トーキング・マイノリティ

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若者に告ぐ

2007-09-03 21:19:42 | 読書/ノンフィクション
 80年代半ばに書かれた塩野七生氏のエッセイ『男たちへ』の19章は、「オール若者に告ぐ」という題名になっている。文字通り内容はオトナから若者への忠告となっているが、21世紀の現代でも通じるので、本から一部抜粋したい。

「若者」たるもの、「オトナ」が自分たちを分かり理解するなどということを、絶対に期待してはいけない。世代の断絶と、よく人は言う。そして、それを口にする人は嘆きと絶望をこめて言うのが普通だ。だが、私にしてみれば世代の断絶はあってこそ当り前の自然で、なかったとしたら、その方が気味悪くて不自然なのである。各世代に断絶があるからこそ、次の世代は新しいものを創り出せるのである。新しいものを作り出すエネルギーを貯えることが出来るのである…
 若者に必要なのは、本当の「オトナ」と、反対に理解の顔をしたがるつまらないオトナを判別する能力である。「若者」の味方ぶるオトナは、断固無視が彼らに相応しい唯一の評価なのだから。若者の味方ぶるオトナは、大別して三つに分類できる。


 第一は商売上の都合で、つまり金儲けのために若者に媚びを売る人たち。ヤング・フェア、ヤング・コーナー…その他のCM上の若者一辺倒の裏は、全て一万円札で張りめぐらされていると思って間違いない。
 第二はマスコミの世界で、雑誌や書籍や新聞やTVの世界で、若者の味方ぶるオトナたちである。これは一見商売とは繋がっていないように見えるが、実際はデパートの売場と全く変わりはない。若者の味方ぶる方が、彼や彼女たちの商売にとってより有利であると判断しての傾向だから、全く変わりはないのである。第一の種類の「商売」に、この第二の「商売」が実に巧みに組み合わされている事実が、それを証明している。

 第三は心から若者の味方であることを望み、理解者であることもまた、心底から信じているオトナたちである。この種の人々は自分たちの行為の必要性と正当性を確信しているから、もちろんのこと「商売」に繋がるなどとは思ってもいないし、関心もない。それ故、自分たちの示す理解が若者の成長に欠くべからざるものという確信によって、動くオトナたちである。
 この種のオトナは、第一や第二よりも、格段に始末が悪いのだ。何故なら第一と第二のオトナたちだと、商売でやっているのだから当然のことながら、流行り廃りに敏感である。若者の見方ぶることが流行っている時期はそれぶるが、廃り始めるや若者にソッポを向くなど、良心に何の呵責も感ぜずにやってのける。「若者」にとって、本当の「オトナ」とつまらないオトナを判別するのが容易だから、問題はないのである。

 ところが、第三種のオトナは確信犯だけに判別も面倒なことになる。スパイだって、金儲けと確信犯では、絶対に確信犯の方が捜査が難しいではないか。しかも、確信犯だけに流行に囚われない。誠心誠意、若者の味方ぶり続ける。
 しかし、用心しなければならないのがこの種のオトナであって、ために若者たるもの、世代の断絶こそ双方の利益と考え、この種の本当につまらないオトナも、断固排除するに越したことはない。彼らにチヤホヤされていい気になっているうちに三十歳になったというのでは、「若者」の沽券にかかわるではないか

 私が『男たちへ』を読んだのは90年代後半であり、既に「若者」ではなくなっていたが、塩野氏の意見には全く同感だった。この章の「若者」を女性や日本人に、オトナをお偉方または外国人に置き換えてみたらどうだろう。女性の味方ぶる文化人など、マスコミで大手を振っているではないか。また、日本人に媚(または説教)で商売するつまらない外国人がいかに珍重されていることか。

 しかし、数は少ないだろうが、オトナを利用するしたたかな若者もいるのだ。若さの驕りにいる彼ら彼女らは、大人の地位や懐目当てに擦り寄り、利用するのに何のためらいもない。若さゆえの美しい容姿で、オトナたちを翻弄する。彼らに丸め込まれ、金を捻出した挙句サヨナラでは惨めだ。オトナの味方ぶる若者を判別する必要性も、無粋な老婆心からオトナに告げたい。

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3 コメント

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いつか行く道 (ハハサウルス)
2010-11-28 23:13:41
世代間には「断絶」とまではいかなくても、埋めようのない溝があるのは仕方がないのでしょうね。「今時の若いもん」は順送りで生まれてきますし、年を取れば多少なりとも頑固になり、変化を嫌う傾向は大なり小なりあります。価値観の変化があるからこそ、時代は進んでいくのでしょう。振り返ればわかることでも、その渦中にいる時にはわからないですし、過去には戻れない…、若者もいつしか年を取り、その座を次代に明け渡すのです。

私にももちろん若い頃があり、失敗も沢山しました。年長者にぶつかっていったこともあります。周りはハラハラしていたそうですが、当人は平気でした。今思うと「よくまぁ」と自分でも思いますが、それも若さゆえのいい思い出です。今なら「灰色もありか」と思えますが、やかり「白は白、黒は黒」という思いもありましたしね。でも、年長者側も負けていませんでしたよ。きっちりやり込められていました(笑)。

時にはぶつかり合っていいじゃないかと思います。早くから老成するのはつまりません。どうせいつか行く道です。迎合するよりちょっとケンカする位の方が、関係が深まると思います。

「少年はいつしか大人になっていく」のです。でも、その少年時代にどんな過ごし方をしたのかで、その後が大きく変わっていくのでしょう。「オトナ」になるのか「大人」になるのか、それこそ塩野氏の言われるように、ちやほやされているうちに、気付いたら…なんてことでは、若者の特権を自ら放棄していることになるのかもしれません。

「今時の若者」はいつの世にも必要なんですね。
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すみません (ハハサウルス)
2010-11-28 23:17:32
すみません、字の間違いがありました。

「やかり」 → 「やはり」に訂正させて頂きます。そそっかしくて申し訳ありません。
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RE:いつか行く道 (mugi)
2010-11-29 21:30:55
>ハハサウルスさん、

 今にしてと思うと、私も若い頃はかなりクソ生意気な若者だったと思います。訳も分からず年長者にぶつかり、失敗もかなりしました。その時を思い出すと、私も「よくまぁ」と呆れますが、それも未熟な若さゆえでしょう。若い時分は「白は白、黒は黒」の傾向が強いのですが、年を経ると灰色も必要となってくる。よく言えば丸くなったのでしょうけど、世知も身に付けたと思います。
 では、本当の「大人」になれたのか、と問われれば、心もとないですね(笑)。自分のことは見えませんが、同年代でも成熟度は個人差があり、時には子供じみた人もいる。

 塩野氏もいうように、日本のマスコミではやたら世代の断絶を書き立てますよね。それもそのはず、第一と第二の理由が背景にあるので、世代間の相互理解などと言う。マスコミはオトナ世代の側ですから、商売のため若者をちやほやする手段に長けている。ズバリ言えば若者を利用しようとするし、それに乗せられる若者も少なくない。

 逆にオトナに迎合せずともいい面をしっかり学び、それを自分の成長の糧にする若者こそ本物の「大人」となります。さらに才能のある若者に口出しするのではなく、その才能を見極め取り入れるのも真の「大人」だと思います。
 同時に数は少ないでしょうけど、若者に迎合して、利用される「大人」もいます。若者の理解者になったつもりで、いい年をして貢がせられた「大人」を個人的に知っていますが、それこそ「大人」の沽券もないですよね。
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