昭和20(1945)年の敗戦と共に国家神道は、戦前のナショナリズムの権化として解体された。現代なお国家神道は内外から批判を受け続けている。しかし、明治以前の神道と国家神道はかなり様相が異なる。一昨年の1月、河北新報のコラム「現代の視座」に山折哲夫氏が明治の宗教政策を書いていたので、一部抜粋したい。
「周知のように、明治始めに神仏分離令が発せられて、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れた。この上からの宗教改革によって神の領域と仏の領域が切り離され、儀礼も分断されることになった。信仰の内面が一刀両断の元に断ち切られたのである…
ことは何も宗教界だけの問題ではなかった。それは極めて自然な形で、学問の世界にまで影響の爪あとを残したからだ。まず帝国大学における仏教学はインド哲学の中に位置づけられ、神道学との間に研究上の障壁が設けられることになった。アカデミックな世界においても神仏分離の路線が布かれ、やがてその縄張り意識が肥大化していく。
それだけではない。この学問世界における神仏分離の流れは、私立の大学における宗教研究の岸辺をも洗うようになった。仏教系の私立大学は仏教の学問のみ、神道系の私立大学も神道の研究のみ、という分業体制がいつの間にか出来上がった…
ただ、そのような状況の中で唯一の救いは、民間では上からの宗教改革をまともに受けることがなかったということだ。表面上はお上の言うことに従いながら、神仏習合の信心を手放さなかった。首をすくめて神社にお参りし、墓参りのためお寺に出掛けることをやめなかった。神の社の傍らに観音や地蔵を祀(まつ)り、寺の境内に神々の祠(ほこら)を祭ることを忘れなかったのである…」
これだけで江戸時代までの日本は「神仏混交」がいかに甚だしかったか分かろう。水戸藩のような儒教が興隆した所は神仏分離政策が取られたが、これも一部の藩に過ぎない。水戸といえば尊王攘夷運動に強い影響を与えた水戸学の発祥の地だが、これも朱子学を重んじた結果成立した思想である。つまり、神仏分離体制は日本独自に発達したのではなく、儒教、しかも朱子学の流れを組んでいるのだ。作家・井沢元彦氏は朱子学を、「異民族に圧迫された(中華民族)が、その現実から逃避し自尊心を満足させるために構築した一種のヒステリー」と巧い表現をされている。
朱子学を尊重しなければ、水戸学も成立しなかったといえる。儒教を熱心に学んだ藩が神仏分離、尊王攘夷ひいては国家神道の魁になったというのも興味深い。いかにも正統派教義のみ認める儒教らしい影響だ。
英国国教会の成立は面白い。国王の離婚問題に端を発したといえ、国王が教会の首長(信仰の擁護者)というのは西欧諸国でも英国くらい。国教会とは特定の宗教・宗派を国家の公のものとして世俗権力が認めた組織であり、今日でも英国国教会は女王を首長としている。意外に知られていないが、英国は信仰の自由は認めながらも、英国国教会を国教と定めている。
激しい宗教戦争を繰り返す欧州大陸の混乱を尻目に、いち早く近代国家への変貌が出来たイギリス。その国家の中心の要が王室だったのは書くまでもない。英国のベストセラー小説『第四の核』に、「神と国王陛下と祖国のために死ぬ」という言葉があると記されているが、宗教と民族意識を組み合わせた国家ナショナリズムでも先んじていた訳だ。
カトリックとプロテスタントの折衷のような英国国教会を国内で作るのは問題ない。だが、英国は植民地でもこの教会をつくり、現地人にも国王への崇拝を要求、当然反発を買う。特にアイルランドでは“アングリカン・チャーチ”などと言わず、プロテスタントと呼んでいたそうだ。アイルランドに行った司馬遼太郎は、英国関連の建造物を現地人が破壊したことを得意げに話す女性を、著書『愛蘭土紀行』で紹介している。ちなみに日本の朝鮮支配は英国のアイルランド支配を参考にしたという。植民地統治ばかりではなく、王室と国家、宗教が連携する近代ナショナリズムもかなり学んだと思われる。
