現代では戦前のほとんど死語に近い言葉になってしまったが、かつては垢抜けた最先端の流行を指すのがハイカラだった。私の今は亡き明治生まれの母方の祖母も、よくハイカラと言っていた。
ハイカラ趣味が広まったのは明治の御世の文明開化以降だが、情けないことに島国の日本人は古来から舶来崇拝は大変なものであり、それまでの唐嗜好が西欧に切り替わったに過ぎない。明治十(1877)年に出版された『馬鹿の番付』には実に興味深い“馬鹿”が列記されている。馬鹿の横綱は米飯を食べずパンを食べる者だったので、現代給食にまでパンを出している学校は馬鹿養成機関となる。日本酒を飲まず、麦酒(ビール)を飲むのも度し難い馬鹿なので、現代日本人は国民こぞって馬鹿だ。他にも西欧石鹸を使う、ろくでもない顔をして歯を白くする既婚婦人(お歯黒を止めたの意)も馬鹿の部類に入る。
さらに『馬鹿の番付』は細かく“馬鹿”を認定する。肉食する者、和傘を捨て洋傘を持つ、靴を履く、洋服を着る、手拭いでなくタオルを使用する…
『馬鹿の番付』の内容から、西欧化が急速に進んだことへの反発と懐古趣味があるのは確かだろう。有名な鹿鳴館も偏った文明開化の極みであり、ハイカラ趣味の延長にあると言える。故樋口清之氏など鹿鳴館をチンドン屋敷の場と、温厚な氏にしては珍しく痛烈に皮肉っていたが、明治の元勲たちは大真面目で取り組んでいたのだ。ハイカラ趣味はこれ以降も衰えることもなく、大正時代になっても依然として続いていた。
明治の文豪たちの作品にも社会の西欧化が伺える。坪内逍遥の『当世書生気質』など、明治10年代の東京の学生生活と社会風俗を描いた小説だが(刊行は明治18(1885)年から翌年)、「ノオ…マザアは…」などと、学生たちの会話に驚くほど横文字が使われている。現代文化人はカナ文字ばかりの日本語の乱れを嘆くが、既に明治時代に兆候があったのか。当時の書生はカナ文字の外来語をカッコよいとばかり使っていたのだ。現代は下宿する学生自体が少数になってしまったが、舶来文化に憧れない日本の若者などいるのだろうか。
明治以降ハイカラ一本槍だったのではなく、鹿鳴館のような極端な西欧化政策は当然強い反発も招いた。背中露わな夜会服ドレスを来た淑女が見知らぬ男と踊るなど、明治になって間もない時代では淫らと思われるのも無理はない。西欧さえ発生当時ワルツは男女があまりにも密接して踊るため、非常に下品でいかがわしいと言われたほど。
そして不平等条約改正の挫折、隣国清、朝鮮との緊張関係などで、西欧化より伝統回帰現象が起き、三宅雪嶺らが同志たちと雑誌「日本人」(後「日本及び日本人」)を創刊したのが明治21(1888)年だった。
後の歴史観から三宅らの運動は国粋主義、または「日本主義」と呼ばれ、ナショナリズムとして断罪された。ただし、明治当時これは「国民主義」と言った。興味深いことに同時期の英国支配下にあったインドも宗派間問わず伝統復活運動が起きている。インド人運動家の中には頑迷な保守派もいたのは事実だが、殆どは西欧人による支配への挫折感、喪失感から何か拠り所になる自らのルーツに安らぎを見出したのが実態だった。独立など大それたことは夢にも思わなかった者も少なくなかったが、彼らを「偏狭なナショナリスト」呼ばわりしたのが英国人。他ならぬアングロサクソンこそが西欧一の偏狭なナショナリストだからだろう。現代はグローバリズムに対する反動が第三世界を中心に発生しているが、それと似たような現象ではないだろうか。これを欧米人が原理主義と呼ぶのも。
