば説明が見れるらしい

地面に説明

のどかなところです。車で12時間以上かけて辿り着きました。電車ではJR太平駅 徒歩10分以内だと思います。

来訪者は私だけでした。(2023.10.4)

  


◆◇◆◇◆

世界遺産となっている縄文遺跡群&大平山元遺跡はどの位置にあるのか?

◆ 北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の合計17遺跡で構成されています。また関連資産が北海道と青森県に合計2遺跡あります。これら集落の展開を時代順に3つのステージで分類されています。

👇 1⃣ 大平山元遺跡は(一番古い)スタートに位置します。

認知度が高い 6⃣ 三内丸山遺跡はステージⅡ後半に位置します

  


 ◆◆ 日本の歴史を探検する ◆◆

『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は、

昭和50年4月に突如として、北津軽郡市浦村役場から発刊され、さまざまな論争を繰り広げられたが、偽書として烙印を押され論争は集結した書であります。

しかし、古より偽書とされる記述から何が本当で何が虚偽か?自分の足で地を巡り、考えていくと非常に面白いと思いました。

大平山元遺跡の土器の発掘により、16500年前に 土器を作る文明がこの地に存在していたという事実を、土器片を通してこの目で確認しました。

その後に訪れた「三内丸山遺跡」「是川縄文館」において、当時の生活様式、信仰心などを垣間見てきました。

◆◆◆

本書によると、津軽古代大国・アラハバキ王国が存在していた!

それはいつの時代なのか?

『東日流外三郡誌』の歴史年表を垣間見たくなりました。

※年表は文末にて

 

◆◆◆

古事記や日本書紀の原資料である「ホツマツタエ文献」では、BC11738年 クニトコタチ が初代天神として(人の形となって)から始まり、それ以降に建国に関わった方々の人名が登場する書になっていることを考えると、この『東日流外三郡誌』においては、津軽古代王国は、それより遥か前(BC18000年)から存在していた!という点において、人類の歴史・生命の起源についての興味が湧いてきました。

そこで、

『東日流外三郡誌』を中心に簡単な年表で時代の流れをザックリ表してみました。

※ 文末にて

◆◆◆

ここで見えてきたのは、

公にされている日本の歴史に登場する勢力・人物とは別に、

東北の地には以前から「津軽古代王国」が存在していたということです。

 

◆◆◆

なお、縄文以前から

先住民は、生活するに最適な環境を選び、列島各地に集落をつくり平和に暮らしていたと思います。

群馬県みどり市)それとなく6月に書いてました 岩宿遺跡 3万年の眠り

  

時代が進むに連れて

日本列島において 国造りをするために権力者達が現れ、原住民が暮らしている土地を奪い その者たちを不便な土地へ追いやってしまった。

そして、原住民の信仰,思想であるアニミズム(自然崇拝)から スメラミコトの原点を神とする(人神信仰)に塗り変えられてしまった。それが形として残っているのが国の神をまつる御殿、伊〇神宮などもその類ではないのでしょうか。

だからといって、私はそれを嫌悪している訳ではありません。これも起きるべくして起こったこと、誰が悪い訳ででなく「歴史の連鎖」だと思っています。

 この後に行った、三内丸山遺跡でなんとなくイメージしました。

◆◆◆

社で神として祀られている方は、かつては生きておられた方です。

私も神社に行ったり時々参拝したりしますが、神とされた方を崇めてはいません。感謝の念を手向ける空間として、自分の心を見つめる癒し空間として、自然を愉しむ空間としての祈りの場として訪れています。

◆◆◆  

いつの時代も どこの国も 権力者が自分達に都合よく歴史を隠ぺいし、自分達にとって都合が悪い者は歴史から消していった経緯があることから、先住民達も意図的に歴史から消されたということは容易に想像できます。現代でいえばGHQが行ったことなどが典型例です。

◆◆◆ 

また、神武天皇以前の人物を古事記・日本書紀で神話化したのは、日本は渡来の他民族国家であり、それぞれの価値観が異なることから、過去の人物を神話化した方が人々を統制し易かったのではないかと思っています。

