若江薫子(わかえ におこ、1835-81年)と言っても、一般にはあまり馴染みが薄い人物だろう。実は女ながら、明治政府に度々建白書を書いており、「拝啓総理大臣サマ…」のはしりといえる。明治時代に政府にモノ申す女性思想家がいたこと自体驚きだが、不遇の生涯であり、生前から既にその主張は顧みられないものだった。
彼女の家は代々学者で、父は漢学者として伏見宮家に仕えている。先祖は菅原道真とされ、その子孫に相応しく学問では筋金入りの家系だった。この家に生まれた薫子が学問好きになったのは当たり前だろうし、幼少時代、既に四書五経をそらで憶え、父を驚かせる。やがて父はこの利発な娘を岩垣月洲という当時の有名な学者にあずけた。そこで薫子の学才はさらに磨かれ、18歳になると、文天祥の著書『指南集』の注釈書を書き、師匠にまで舌を巻かせた。
ただ、父が娘に学問を身につけさせたのには理由があった。公家の血筋に生まれながら、彼女は色黒で背が低く、さらに近視でやぶにらみ、薫子という名にはまるで相応しくない容貌だった。おまけに疳(かん)を患い、顔が引きつっていたというから、顔面神経痛でもあったのかもしれない。
これでは尋常な女の幸福など望むべくもない。せめて読み書きの師匠になれるだけの力をつけておけば、婿に来てくれる人もいるのではないか… それが父の密かな願いだったらしい。
期待に違わず薫子はよく勉強し、習字の方も相当な腕前となる。それがやがて、新しい運が開くことに繋がった。学問好きの薫子の前に舞い込んだ幸運とは、思いがけない家庭教師の口が転がり込んだことだった。相手は左大臣・一条忠香の2人の姫君。薫子は張り切って新しい職場に飛び込んだ。学問に秀でた彼女は教師としても一流だったようで、その甲斐もあり、この姫君の1人は目出度く皇太子の妃に選ばれた。
そもそも、この縁談のはじめ、宮中から密かに薫子への問い合わせがあったという。「一条家の姫君のうち、どちらが皇太子妃として相応しいお方であろうか?」
薫子は熟慮した結果、「お妹君の寿栄(すえ)姫様はお人柄といい、御教養といい、まさに未来のお后として恥ずかしくないお方と存じます」と答えた。かくして寿栄姫の入内(じゅだい)が決まるのだが、この皇太子こそ後の明治天皇であり、寿栄姫は若き日の昭憲皇太后だった。
自分の教え子が皇太子妃となったことから、薫子は大の皇室崇拝者となったそうだ。元々彼女は尊王攘夷思想の持ち主だった。少しでも学問を受けた知識層なら、徳川封建社会の行き詰まりに気付き、この新思想に引かれるのが当時の風潮で、彼女もその例外に漏れなかったのだが、寿栄姫の入内はそれに拍車をかける。
だが、徳川時代にあっては尊王攘夷は反体制的、現状否定の革命的思想であり、危険思想と見なされていた。薫子が熱烈な尊攘思想家になればなるほど、父は気を揉んでいたという。やがて歴史は大転換を迎え、幕府は倒れ、明治維新の実現となる。弟子の寿栄姫は輝かしい皇后として、万民に仰がれることになった。薫子は皇后付きの女官として明治政府にも絶大な発言力を得ることになり、この時が彼女の人生の絶頂地だった。しかし、その栄光もつかの間で、その原因は皮肉にも彼女の高い学識にあった。彼女の漢学こそが不幸と没落の元になっていく。
その②に続く
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彼女の家は代々学者で、父は漢学者として伏見宮家に仕えている。先祖は菅原道真とされ、その子孫に相応しく学問では筋金入りの家系だった。この家に生まれた薫子が学問好きになったのは当たり前だろうし、幼少時代、既に四書五経をそらで憶え、父を驚かせる。やがて父はこの利発な娘を岩垣月洲という当時の有名な学者にあずけた。そこで薫子の学才はさらに磨かれ、18歳になると、文天祥の著書『指南集』の注釈書を書き、師匠にまで舌を巻かせた。