所謂「日本主義」が台頭しても、ハイカラ趣味が一掃された訳ではない。それどころか、依然として東京のような都市では相も変わらず金持ちや風流人はハイカラを楽しんでいたのだ。「日本主義」者も『馬鹿の番付』対象のライフスタイルを送る有様。
題は失念したが、芥川龍之介の小説に、舞踏会でドレスをまとって躍る若い日本女性が、西欧人紳士に貴女の物腰は西欧でも通ると褒められる箇所がある。日本人の何としても西欧人に認められたい心情と“ハイカラ”趣味は、現代でも病的なほど続いている。
◆関連記事:「舶来崇拝」
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ハイカラ趣味が広まったのは明治の御世の文明開化以降だが、情けないことに島国の日本人は古来から舶来崇拝は大変なものであり、それまでの唐嗜好が西欧に切り替わったに過ぎない。明治十(1877)年に出版された『馬鹿の番付』には実に興味深い“馬鹿”が列記されている。馬鹿の横綱は米飯を食べずパンを食べる者だったので、現代給食にまでパンを出している学校は馬鹿養成機関となる。日本酒を飲まず、麦酒(ビール)を飲むのも度し難い馬鹿なので、現代日本人は国民こぞって馬鹿だ。他にも西欧石鹸を使う、ろくでもない顔をして歯を白くする既婚婦人(お歯黒を止めたの意)も馬鹿の部類に入る。
さらに『馬鹿の番付』は細かく“馬鹿”を認定する。肉食する者、和傘を捨て洋傘を持つ、靴を履く、洋服を着る、手拭いでなくタオルを使用する…
『馬鹿の番付』の内容から、西欧化が急速に進んだことへの反発と懐古趣味があるのは確かだろう。有名な鹿鳴館も偏った文明開化の極みであり、ハイカラ趣味の延長にあると言える。故樋口清之氏など鹿鳴館をチンドン屋敷の場と、温厚な氏にしては珍しく痛烈に皮肉っていたが、明治の元勲たちは大真面目で取り組んでいたのだ。ハイカラ趣味はこれ以降も衰えることもなく、大正時代になっても依然として続いていた。
明治の文豪たちの作品にも社会の西欧化が伺える。坪内逍遥の『当世書生気質』など、明治10年代の東京の学生生活と社会風俗を描いた小説だが(刊行は明治18(1885)年から翌年)、「ノオ…マザアは…」などと、学生たちの会話に驚くほど横文字が使われている。現代文化人はカナ文字ばかりの日本語の乱れを嘆くが、既に明治時代に兆候があったのか。当時の書生はカナ文字の外来語をカッコよいとばかり使っていたのだ。現代は下宿する学生自体が少数になってしまったが、舶来文化に憧れない日本の若者などいるのだろうか。
明治以降ハイカラ一本槍だったのではなく、鹿鳴館のような極端な西欧化政策は当然強い反発も招いた。背中露わな夜会服ドレスを来た淑女が見知らぬ男と踊るなど、明治になって間もない時代では淫らと思われるのも無理はない。西欧さえ発生当時ワルツは男女があまりにも密接して踊るため、非常に下品でいかがわしいと言われたほど。
そして不平等条約改正の挫折、隣国清、朝鮮との緊張関係などで、西欧化より伝統回帰現象が起き、三宅雪嶺らが同志たちと雑誌「日本人」(後「日本及び日本人」)を創刊したのが明治21(1888)年だった。