ヒンドゥー教なら神道以上の混交、習合宗教である。インドも英国支配が全土に及ばない18世紀頃までは、ヒンドゥーとイスラム、シク教の信者が共通の聖人の聖廟に参拝したり、宗派の異なる寺院を詣でることもあった。外来民族パールシー(インドのゾロアスター教徒)の保守派の祭司も、若い信徒に「他の宗教の寺院に行ってはいけない」と戒めている。つまり、異教の寺院に行くパールシーもいたとなる。だが、19世紀、特にセポイの乱後は様相が変わってくる。英国は分断工作のため宗派対立を盛んに煽り、社会の寛容性は失われていく。
明治以降の国家神道は日本の独自性や特異な現象などではなく、中華思想やら西欧の思想の影響が背景にあるのが分かって頂けたら幸いである。旧憲法でさえ、第28条条文に「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、一応信仰の自由は認めていたのだから。安寧秩序は当然だが、「臣民タルノ義務」の範囲は議論の的になったこともある。
日本の知識人及び文化人は宗教に疎い面があり、今でもマルクス史観の残滓を引きずっている学者もいる。宗教事情に無知な者ほど、国家神道の特異性を槍玉に上げ偏狭なナショナリズムと糾弾する。そのような連中こそ、マルクスと書記長と共産主義国家のために是非死んでほしいものだ。
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「周知のように、明治始めに神仏分離令が発せられて、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れた。この上からの宗教改革によって神の領域と仏の領域が切り離され、儀礼も分断されることになった。信仰の内面が一刀両断の元に断ち切られたのである…
ことは何も宗教界だけの問題ではなかった。それは極めて自然な形で、学問の世界にまで影響の爪あとを残したからだ。まず帝国大学における仏教学はインド哲学の中に位置づけられ、神道学との間に研究上の障壁が設けられることになった。アカデミックな世界においても神仏分離の路線が布かれ、やがてその縄張り意識が肥大化していく。
それだけではない。この学問世界における神仏分離の流れは、私立の大学における宗教研究の岸辺をも洗うようになった。仏教系の私立大学は仏教の学問のみ、神道系の私立大学も神道の研究のみ、という分業体制がいつの間にか出来上がった…
ただ、そのような状況の中で唯一の救いは、民間では上からの宗教改革をまともに受けることがなかったということだ。表面上はお上の言うことに従いながら、神仏習合の信心を手放さなかった。首をすくめて神社にお参りし、墓参りのためお寺に出掛けることをやめなかった。神の社の傍らに観音や地蔵を祀(まつ)り、寺の境内に神々の祠(ほこら)を祭ることを忘れなかったのである…」
これだけで江戸時代までの日本は「神仏混交」がいかに甚だしかったか分かろう。水戸藩のような儒教が興隆した所は神仏分離政策が取られたが、これも一部の藩に過ぎない。水戸といえば尊王攘夷運動に強い影響を与えた水戸学の発祥の地だが、これも朱子学を重んじた結果成立した思想である。つまり、神仏分離体制は日本独自に発達したのではなく、儒教、しかも朱子学の流れを組んでいるのだ。作家・井沢元彦氏は朱子学を、「異民族に圧迫された(中華民族)が、その現実から逃避し自尊心を満足させるために構築した一種のヒステリー」と巧い表現をされている。
朱子学を尊重しなければ、水戸学も成立しなかったといえる。儒教を熱心に学んだ藩が神仏分離、尊王攘夷ひいては国家神道の魁になったというのも興味深い。いかにも正統派教義のみ認める儒教らしい影響だ。
英国国教会の成立は面白い。国王の離婚問題に端を発したといえ、国王が教会の首長(信仰の擁護者)というのは西欧諸国でも英国くらい。国教会とは特定の宗教・宗派を国家の公のものとして世俗権力が認めた組織であり、今日でも英国国教会は女王を首長としている。意外に知られていないが、英国は信仰の自由は認めながらも、英国国教会を国教と定めている。
激しい宗教戦争を繰り返す欧州大陸の混乱を尻目に、いち早く近代国家への変貌が出来たイギリス。その国家の中心の要が王室だったのは書くまでもない。英国のベストセラー小説『第四の核』に、「神と国王陛下と祖国のために死ぬ」という言葉があると記されているが、宗教と民族意識を組み合わせた国家ナショナリズムでも先んじていた訳だ。
