その一の続き
第1章「ワシーリー・スリコフ『フョードシヤ・モロゾフ』」の物語からして暗い。画家スリコフやフョードシヤ・モロゾフという人物名も初耳だが、後者は日本の菓子メーカーとは無関係。1672年11月に起きたフョードシヤ・モロゾフ公爵夫人逮捕を描いた歴史画で、逮捕したのはロマノフ朝第2代アレクセイ・ミハイロヴィチ。彼の後妻が産んだ息子がピョートル大帝。
アレクセイの治世にはロシア正教会から古儀式派が分離する動きがあり、総主教ニコンはアレクセイの後押しを受け、宗教改革反対者への弾圧を開始する。はじめは税を倍にする程度の罰則だったが、やがて異端として教会から追放、投獄などエスカレートしてゆき、各地の首謀者を火あぶりにするようになる。
権力行使で増長したニコンはアレクセイにより解任されるが、それ以降も弾圧は続き、古儀式派の教会に逃げ込んだ人々は政府軍に皆殺しにされることもあった。辺境に逃れた人も多く、その一部はシベリアや満洲にまで達したという。そして処罰は上級貴族にも及ぶ。
スリコフにより描かれたモロゾフ公爵夫人は、かねてより古儀式派の擁護者として知られていたが、その階級の高さと政界にいる親族への配慮から、逮捕はあり得ないと思われていた。しかし改革を中途半端に終わらせたくないアレクセイは、ついに夫人にも死刑判決を下す。死刑は餓死刑だった。餓死刑という処刑があったことを初めて知ったが、いかにもロシアらしい。
アレクセイは宗教改革を強行したといえ、狂信のためではなく、ツァーリこそがロシアの支配者で教会はその下にあることを知らしめたのだ。この後ロマノフ朝の歴代ツァーリは、ロシア正教を国教として保護しつつ、完全な統制下に敷いて監視するようになる。ロシアでの古儀式派への迫害は帝政時代を通して行われ、ソ連邦になっても続いたという。
ロシア史と言えば農奴制を連想する人は多いだろうし、wikiにも「ロシアの農奴制」が詳しく解説されている。農奴制を法制化、農民の移動の自由を奪い土地に緊迫したのもアレクセイだった。農奴には人頭税はもちろん結婚税、死亡税まで課せられ、逃れる術もなくなる。
この時代、ユロージヴィ(聖愚者)と呼ばれる者が激増したのも、農奴制確立が背景にあるらしい。ユロージヴィとは一切の財産を放棄、狂人として生きることを選んだ苦行者である。社会の埒外に置かれているため、言動がいかに常軌を逸しても許されるし、稀に列聖される者までいた。
対照的に腕力に自信のある者はコサックになり、そうでない者はユロージヴィの他ない。まだ貧民はアルコール中毒になれなかった。貧しすぎて地酒もウオッカも中毒になれるほど大量には飲めないからだ。
そんな中、ステンカ・ラージンが登場する。コサックの大規模な蜂起として有名だが、結局は鎮圧される。彼を捕らえたのは同じコサックでも富裕層コサックで、政府軍に売られ、公開処刑されている。生きたまま四肢切断、次いで斬首されたと云われるが、モロゾフ公爵夫人事件の前年のことである。ツァーリ専制体制が確立されるのは、アレクセイの治世だった。
第9章は「イリヤ・レーピン『ヴォルガの船曳き』」。画家名は知らなかったが、絵だけは何かの歴史本で見ていた。著者も述べているとおり、現代人には船曳きという労働の実態はつかみ難い。浅瀬に乗り上げた船を移動させていると思われがちだが、実に過酷な労働だったことを本書で初めて知った。
動力がなかった時代、河川での船の運航は、下流へ行くなら帆に風を受け、また無風でも川の流れに乗って進むことができたが、水に逆らって上流へのぼるには、人や馬が曳くしかなかった。船曳き人夫らは、それぞれ皮製や布製の幅広ベルトを体に巻き、船を引っ張り何時間も何日間も岸辺や浅瀬を歩き続けた。
遠くに蒸気船が見え、すでに帆船の時代が終わっていることが示される。なのにロシアの船主にとっては、人を使うほうがが安上がりだった。農奴や出稼ぎにきた農夫など、貧民はいくらでもいた。こんな当時の諺がある。
「借金が払えなければヴォルガ川に行くはめになる」「馬にはくびき、船曳きには綱」「墓穴が掘られるまで綱を引け」
日本ではダークダックスなどのヴォルガの船引き歌もあり、♪エイコーラで始まる歌は何処かのどかな時代の印象を受ける。しかし実態はかくも過酷だったことは殆ど知られていないだろう。
その三に続く
ロシア皇帝のイヴァン六世。周囲が権力闘争に敗北したので幼児時代から幽閉され、精神を病んでいたとの事。衛兵がからかうと「余はロシア皇帝だ」と叫びながら皿を投げつけたとか。エカチェリーナ二世の時代に殺害されます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B36%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D)
曲がりなりにもロシアの皇統が安定するのはアレクサンドル一世以降です。日本の鎌倉時代や室町時代、明朝でもここまで酷くないような。
そう考えると、日本でいう盗賊あがりの連中に苦戦する周辺諸国(日本も含む)というのも、なんだかなあと思います(笑)。
あれでアレクセイは「温厚」と言われていましたか!wikiに目を通したら、イヴァン6世が殺害された場所では、無数の遺体が墓石も無く埋まっていたそうで、これも恐ろしい。
そしてロシアの皇統が安定するのは、アレクサンドル一世以降でしたか。王朝末期近くなってとは呆れます。
日本と違い大陸の盗賊上がりは天下を取るのだから、やはりスケールが違います。乱世に任侠の親分が支配者になることなど、日本ではありえません。