後の歴史観から三宅らの運動は国粋主義、または「日本主義」と呼ばれ、ナショナリズムとして断罪された。ただし、明治当時これは「国民主義」と言った。興味深いことに同時期の英国支配下にあったインドも宗派間問わず伝統復活運動が起きている。インド人運動家の中には頑迷な保守派もいたのは事実だが、殆どは西欧人による支配への挫折感、喪失感から何か拠り所になる自らのルーツに安らぎを見出したのが実態だった。独立など大それたことは夢にも思わなかった者も少なくなかったが、彼らを「偏狭なナショナリスト」呼ばわりしたのが英国人。他ならぬアングロサクソンこそが西欧一の偏狭なナショナリストだからだろう。現代はグローバリズムに対する反動が第三世界を中心に発生しているが、それと似たような現象ではないだろうか。これを欧米人が原理主義と呼ぶのも。
所謂「日本主義」が台頭しても、ハイカラ趣味が一掃された訳ではない。それどころか、依然として東京のような都市では相も変わらず金持ちや風流人はハイカラを楽しんでいたのだ。「日本主義」者も『馬鹿の番付』対象のライフスタイルを送る有様。
題は失念したが、芥川龍之介の小説に、舞踏会でドレスをまとって躍る若い日本女性が、西欧人紳士に貴女の物腰は西欧でも通ると褒められる箇所がある。日本人の何としても西欧人に認められたい心情と“ハイカラ”趣味は、現代でも病的なほど続いている。
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むしろ、日本の物「だけ」や舶来物「だけ」をあり難がるような原理主義的思考、それを拒否する柔軟性をもちいろんな馬鹿がいるのが『日本』なのでしょう。
明治から大正期は無理もないと思います。西洋の価値観がそのまま全世界の価値観である時代で、西洋に食い下がることが可能だったのは日本だけだったのですから。
でも、その時代に完全な西洋化ではなくとも豊かになる道がある可能性を示したことは人類史でもっと評価されていいと思います。
もしも、戦後の『馬鹿の番付』をつけるとすると、どうでしょうね。
・「九○狂」。国家・国民の生命・財産を守るよりも、九○が好きなもの。同様なものに「無○備都市狂」や「世○市民狂」等がありますが、九○を守っても、無○備都市を宣言しても、世○市民を名乗っても、占領されれば、レイプ・略奪・殺戮は行われるでしょうけど、お花畑理論で、想像もできない。
・「人○主義」。死刑廃止や少年法撤廃反対等、加害者の権利は守っても、被害者の権利を守る事をしない、一方通行な人○主義。また、義務も果たさず、権利ばかり主張する、同○、在○、に肩入れし、日本人や他の外国人を差別している事も理解できないものも存在する。
・「戦前全否定主義」。確かに、「戦前」に誤った教育等があったかもしれませんが、「戦後」にも誤った教育等があっても、批判しないもの。また、売○婦を「従軍○安婦」といったり、都合が悪くなると、「広義」や「狭義」の「強制」といって、自らの過ちを認めないもの。ある事、ない事で祖先を貶める事が、自らを貶めている事に理解できないもの。
・「フェ○ニスト」。男女平等といいつつも、一方の性の権利のみ主張し、異性からのみならず、時に同性からも、冷笑されるもの。進んでいると言われている欧米でも、男女差別はありますし、逆に、国籍によるヘイトや、偽証などで、男性が不利になったことには、絶対否定できないもの。
その他、食も含めた「安全神話」や、真実を語らない「マス○ミ」等もあるでしょうね。
追伸、
私の父方の祖母も新しもの好きですし、父も弟も、新しもの好きでしょうね(かくいう私も、そんなところが、全くないとは、否定できませんね)。
「かつを」に限らず、初物が高額でも、(良いか悪いかは別にして、)季節の移り変わりを感じる、日本人ならではの、習慣も、あるのではないのでしょうか?