以上。あくまでも私の想像です。悪しからず。

◆◆◆ 

※ 過去においてそのようなことが事実だとしたら…… 

土地を奪われ (自分たちの文化を守ろうとして)逆らう者は逆賊として、消されていった方々もいるということも 心に留めておきたいと思いました。

また、そのような方々の気持ちを考えると、心の内を書かずにはいられなくなりました。

もしも自分もその時代に生きていた当事者だったら? まぁそんなことまで考える必要はないと思います。

ホツマツタヱ文献でハタレの乱という事件が書かれています。それも ひょっとすると この類の出来事を表現を変えて描写したのではないかなと思いました。

(長々と失礼しました)

  


<津軽古代王国とアラハバキ王国の歴史年表>

※青字や紫字は参考年表

BC18000年 アジア大陸から、北方系ウラル・アルタイ民族が北海道・東北地方に移動、岩木山一帯の阿曽部の森に住み着いたことから「アソベ族」と呼ばれた。すなわち、原日本人とみなされる。

 

BC14500年 大平山元遺跡 日本最古の土器

 

BC12000年 古代アソベ族は、十和田湖の十和利山に 霊山ピラミッドの巨石神殿を築き東北各地で巨石メンヒルや 石神、岩偶、土偶神像を信仰する。津軽半島では、日本最古の無文土器が生まれる。

 

BC11738年 <ホツマツタヱ> クニトコタチ その後、8王子 タの命(仙台多賀城)ハコ国 タカミムスビ家 トの命(富士王朝)とある

  <ホツマツタヱ> クニトコタチ~3代天神 トヨクンヌまでで約1万年統治したとある

BC8000年 津軽半島で縄文土器が発生

 

BC7000年 黄河長江文明

BC5000年 縄文海進 温暖化ピーク島国になる(海面上昇で近江から東北へ移動か?)

BC3500年 三内丸山 縄文文明栄え

BC3000年 メソポタミア・古代アンデス・エジプト文明  

     

BC3000年 中国大陸からツボケ族が津軽に渡来して、縄文土器文化と漆塗り土器が栄え、青銅器が伝わる

  

BC2500年 インダス文明

BC1600年 中国文明

  

BC2000年~BC1000年 アソベ族が各地に環状列石を作る アソベ族とツボケ族の混血による亀ヶ岡の縄文文化が繁栄

  

BC1315年 <ホツマツタヱ> 7代天神 イザナキ・イザナミ

BC1258年 <ホツマツタヱ> 8代天神 アマテルカミ=天照大御神

BC1188年 <ホツマツタヱ> 10代天神 ニニキネ、ホノアカリ (猿田彦・アメノウズメ)

BC711年 <ホツマツタヱ> 初代天皇 神武天皇 VS ニギハヤヒ(ホノアカリの養子)内乱勃発!

  

BC700年頃 岩木山麓と亀ヶ岡一帯に 古代アソベ王朝が生まれ最初の王ウソリから十七代の王朝国家がつづく

BC500年頃 津軽の亀ヶ岡から十三湖一帯に 古代ツボケ王朝が発生。最初の王ダツトリから29代の王朝国家がつづく

BC100年頃 中国王朝から新しい漂着民(周・普の君公子一族)とアソベ・ツボケ族混血によりアラハバキ族発生

BC18年 十三湖一帯にアラハバキ王国成立

AD240年 大和の大王ナガスネヒコと安日彦が十三湖に逃れて、アラハバキ族の王となり、新アラハバキ王国が生まれる。新アラハバキ五王制による国家組織が発足。この年から邪馬台城を築き モヤ山ピラミッドを作る。 (大王長髄彦と安日彦は兄弟)

<ホツマツタヱ> ニギハヤヒの家臣、ナガスネヒコ(ニギハヤヒの妻の兄)は神武天皇の強敵であったが、神武東征に敗れ青森へ亡命したとされる

そして、アラハバキ王国は、岩手県平泉にいたる広大な陸奥国=奥州一帯に東西南北5人の国司者を配置し強大な国家を形成。さらに神武天皇以後の天皇後継者や政治問題にまで影響を及ぼすほどの勢力を持ったという・・・

