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若江薫子-忘れられた女尊皇攘夷主義者 その②

2010-10-31 20:40:26 | 読書/日本史
その①の続き
 皇后付きの女官として絶頂にあったはずの薫子だが、心中は満足どころかかなり不満だった。天皇制の政府が成立し、その意味で“尊皇”は実現された。しかし、あとひとつの“攘夷”がまるで実現されないことに、彼女は憤然として激烈な建白書を明治政府に叩きつける。冒頭から「味(私)烈死して言上たてまつわり候…」とあり、建白書を要約すると、次のような内容だった。
攘夷の約束は全く実現されていない。一歩譲って西洋人の来航は認めるとして、あんな連中は犬猫同然にあしらえばよいのに、対等の待遇をしたり、ややもすれば彼らを崇拝するとは何たること…

 現代人からはもちろん、明治政府要人から見ても呆れるほどの時代錯誤と見なされ、政府は彼女の建白書を黙殺する。すると薫子は怒り狂い、さらに激越な文章を綴る。開国反対!キリスト教反対!東京遷都反対!当時でも政府には正気の沙汰と思われなかったという。薫子へのwikiの補注に木戸孝允岩倉具視宛書状の一文が載っている。
中宮(=昭憲皇太后)お付きの御女中にて、若江と申す婦人には稀なる学者にて、しきりに外国のことを憤り上書などもこれあり、攘夷説もっともさかんに陳論の由…

 優れた漢学者でありながら、薫子は驚くほど時代の流れに盲目だった。明治維新の推進者たちはもっと現実的で、口先では攘夷を唱えていたが、これは開国主義の幕府を倒すお題目に過ぎず、本気でそれを信じている者などいなかった。しかし、世間知らずの公家の姫君育ちの薫子は正直すぎた。心底攘夷を信じ切っており、維新後の政府のやり方に酷く裏切られた思いだったのだ。かつては進歩的、革新的思想家の持ち主ととして知られた薫子は、今度は攘夷思想の危険人物として警戒され始める。

 明治2(1869)年、政府参与の横井小楠(しょうなん)十津川郷士に暗殺される事件が起きた。この時薫子は暗殺者を弁護、「私を処刑して下さってもいいから、犯人を助けて下さい」と言っている。彼女は横井を日本をキリスト教化しようとする国賊と誤解していたらしく、元から石頭の女学者の一徹な建白書に閉口していた政府は、これ幸いと彼女の身柄を拘束、蟄居させ、皇后から遠ざける。
 のち、病弱のため父の家に預けかえとなり、他人の面会、通信も禁じられること2年、父の死を契機に許され、その間にも時代は流れていく。それでも彼女は自分の信念を変えなかったらしい。

 半面、身近の者には優しかったようで、父の死後、その側女だった老女を引き取り世話をしたという。その頃、生活がかなりひっ迫していた薫子は、この老婆が病気で寝付いてからは薬代に追われ、さらに貧困に落ち込むが、細々と手習いの師匠などをしながら、息を引き取るまで介護し続けた。
 老婆の死後、彼女はかつての志士の仲間を次々と訪ね、西国を転々とし、最後に丸亀の岡田東州という漢学者の元に落ち着いた。彼も昔の志士の仲間で、しかもその妻を世話したのが薫子だった。彼女はそこで漢文や和歌を教えていたが、明治14(1881)年秋、47歳で死去する。

 危険人物視されてからは、かつての教え子である昭憲皇太后との間は自然に絶えたらしい。ただ、薫子が四国で落魄の暮らしをしていた頃、皇太后が東京で女子の教育奨励のために高等師範学校を視察した際、生徒一同へと金一封が下賜されたことがあった。女高師ではこれを記念し、その金で皇太后の愛読書だった薫子の『和解女四書(わげおんなししょ)』を印刷することにした。だが、これが完成した明治16年、薫子は既に他界している。