(mugiさんもおそらく、既定路線で行くのは、あまりお好きでないと、愚考するのですが。
「らんちゅう」ではないでしょうけど、金魚は美しいですね。
まさに、夏本番ですね(男の私ならば、カブトムシやクワガタの方が好きかもしれませんが、、、(汗))。)
『馬鹿の番付』を見て思ったのですが、作者は西洋物「だけ」を敵視する原理主義者というより、いささかお遊びのところがあるのではないかと。むしろ明治十年に既にこのような現象があったのは、いかに西欧化が急速だったか、感じさせられました。
現代でも西洋の価値観がかなり全世界の価値観となりがちです。現代は西洋よりアメリカン・スタンダードが主流ですが、全世界アメリカ文化が席巻している。
西洋人は未だに日本を鎖国のような楽をした後、猿真似で近代化したと見ている節があるそうです。でなければ、「日本主義」をナショナリズムと決め付けたり。
>こんばんは、Mars大先生。
仰るとおり、戦後の『馬鹿の番付』をつけるなら、貴方が挙げられた四つに加え「友好主義」を挙げたいですね。
「世界の人と仲良くしよう、人類みな兄弟」の類の安っぽいヒューマニズム。未だに国営放送が隣国の子供たちとの交流をローカルニュースで取り上げています。日本に核ミサイルを落とす絵を嬉々として書いている実態は触れずに、真実を語らない「マス○ミ」。
あと、戦前だけでなく江戸時代も「全否定主義」対象ですよ。歴史教科書など封建時代の記述は今思えば酷かった。歴史に興味のない生徒なら、そのまま洗脳される。
実を言えば、私も新しもの好きなのです。
TVのCMでの新発売や限定販売というのに弱く、つい飛びついてしまうのは日本人の性ですね。
金魚なら、私は美しいとは言えない出目金が好きです。あの出目が可愛いので。
日下公人氏は「次世代日本は文化先進国になり、日本語が世界共通語になる」と、大胆な予測をしておられます。
例えばトヨタの進出した北米などでは、「カイゼン」、「スリアワセ」、「ケーレツ」などは英語(米語か)などどいう下品な言葉に翻訳しようがないので、そのまま日本語を使っているとのこと。ただ、北米工場の従業員はもともとGMやフォードを蹴ってトヨタ現地法人に雇われるぐらいだから、物覚えも早いようで、立派にその概念を理解していくようです。これが大陸や半島に生息する「北京原人」とその亜種には絶対身につかないことで、彼らの繁栄は一時はなんとかなっても20年、30年の長期には及びません。半島は1度国家破綻してIMF管理下に置かれましたからね。
もっと若い世代には世界の最先端は「秋葉原」です。すでに「萌え」は海を越えて浸透しつつあります。さらに下の世代なら「ポケモン」です。欧米の大学者、大企業経営者の孫である未就学児にとって、日本は「ポケモンの国」と認識されているとのこと。トレカなども現地語に翻訳されたものではダメで、「日本語、漢字」が読めるのがクールでステイタスなのだとか。
「慰安婦決議」もなかなか香ばしい結果だったようですね。本会議場に僅か10人の出席だそうで下院議員の大部分は欠席だった、つまり「やってられない」ということでしょう。ホングダ、ラントスその他は既に「集金済み」で「チャイナ、コリア票がないと、来年の選挙は戦えない」となっているから賛成票を投じたまで。
今の日本に必要なのは、親日の芽を育てている海外のこどもたちが有権者となり、社会の重要なポストに就くまで、きちんと存続し(←ここ重要)、伝統的日本人の矜持を保つことではないでしょうか。まちがっても「北京原人」どもに我々の頭を(当然ですが国土も)支配されてはならないのです。
将来のことなど誰も予測が不可能ですが、日下氏のそれは私にはかなり疑問ですね。
日本人自身が世界の中心になるという気概や野望がない限り、不可能だと思いますよ。
半島やその歴史的宗主国はともかく、最近私はある英国の知識人とメールを交わしましたが、いかにその人物が80過ぎといえ、つくづく欧米人の意識は19世紀と変わりないと認識させられました。日本のナショナリズムを叱責する一方、己の過去は絶対話題にもしない。私はインド、中東史を学んで本当によかったと思いました。欧米人とは、大人しい日本人には居丈高に出ても、そうでない日本人には態度を変える面がある。これは大陸や半島と基本的に同じです。
私は最近の日本のアニメは見てないのでよく分かりませんが、欧米のアニメも技術が向上しております。隣国はコピーが主ですが、アジアで脅威となりそうなのがインド。インドもアニメ産業が急成長しています。「萌え」ばかりに頼るのでは日本もアブナイ。
「慰安婦決議」、私は気鬱になりました。
反対票を投じる者が殆どおらず、チャイナ、コリア票がないと選挙にならないとは、今後も何かあれば決議で追求されるとなります。チャイナ、コリア系は増えこそすれ、減らないのですから。アルメニア系が突き上げるトルコより状況が悪いですよ。米国だけでなくカナダ、オーストラリアにも同じ事が起きるのではと危惧しています。
強国になびくのが世界の常なので、親日もいつまでも続かない。ならば、対米一辺倒でなく敵の敵とも関係を密にする道を模索してもよいと思います。
私も人民帽よりターバンを拝んだ方がマシです。