トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

田沼意次とマスコミ

2009-09-23 20:25:13 | 読書/日本史
 田沼意次といえば、一般に江戸時代の汚職政治家として知られている。もちろん田沼が賄賂と無縁だったはずはないにせよ、有能な政治家でもあったのは事実である。しかし、田沼の功罪両面を知る人は案外少ないのではないか。そして、田沼の悪事やその根拠とされたものが、一様に殆ど彼の没落以降、それも大量に作り出されていることも。

 私が中学生の頃、歴史の教師が田沼意次を取り上げた後、江戸時代の川柳「役人の子はにぎにぎを能覚(よくおぼえ)」を紹介していた。教師は「この“にぎにぎ”とは何を指すか、分りますか」と問うと、すかさず「キ○タマ」と答えた男子生徒がおリ、教室は笑いに包まれた。まだ若く独身のこの教師は、そのような言葉は授業中に使うなと注意、賄賂のことだと説明した。「キ○タマ」発言の男子もおそらくそれは分っていたと思う。ただ、歴史の苦手な生徒には田沼イコール江戸時代の汚職政治家の印象が植え付けられたことだろう。

 田沼は事務を素早く片付け、また多くの人々と会って決して人を逸らさず、また先見性も持ち合わせていた。長らく赤字の続いていた長崎貿易にも、輸出努力を行い黒字に転じさせる。彼は当時南米などで銀の産出が増え、金銀の比価が急激に変化してきたのを認識していた。彼はオランダから輸入した銀で新貨幣を鋳造するが、それを金銀比価を国際的なレベルに近づけることを狙いとしたと見る者もいる。田沼の政策は同時代の西欧諸国の重商主義と相通じるものがあり、彼が挫折していなかったならば、幕末に日本はより楽に対応できたはずとも言われている。

 国内でも年貢という直接税に専ら頼るのは止め、流通税を取るようにした。田沼は商業を盛んにすると共に、そこから税金を取ることにより幕府の財政を強化しようとしたのだった。商業が発展し、農業の相対的地位が低下しつつあった以上、農民から取り立てる年貢を中心にして財政を営むのでは財政難に陥るのは必然であり、彼が商業に目を向けたのは正しい。
 ただ、モノを流通させる商業には危険も大きく、士農工商の階級社会だった当時は、この言葉の発祥国・中国同様に商業を卑しむ態度も根強かったのだ。金融となると特に規律が失われやすい面があり、21世紀の現代でもこの問題は克服できていない。

 当然、田沼時代に行き過ぎがあったのは否定できず、江戸や大阪の商人が際立って豊かになったことは庶民や武士達を怒らせた。だが、ブームの時はそれをはやし立て、一旦世の中の風潮が変わるや、それに対し始めから反対であったかのように、かつ道徳主義の立場からこき下ろし、悪者を探し出そうとする傾向があるのは今でも同じなのではないか?残念ながらそのような人間は多い上、日本に限ったことではない。ただ、このような攻撃は対象となった人物が下り坂になった時に行われ、それが功を奏することが多いこと、その人物が権勢のある時は讃え、へつらう者が多数を占めるのが人間社会なのだ。
 高坂正堯氏は1991年9月、月刊誌『FORESIGHT』で「(田沼意次批判)考」というコラムを寄稿しており、折りしもバブル後の世論と重ね合わせて、以下のように述べている。

そして、我々は現代の日本において同じようなことを目の前にしているのではなかろうか。少し前までは“財テク”が人気の的だった。それに加わらない人は何か間抜けの様に見なされる傾向さえあった。新聞はそれぞれ財テクのコーナーを設けた。それがバブルが終わり、株価が暴落した今日では、一転してバブル批判と悪者探しである。そうした豹変はあさましい

 それ以上に、そうした態度では必要な教訓を学ぶことも出来ない。というのは、悪者探しは所詮うっぷん晴らしでしかないからである。このところ補填をしたものとされたものが、その悪者の代表であるかのようにされている。感情的にはそれは十分理由のあることだが、しかし、それでは重要なポイントが見失われる。すなわち、何故バブルが生じたのかを考え、その再発を防止するための対策を立てるといったことがいい加減になる恐れがある。
 バブルは一部の悪者が起したものではない。いくつかの条件が揃う時、普通は健全な社会が投機熱にとりつかれることを世界の歴史は示している…それに、バブルは結局システムの欠点の結果、生じたものである。だからシステムの改革が必要なので、悪者を探し出し、処罰するのは人々を心理的に満足させるスケープゴード作りでしかない


 私は子供の頃、TV時代劇「天下御免」を見て、初めて田沼意次の名を知った。この番組は平賀源内が主人公ゆえか、田沼の汚職面は触れられず、子供心には主人公を庇うよい人との印象があった。それが後に途轍もない汚職政治家だったと歴史の授業で教えられ、TVとのイメージギャップに混乱した。人心を駆り立てる世論というものの恐ろしさは、江戸時代も現代も殆ど変わりない様に思える。
■参考:「世界史の中から考える」(高坂正堯 著、新潮選書)