ただ、父が娘に学問を身につけさせたのには理由があった。公家の血筋に生まれながら、彼女は色黒で背が低く、さらに近視でやぶにらみ、薫子という名にはまるで相応しくない容貌だった。おまけに疳(かん)を患い、顔が引きつっていたというから、顔面神経痛でもあったのかもしれない。
これでは尋常な女の幸福など望むべくもない。せめて読み書きの師匠になれるだけの力をつけておけば、婿に来てくれる人もいるのではないか… それが父の密かな願いだったらしい。
期待に違わず薫子はよく勉強し、習字の方も相当な腕前となる。それがやがて、新しい運が開くことに繋がった。学問好きの薫子の前に舞い込んだ幸運とは、思いがけない家庭教師の口が転がり込んだことだった。相手は左大臣・一条忠香の2人の姫君。薫子は張り切って新しい職場に飛び込んだ。学問に秀でた彼女は教師としても一流だったようで、その甲斐もあり、この姫君の1人は目出度く皇太子の妃に選ばれた。
そもそも、この縁談のはじめ、宮中から密かに薫子への問い合わせがあったという。「一条家の姫君のうち、どちらが皇太子妃として相応しいお方であろうか?」
薫子は熟慮した結果、「お妹君の寿栄(すえ)姫様はお人柄といい、御教養といい、まさに未来のお后として恥ずかしくないお方と存じます」と答えた。かくして寿栄姫の入内(じゅだい)が決まるのだが、この皇太子こそ後の明治天皇であり、寿栄姫は若き日の昭憲皇太后だった。
自分の教え子が皇太子妃となったことから、薫子は大の皇室崇拝者となったそうだ。元々彼女は尊王攘夷思想の持ち主だった。少しでも学問を受けた知識層なら、徳川封建社会の行き詰まりに気付き、この新思想に引かれるのが当時の風潮で、彼女もその例外に漏れなかったのだが、寿栄姫の入内はそれに拍車をかける。
だが、徳川時代にあっては尊王攘夷は反体制的、現状否定の革命的思想であり、危険思想と見なされていた。薫子が熱烈な尊攘思想家になればなるほど、父は気を揉んでいたという。やがて歴史は大転換を迎え、幕府は倒れ、明治維新の実現となる。弟子の寿栄姫は輝かしい皇后として、万民に仰がれることになった。薫子は皇后付きの女官として明治政府にも絶大な発言力を得ることになり、この時が彼女の人生の絶頂地だった。しかし、その栄光もつかの間で、その原因は皮肉にも彼女の高い学識にあった。彼女の漢学こそが不幸と没落の元になっていく。
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彼女が、天皇家の嫁として、長女ではなく、二女を推薦したというのは、自分自身も含めて実力主義という思考傾向があったのかもしれませんね。
ただし、四書五経などという儒教の書物に詳しくなればなるほど、屁理屈で凝り固まる、頑固者という側面も出るのかな、と思う。井沢元彦が、朱子学の一方的論理を厳しく責めていますが、要するに、物事を良く研究して、帰納的に結論するという思考をせず、儒教の原理原則にもとづき、何事も偏見(儒教的偏見)で、一刀両断に善悪二元論で、善のためなら、嘘だろうが、歴史歪曲だろうが、歴史捏造だろうがOKという、とんでもない独断ぶり・・・・今の中国政府も、韓国の歴史学会も、全く同じですが。
若江も、個人としての善良さ、暖かさは別として、やはり自分の学問に自信がありすぎで、現実世界に目を開いて、広く視野を持つという、ほんとうの学者なら当たり前の努力に欠けていたと言える。或いは、彼女の考える学問、正義とは、儒教の教えそのものしかないので、視野を広げる必要性を、全く考えなかったのかも知れません。李氏朝鮮の両班(やんばん)官僚達と同じで、視野が狭すぎます。明治の世の中となって、外国の文明などが入ってくると、当時の日本人達は、まず「好奇心」を持ち、新しい世の中、変化の方に興味を持ったと思うけど、一部の儒学者らは、殻に閉じこもったのでしょう。
