その一の続き
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの祖先とは、会話は出来なかったと思われている。しかし、前者のDNAは現生人類にも数パーセント入っている。つまり、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの祖先と性交渉をしていたのだ。言葉は通じずとも、性行為は出来るから。
最終章に載った著者自身のエピソードは面白い。2018年の春まで著者は早稲田大学の国際教養部という外国人学生が多い学部で教えていて、国際結婚をする学生もいたそうだ。異国の人同士が結婚して子供を産むのは、多様性を増やすという意味においても良いことです、と言っている。続けてこう述べていた。
「私は大学で、学生に対して「現生人類で最も偉大だったのはネアンデルタール人とセックスした女だ」という話をよくしていました。それは冗談のように聞こえる話かもしれませんが、実はホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人との交雑によって獲得した遺伝子のおかけで生き延びる事ができたのです。」(218頁)
この話を見て思わず、ネアンデルタール人とセックスした現生人類の女は、果たして合意の上だったの?とツッコミを入れたくなった。会話も通じない相手だったし、それってレ○プだったかも、と言いたくなる。21世紀でもホモ・サピエンスはそれを繰り返しているので、ネアンデルタール人にレ○プマンがいてもおかしくはない。
ただ、“純系”のネアンデルタール人は3万9千年前に滅んでおり、その後はホモ・サピエンス同士で交配していたので、ネアンデルタール人の血はどんどん薄くなり、遺伝子も確率的にはどんどん希薄になっていくはずなのだ。
ところが、それでも実際にはネアンデルタール人由来の遺伝子がなくならないのは、その遺伝子を持っている者ばかりが生き延びてきたことを意味するという。逆にいえば、ネアンデルタール人の遺伝子を持っていない者は生き延びられなかったということ。ネアンデルタール人との「交雑種」こそが、絶滅せずに生き延びた、と本書では断言されている。
ネアンデルタール人と交わることで獲得された遺伝子の中には、耐寒性に寄与するものもあったと考えられ、これは最終氷河期に耐えてホモ・サピエンスが生き残るために大いに役立ったと考えられているという。さらに最近ではインフルエンザに強い遺伝子を受け継いだのではないかと言われているとか。
もうすぐ、どころか当分はいなくなりそうもない生物のひとつにアミメアリがいる。本書で初めてこの種を知ったが、第二章で「アミメアリの不思議な生態」が解説されている。
大抵のアリは女王アリがいるが、アミメアリには女王アリはいない。その代わりなのか、アミメアリには「働かない働きアリ」がいるそうだ。形態は普通の働きアリでも、全く働ないアリなのだ。
多くのアリのコロニーにも「働かない働きアリ」は見られるが、「働いている働きアリ」を除くと「働かない働きアリ」の一部も「働く働きアリ」になるので、遺伝的に決まっているのではなく、状況次第らしい。
しかし、アミメアリの「働かない働きアリ」は遺伝的に決定されており、「働かない働きアリ」の子孫もまたそうなる。彼らは自分の子の面倒を見ず、「働く働きアリ」が子育てをするそうだ。エサも自分では取らず、「働く働きアリ」が持ってきたエサをもらって食べている。そのため余計なエネルギーを使わず、繁殖効率は「働く働きアリ」よりも良く、より子孫を残せるらしい。
「働かない働きアリ」の割合が半数を超えると、巣は崩壊してしまう。そうなると「働かない働きアリ」も生きていけないので、その時だけは他のアミメアリのコロニーを探し、首尾よく潜り込んだ者は、そのコロニーで増え続け、コロニーをいずれ崩壊させてしまう。
この「働かない働きアリ」は同じ身内の寄生虫のような存在だが、それでもアミメアリは1万年以上前から生きている。寄生虫は、宿主を絶滅させてしまえば自分たちにも都合が悪いので、宿主を滅ぼさないメカニズムを何か持っているかもしれないし、ホストのほうでも共存するやり方を編み出したのでしょう、と著者は推論しているが、アリの世界もやはり働いたら負けらしい。
最終章の第六章「「絶滅」とは何か」」は、ユーモラスながら生物学者らしい意見で興味深かった。ひと口に「絶滅」といえ、血統の絶滅、地域個体群の絶滅、種の絶滅など様々あるが、地球上の生物には交雑してできた種もある。
その生物は複数の種の掛け合わせからできているので、交雑する前の種が絶滅し、交雑種のほうだけが残った場合、それは何が「絶滅」したという話になるのでしょうか、と著者は疑問を呈している。
例えば恐竜も一般には「絶滅」したことになっているが、恐竜の一部は鳥になっているので、恐竜は「絶滅」していないとも言える。絶滅したとこの恐竜は系統としては絶滅しているとは言えないワケです、と。
同様に人類でも著者は、「遺伝子レベルではネアンデルタール人もデニソワ人も絶滅していない」と断言する。種のレベルでは絶滅しているのだとしても、系統として絶滅していることには必ずしもならず、そもそも700年万前に現れたヒトの系統の一部は現代に至るまで存在していて、現生人類に繋がっているというのだ。