よろしかったら、クリックお願いします
   にほんブログ村 歴史ブログへ


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Re:国営カジノ、国営遊郭 (mugi)
2009-09-25 22:26:04
>のらくろ さん

 私はまだ井沢氏の『常識の日本史』を未見ですが、“熱帯雨林”のレビューを見たら面白そうな内容ですね。私自身はギャンブルはしませんが、国営カジノは賛成です。少なくとも“朝鮮玉”に使うくらいなら、日本の国営カジノの方がマシ。少し前、東京でのカジノ建設にマスコミが好意的でなかったのも、スポンサーの意向が働いていたのでしょう。

 セックス産業の問題について、私は無粋な朴念仁ゆえ浅学ですが(藁)、この種の職業は色々難しい問題があるのは昔からですね。かつての公娼制度は貧しさゆえに成り立っていましたが、現代の性風俗従業者はまた事情が異なるように思えます。かなり前、フランス滞在のある文化人がパリの娼婦の大半はフランス人ではなく外国人だと書いていましたが、今の日本も外国人娼婦がかなり多いのではないでしょうか?特に隣国の女達が不法入国、滞在し、日本で売春したり、その元締めもまた外国のシンジケートとなっているような。売春業にヤクザが絡むのは外国も変わりないです。

 紹介されたサイトですが、恵まれすぎると性欲も低下してくるのでしょうか。以前、年配のブロガーさんからのコメントにも、最近の若者は動物的欲求が減少しているのでは、といったものがありました。昔は貧乏人の子沢山でしたが、今は金持ちが子沢山となっています。昔と違い、女性も外で働いているため子供を多く持つのは難しい。社会の風潮もセックスレスや草食系男子を持てはやす傾向があり、何やら日本人の人口減少を目的としているのではないか?と疑っています。少子化担当大臣があの福島瑞穂ですよ。少子化を推進したくてたまらないような女がこの役職とは、ブラックジョークです。
返信する
国営カジノ、国営遊郭 (のらくろ)
2009-09-24 22:57:22
このタイトルを見てニンマリした方は、今年発売となっている井沢元彦「常識の日本史」を読了された方であろう。

この本の第14章「田沼意次は本当に汚職政治家か」の冒頭で「あなたは日本の政府がカジノや売春業で国家財政をうるおすことに賛成できますか?」と問いかけている。つまり、当時の商業のイメージというのはそのような「賤業」というもので、特に支配者層である「士」すなわちサムライたちは、朱子学の影響もあって、「商」とは本当に穢れたものと認識していたようである。

だが、私は井沢氏の問いかけに「もろ手をあげて賛成」である。まずカジノだが、狭義のそれではなく広義、すなわち公営ギャンブルなら、競馬、競輪、ボートレース、オートレースが既にあるし、自治宝くじだって似たようなものだ。それが国営カジノとどうちがうのか、峻別できる手段があるかというと、私にはわからない。どなたか腑に落ちる説明をしてもらいたい。

もうひとつの国営遊郭だが、これについては国営カジノよりも手の上げ方が少し低くなる。もちろん以前にカキコしたように、(大部分が売春婦となるであろう)セックス・ワーカーは非常勤の公務員たるべしという持論は変わらない。営業場所も隣接空間とは隔絶し、壁なり郭(だから昔は遊郭と言った)の内と外は全く別の世界と就学前の子供が見てもわかるようにしておくべきである。今のような(もちろん違法だが)本デリ(本番デリヘル)のような商売は当然に排除されなければならない。「なぜ公務員なんだ!」という疑問については、郵政民営化が何をもたらしたかよく考えろと言いたい。今を去ること1年前、リーマン・ショックでアメリカ経済がガタガタになって、そのとばっちりを日本の輸出関連業界がモロに受けた構図だが、あのままアメリカの金融が繁栄をつづけたら、郵貯350兆円はすべて米国債に化け、それが最高値をつけたところでアメリカがデフォルト宣言をしてしまえば、我が国民の財産は完全にアメリカに掠め取られるところだったのだ。これと同じく、民営遊郭であれば、ことと次第によっては簡単にハゲタカ・ファンドに乗っ取られてしまう。そうなると、「民族の繁栄・継承」の肝心要の部分が、外国勢力によってコントロールされるという事態になりかねないのだ。「昔はこんなことが憂慮すべき事態だったんだなー」と過去を振り返るなんて、そんなのいやだ↓
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200805/contents07/vol19.php

国営遊郭の一点の曇りは「国家財政をうるおす」が目的化すること。これはつまり、客からセックス・ワーカーまでの資本移動がある間に、国なり地方なりが大幅なピン撥ね、収奪を行うことに他ならないからだ。それは収奪者がヤクザから官憲に変わったというだけで、戦前の「娘身売り」となんら変わらないではないか。客の料金の半分以上は実際に「接客」を担当するセックス・ワーカーのものであるべきだ。

返信する