挙げられた永井氏の本は、「北条政子」ではないでしょうか?北条時子についての著書は確かないはずです。私も「北条政子」は読みました。それまでは権力欲の異様に強い冷酷な尼将軍…というイメージだったのですが、そうではなかったというのが面白かったですね。むしろ真の権力者は北条家の男たちだったそうです。
朱子学は中原を追われた中華の民による恨みと捲土重来を目指す夢想が元になっていますよね。これが日本にも影響を与え、水戸学にも取り入れられています。それが昭和の軍国主義にも繋がっていったようです。
ただ、これは儒教の特殊現象だけではなく、私以外にも一神教の原理主義と似た点を見る人もいます。確かに選民思想と中華思想はかなり似ている。韓国でキリスト教徒が多いのも、受け入れる精神風土があるのではないでしょうか。
歴史にイフは禁句とされますが、もし薫子が容貌に恵まれていたならば違う人生を歩んでいたことでしょうね。また、彼女が明治に欧米渡航をしていたら、果たして考えは変わったでしょうか?欧米列強の実態を見ようともしなかったところに漢学者の視野狭窄があったのかも。儒教は好奇心を去勢する働きがあるのかもしれません。
朱子学が、中原を追われての恨みに基づいていたことは、小生の念頭にはなかった。確かに、そういう理由から、ますます現実無視、夢想的になるのでしょう。夢想だから、いくらでも過激になれる、そこが有害です。
一つ、選民思想というのが、どの程度中国人庶民にも共有されているのか?皇帝は、「世界の主人」ですから、「出自」は農民でも、天帝からみとめられた人間として、選民意識は当然。しかし、皇帝の足下にひれ伏すのですから、大臣らを含め、皇帝以外は、忠誠のためには、その生命すら紙屑のような、くだらない存在ではないか?中国には、今でも人権思想など皆無のような気もする。
薫子が美人だったら?確かに、女性の心は容貌に左右される度合いが高いのでしょう。学問への自信と、現実無視!・・・・でも、それを容貌の悪さで説明しては、薫子も浮かばれないでしょう。単に儒学の欠点としてやる方が、優しい解釈かも。
確か井沢元彦氏も『逆説の日本史』で述べていたと思いますが、朱子学の登場した背景に、中華帝国が北方の蛮族に追われ、中原から撤退、南宋となったことを挙げていたはず。本来なら中原で君臨し、世界をあまねく統治すべき中華帝国の理想と現実があまりにも違い、夢想で自尊心をいやしたのです。
中国人は今でも人権思想など皆無だし、この先もずっと変わりないと思います。ただ、基本は中華思想だし、中国人というだけで例え素寒貧の百姓でも誇りにしているのでは?「阿Q正伝」など、無知蒙昧で人徳ゼロの最下層の男が主人公ですが、プライドだけは異様に高く、事実を自分の都合の良いように取り替え、勝者と思い込む自己欺瞞を繰り返している。
他の文化圏と決定的に違うのは中国で、長く続いた王侯貴族がいない。「王侯将相いづくんぞ種あらんや」の国ですからね。ただ、中華思想というのは、実際は何度も蛮族に征服されたコンプレックスの裏返し、とコメントした方もいました。古代ユダヤも最盛期ですらせいぜいシリアに覇をなした程度で、大帝国を建設するどころか、周辺の異民族に侵攻され続けた歴史でした。
>>容貌の悪さで説明しては、薫子も浮かばれないでしょう
周囲には優しかったので、これは仰る通りでした(汗)。本当は純な理想主義者だったと思います。もし彼女が利己的な人間なら、あのような人生にはならず、維新政府要人のようにあっさりと攘夷を捨て、開国を支持したはず。自分の筋を通した生涯でした。