また著者は、ネオダ―ウィニストの意見には批判的で、生物の形質や生活様式には全て適応的な意味があるという考え方は偏見だと述べている。生物学からすれば、誕生も絶滅も神秘でもないらしい。
これは間違いです。
閉じた環境で(他の世界から遺伝子が提供されない環境で)、その遺伝子が生存率に影響がない場合、遺伝子の割合は変わりません。
ある遺伝子 X を持つ人が、子にその遺伝子 X を伝える確率は 50%です。(人口が維持される仮定で)2人の子を持つと平均1人に遺伝子 X が伝わるので、割合は変わりません。
ある世代でネアンデルタール人由来の遺伝子が1%だったとすると、次の世代でも 1%です。
ABO血液型を例にとると、日本人では B より A が多いのですが A と B の割合はずっと一定です。
遺伝の法則の初歩の初歩なので、著者が間違って書いているとは考えにくいです。
ネアンデルタール人由来の遺伝子が(生存率を向上させ)全員に行き渡るまで増えたといっているのではないでしょうか。
人間にも同類がいますね。しかし人間はアリほど寛容ではないので、働かず寄生し続ける種は後で手ひどい報復を受けるのが人類史のパターンです。
「その後はホモ・サピエンス同士で交配していたので、ネアンデルタール人の血はどんどん薄くなり、遺伝子も確率的にはどんどん希薄になっていくはず」の箇所は私の意見ではなく、本書に記載されています(218頁)。これは間違いだったのでしょうか??その直後にはこう書かれていました。
「ところが、実際にはそれでもネアンデルタール人由来の遺伝子がなくならないというのは、その遺伝子を持っている者ばかりが生き延びてきたことを意味します」
後の文章は、「ネアンデルタール人由来の遺伝子が(生存率を向上させ)全員に行き渡るまで増えたといっている」という意味だったかもしれませんね。どうも素人が読むと、遺伝子も確率的にはどんどん希薄になっていくと捉えてしまいます。
古代の戦争では、負けた側の運命は、男は皆殺し、女は戦利品として敵国に連行され、支配民族の子供を生まされると決まっていました。女性にとっては、おぞましいのですが、最も効果的な異民族支配方法です(現代の中国が、ウイグル人やチベット人に行っていることは、本質的に同じです)。
法も道徳も倫理も存在しない原始時代では、状況はもっと悲惨だったのではないかと思います。
第二次世界大戦でも、米軍だけがお行儀が良い紳士だったわけではなく、ドイツ領内で派手に強姦や略奪を行いながら進軍していたことが明らかになっていますし、ユーゴ内戦をはじめ、人間が人間であり続ける限り、この手の話がなくなることはないでしょう。
古代から、国防の本質は基本的に変わっておらず、「どれほど、男の屍の山を築いても、女性と子供の安全だけは確保しなければならい」ことに尽きるのですね。女性と子供が無事なら、国民国家の存続は可能ですから。
戦争になれば、人が多く死ぬから白旗を上げろと言っている人達は、白旗を上げた後も今まで通りの生活ができると考えていますから、国防の必要性や重要性を説いても、永遠の平行線になってしまうのだと、今回のロシアのウクライナ侵略戦争において痛感しました。
そもそもネアンデルタール人はホモサピエンスよりも体と脳が大きかったはず。これではホモサピエンスの村を襲撃、女性をさらってレイプするのは当然でしょう。
仰る通り古代はもちろん中世の戦争でも、負けた側の男は皆殺し、女は戦利品として敵国に連行され、支配民族の子供を生まされることは少なくなかったと思います。殊に原始時代では部族が違えば、殺し合いが当たり前でした。
最近はウクライナ侵攻ですっかり霞んでしまいましたが、中共のウイグル人やチベット人への民族浄化は進行中です。それ以前からシリアやイエメンでは戦禍が収まらず、世界は何処でも紛争は絶えません。
米軍はフランスでも強姦や略奪を行っていたのです。フランス女性はドイツ軍が去った後、米兵の性暴力の対象になりました。力づくで愛人にされた女性もいたことでしょう。哀しいことにこれが戦時の人類なのです。
>>古代から、国防の本質は基本的に変わっておらず、「どれほど、男の屍の山を築いても、女性と子供の安全だけは確保しなければならい」ことに尽きるのですね。
まさに正論ですが、日本にはこのことが分からない女性が多すぎます。敵側にはもっとイイ男がいるかも……とほざくのが最高学府の女学者という始末。
戦争になれば、人が多く死ぬから白旗を上げろと言っている連中は外患誘致の確信犯だと思います。そんな輩に国防の必要性や重要性を説いても全くの無駄。文化人や法曹界のみならず、現職国会議員にもその類がいるため厄介です。
他のブログでは遺体の写真を載せている記事もあるし、検索すればちゃんとヒットします。ポータルサイトにより「公序良俗」の基準が違っているのでしょう。
そうです。あれ?と思ったのですが、そう言う事ですか。分かりました。ありがとうございます。
サイト運営による、この手の明確な基準は明示されていませんね。
確かにボニー&クライドの遺体写真はショッキングだし、R15レベルだったかもしれません。
しかしモノクロだし、他のブログでは公開が認められていました。しかしgoo事務局では公序良俗に反するというのです。公序良俗の明確なガイドラインもないので、運営者によるところが大なのでしょう。