恐るべき頑固さと時代錯誤-薫子の一生は生一本すぎてむしろ悲しい」、作家・永井路子氏は彼女をこう評している。ただ、このような人物は明治初期に限らず現代でもいると思われる。良家のお嬢様で才媛、首席で卒業しても、世の中知らずで実社会ではうまくいかないというタイプ。海外思想に入れ込み、時代が変わっても墨守する者は左右双方にいるではないか。若き日の薫子は文天祥の著書『指南集』の注釈書を書き、周囲を驚かしたが、文天祥は彼女の精神上の師匠だったのか?ならば、己の信念に殉じる生き方を理想としていたはず。そして菅原道真に連なる家柄の出にせよ、時の政府に疎まれ追放されたのでは奇しくも同じなのだ。
■参考:「歴史をさわがせた女たち」永井路子著、文春文庫

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (cucciola)
2010-11-01 19:27:12
こんにちは。
ご無沙汰をしております。
私も永井路子さんの「歴史を騒がせた女たち」の中で、若江薫子の項は大変印象に残りました。彼女の名前をほとんど知らなかったこともありますが、幕末から明治の変革期にここまで自己主張をして生きた女性がいたというのが大変新鮮でした。時代錯誤は残念でしたが頭脳が明晰であっただけではなく、情も深い人だったんだなあと思います。不遇になくなっていますが、潔い生き方だなあと思いました。
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cucciolaさんへ (mugi)
2010-11-01 22:06:05
こんばんは。こちらこそご無沙汰しておりましたが、貴女のブログは何時も面白く拝見しております。

 私も永井さんの「歴史を騒がせた女たち」で、初めて若江薫子のことを知りました。あの当時の公家出身ながら、建白書を出した女性がいたこと自体驚きました。永井さんも書かれていたように、現代に生まれていたならば女性評論家となったことでしょう。
 残念ながら彼女は成功者ではなかったため、馴染みの薄い人物となりました。しかし、昭憲皇太后の恩師で著書も残しているから、この先も完全に忘れ去られる人物ではないかもしれませんね。あの激動の時代、とかく変わり身の早い性質の日本人の中で、信念を貫いた生き方というのも稀かもしれません。
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失念… (ハハサウルス)
2010-11-02 21:35:32
「若江薫子ねぇ…知らなかった」と思いながら読み進め、最後に「えっ、『歴史をさわがせた女たち』?」と本棚から本を抜き出し、目次を見れば…ありました。日本篇に書かれてあたったんですね…すっかり忘れていました。お恥ずかしい限りです。

永井氏は著書の中で、
「なんとしても惜しいのは時代を見抜く力がなかったことだ。大いに進歩的なつもりが、じつはとんでもない時代おくれだった、という教訓は、今でも通用することかもしれない。」
と書いておられ、あり得ることかも、と思いました。卓越した才能も、柔軟な思考が伴わなければ、埋もれてしまうのですね。当時としては稀有の存在だったのでしょうが、時代に合わないことは不幸でしたね。
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RE:失念… (mugi)
2010-11-02 22:49:10
>ハハサウルスさん、

 貴女も『歴史をさわがせた女たち』を読まれていましたか!これの日本編、外国篇、庶民編を私は持っていますが、本当に面白い。若江薫子という美しい響きとは正反対の生涯を送った人物だったので、妙に憶えています。

 永井氏も書かれていますが、薫子に時代を見抜く目がなかったのは実に残念なことでした。女性学者としては先駆的な存在だったでしょうが、時代や運もあり、歴史から埋もれた存在となりました。時代の最先端だった思想ほど、その変化によって時代遅れになりやすいのかもしれません。もっとも、先見性を持ち合わせている人は少ないし、さらに柔軟な思考となれば凡人には難しいでしょう。
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Unknown (Unknown)
2010-11-03 00:23:41
友達いますか?
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Unknown殿へ (mugi)
2010-11-03 21:14:47
>>友達いますか?

 実に愚問ですね。もちろん現実、ネット共にいますよ。信じなくとも結構ですが。
 むしろ、名無しでこんな質問をするあなたこそ、友人がいるのですか?名無しでコメントする類こそ、他人との交流を恐れているタイプでは?
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いいね (ゴハン)
2014-12-03 07:24:59
もっともっと知りたいわ
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Re:いいね (mugi)
2014-12-03 21:11:59
>ゴハン氏、

 もしかして、Facebookの「いいね」は貴方だったのでしょうか?たとえ貴方が別人であれ、わざわざ4年前の記事にコメントを有難うございました。
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