※ナガスネヒコは弟と家族、ごく一部の家臣らと共にツガルに渡ることにしたが、タンゴから船に乗る前に、途中で戦傷が患い亡くなった。 ナガスネヒコは、北の地で国造りをすることもなく タンゴに葬られ カミとして祀られた。という話もある。

 


参考文献:「津軽古代王国の謎」佐藤有文/サンケイ出版, 「みたまとの対話」神人/野草社, 「神人霊媒日記」神人 「はじめてのホツマツタエ」今村聡夫/かざひの文庫


次の目的地へ急ぐ ⇒ 三内丸山遺跡(青森市)14:30 必着 

 


縄文思想「トの教え」はネイティブジャパニーズの魂 かも⁈

2023-07-14 21:23:45 | 古代・遺跡

「トの教え」は調和という意味があります

それではザックリと👇

アメノミナカヌシが24回転生して人間の形になり

初代天神(アマカミ)に即位したとなっている

(ホツマツタエ文献では)

「クニトコタチ」は、

縄文人のDNAを受け継ぐ

日本人の始祖と云われている

 

「ネイティブジャパニーズの始祖」かも⁈

※2023.10.21に「かも⁈」を付記した

『東日流外三郡誌』によると、紀元前18000年アジア大陸から、北方系ウラル・アルタイ民族が北海道・東北地方に移動。彼らは岩木山一帯の阿曽部の森に住み着いたことからアソベ族と呼ばれた。すなわち、原日本人とみなされる。BC12000には日本最古の無文土器が生まれ、その後、ツボケ族との混血による亀ヶ岡縄文文化が繁栄し、岩木山麓と亀ヶ岡一帯に古代アソベ王朝が生まれた。

とあり、年表から「ネイティブ」はこちら(アソベ族)の方ではないかと考えました。ホツマツタエに登場する「クニトコタチ」との関係が私は分からないので、付記として「かも⁈」マークをつけました。 なお、この当時の天神(アマカミ)と呼ばれている方々の寿命は、今の常識では考えられないほど長かったことを合わせて考えると益々分からなくなりました。

寿命がえらく長いことから クニトコタチ、アマテラスなどの名前はグループや集団の総称名かも知れません。私の妄想でした。


「クニトコタチ」は、

宇宙が生まれた過程を理解しており

この宇宙原理を国づくりに

どのように生かすかを考えていた

「宇宙と調和して生きる」という

古来の日本の教えは

この時には既に完成されていて

後に「トの教え」となった

「トの教え」とは

指導者のための教えで

指導者自身が無欲であることで

宇宙の大きな力 陰陽を融合させることができる

「政治原理」のこと

この融合の力で人々を治めた

無欲で行う政治を政(まつり)と言い

宇宙の原理に即したものであった

「トの教え」はこの国の基礎となる

・尽くす

・和す (やわす)

この二つのエネルギーを融合させて

万物を調和させるというもの

   

ヲシテ文字で表現されている

  『 ト 』

天から二つのエネルギーが地に下りる

 和す   尽くす

    

   融合する

  

 □は土=地を意味する

■ 「クニトコタチ」が神上がりされたとする地は

京都/亀岡の御影山

出雲大神宮の言い伝えでは BC1万年

初めて宮を置いた地は

琵琶湖の西岸の「阿志都弥神社」にあり

近江の発祥といわれている

「クニトコタチ」は

国を建設するにあたり

まず初めに、指導者としての精神性を重んじ

「最も大切な心のあり方」を示した

これを「トの教え」という

後に物実、シンボルとして勾玉で表現されている

■ ホツマツタエ文献では、

「トの教え」は国家の指導原理とされる

鏡・剣・勾玉といったミクサタカラ「三種の神器」の筆頭にあげらている

以上

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<参考資料>

・はじめてのホツマツタエ / 今村聡夫 さん

アメノミナカヌシが24回転生して人間の形になり

初代天神に即位したとなっている 👇

「トの教え」ザックリでしたが、現代風にはどんな感じだろうか?今自分の頭で連想すると「でしゃばるな、礼節大事、頭下げよ、感謝の言葉、成り済ますな、皆のため働け、肉体尊べ」他何かあるかな?? よほど心の内の掃除が出来ていないと


岩宿遺跡 3万年の眠り

2023-06-17 17:17:00 | 古代・遺跡

岩宿遺跡(群馬県みどり市)は、日本における本格的な旧石器時代研究の幕開けとなったところで「関東ローム層」の中から多数の石器が発見された。

※ 旧石器時代は、今から16500年より前の時代を指します。

(ちなみに、縄文時代は今から16500年前から12000年続きました)

  

■ 岩宿博物館 展示遺跡:一番の目玉

槍先形尖頭器

3万年ずっと地中に眠り続けていた黒曜石の矢じり 長さ6.9㎝

■ 岩宿遺跡で最初に発見された石器

■ 岩宿ドーム

■ 地層断面

関東ローム層(赤土)が堆積した上部ロームの時代は、一万年から三、四万年前といわれ そのころに人類がいたかどうか知るてがかりは全くなかった。地質学者たちは、その頃は火山活動が活発に起こり毎日地上に火山灰が降りつもり、人間や動物が住むことはできない状態であったに違いないと考えていたが...「赤土の地層に人類の証を発見し」その常識が覆る。

この発見により「日本列島にも旧石器時代段階の文化が存在したことが明らかとなり」日本の歴史が世界史的なレベルで位置づけられるようになった。

サミュエル・ハンチントン博士(ハーバード大学教授)の著書「文明の衝突」には、「日本は中国文明とは異なる独自の文明を持つ」と位置づけている。

  


さて、教科書では未だに

「世界四大文明」が取り上げられているが、国際的には、「四大文明」ではなく、長江文明、メソアメリカ文明、アンデス文明などをを含め「文明のゆりかご」というのが定説のようだ。

ウイキペディアで「世界四大文明」については、「学術的、定説的な用語というわけではなく提唱者すら不明で国際的な用語ですらなく、20世紀以降の日本や中国でのみ用いられる」とボカシて書いているが、自分の知るところによると、「四大文明」の提唱者は中国のジャーナリストで中国・韓国・日本のみ用いられている。

これが何を意味するのか?

 

  ~ 四大文明 ~

・メソポタミア文明(BC3000年)

・エジプト文明(BC3000年)

・インダス文明(BC2500年)

・中国文明(BC1600年)

 

◆◆◆

世界最古とされている文明

メソポタミア・シュメール文明が5500年前で最古とされているが…本当だろうか?

  

どこが最古か⁈

そんなことは国際情勢で決まるものとだ思っています。

勝者の歴史です。

  


■ 明らかに「日本の文化がとてつもなく古いこと」「日本文明(縄文)を認めること」を躊躇っているであろう。

そして「歴史が変わる」ということを恐れている。何故「四大文明」を教科書やNHKを通して私たちに学として刷り込んできたか?を考えると、中国の存在が浮き彫りになってくる。あたかも「中国のお陰で日本があるのだ」とでも言いたげで 日本が大人しいのは、そうゆう定にしないと中国様に怒られるからかな?と勘ぐってしまう。

一個人の思案にすぎないが本当にそうであれば日本の政府は奴隷と同じだ。ワやゼなどに無駄にばらまく金があるのだから教科書を書き変えるぐらいの金は出せるだろうが!

 


■ 日本列島には、古くから人が住んでいて 私たちと同じ人間をやっていた。

サミュエル・ハンチントン博士も曰く「日本文明が最古である」

 

◆◆◆

「日本文明が最古」⇒ そこに真実を知る鍵があるのでしょう。

 

「日本文明」を深堀していくことで民意からその扉が開くことを期待しています。

政府じゃできません。ダメです。

そうすることで、デタラメを並べて作られた今の「虚偽世界」は、

意識革命により塗りつぶされていくことでしょう。