カトリックとプロテスタントの折衷のような英国国教会を国内で作るのは問題ない。だが、英国は植民地でもこの教会をつくり、現地人にも国王への崇拝を要求、当然反発を買う。特にアイルランドでは“アングリカン・チャーチ”などと言わず、プロテスタントと呼んでいたそうだ。アイルランドに行った司馬遼太郎は、英国関連の建造物を現地人が破壊したことを得意げに話す女性を、著書『愛蘭土紀行』で紹介している。ちなみに日本の朝鮮支配は英国のアイルランド支配を参考にしたという。植民地統治ばかりではなく、王室と国家、宗教が連携する近代ナショナリズムもかなり学んだと思われる。
ヒンドゥー教なら神道以上の混交、習合宗教である。インドも英国支配が全土に及ばない18世紀頃までは、ヒンドゥーとイスラム、シク教の信者が共通の聖人の聖廟に参拝したり、宗派の異なる寺院を詣でることもあった。外来民族パールシー(インドのゾロアスター教徒)の保守派の祭司も、若い信徒に「他の宗教の寺院に行ってはいけない」と戒めている。つまり、異教の寺院に行くパールシーもいたとなる。だが、19世紀、特にセポイの乱後は様相が変わってくる。英国は分断工作のため宗派対立を盛んに煽り、社会の寛容性は失われていく。
明治以降の国家神道は日本の独自性や特異な現象などではなく、中華思想やら西欧の思想の影響が背景にあるのが分かって頂けたら幸いである。旧憲法でさえ、第28条条文に「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、一応信仰の自由は認めていたのだから。安寧秩序は当然だが、「臣民タルノ義務」の範囲は議論の的になったこともある。
日本の知識人及び文化人は宗教に疎い面があり、今でもマルクス史観の残滓を引きずっている学者もいる。宗教事情に無知な者ほど、国家神道の特異性を槍玉に上げ偏狭なナショナリズムと糾弾する。そのような連中こそ、マルクスと書記長と共産主義国家のために是非死んでほしいものだ。
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第一次大戦後、ドイツ皇帝ウィルヘルムは国外亡命で一命は取り留めている。また、満州国皇帝溥儀も、敗戦国日本叩きによって支那共産党政権下において庶民として天寿を全うした。
日本の敗戦後GHQ総司令官として着任したマッカーサーは、東條英機以下軍民含めた高級官僚を戦犯容疑で次々逮捕させるなか、「いずれ天皇は亡命と財産保全を(ドイツ皇帝ウィルヘルムのように)求めてやってくるのだろう」と不機嫌に天皇の来訪を待った。しかし来訪した(昭和)天皇は「敗戦国の元首である自分の一身はどうなってもよいから、うちひしがれた国民を勇気付けてやってほしい」との申し出に腰を抜かさんばかりに驚き、以後丁重にもてなすようになった。その後の全国行幸によって国民が勇気付けられたのは皆さんもご承知と思います。
国家神道において現人神と位置づけられた天皇や天皇家は、確かに一神教における神とは全く別個の存在であるものの、もともと下界にいた人間のところへときどき天から訪れる神という存在が意識下にある日本人には、匠の業も「神業」と言ってしまうほど割と身近なものであり、庶民には及びも付かないような高貴な精神を「鍛え上げた」(昭和)天皇を「神」と言う事も不思議ではないのかもしれない。
神道の精神かどうかは私が不勉強故明瞭ではないが、日本人にとっては森羅万象すべてに神が宿っている。だから森の伐採を過剰にすれば「山の神」が怒って豪雨災害を民にもたらす、海産物を乱獲すれば「海の神」が怒って嵐、高潮を民にもたらす。これを恐れた「民」=日本人は「ほどほど」を心得、「山の神」、
「海の神」との共生を目指す。一神教徒には「ほどほど」の精神はないから、植民地支配も自然破壊も「行き過ぎる」。21世紀、地球という星自体が人間にとって徐々に不快な環境となっていくなかで、どちらの宗教がより「共生」に有効、有益かは皆さんに自明のことと思う。
勝谷氏が天皇を「現人神」と位置づけていたとは知りませんでした。様々な見方があるのは当然ですが、TVで見た限り私には、彼の主張は苦笑する内容が多かったですね。
戦に敗れた場合、王族は国外亡命し、他国で支援を得て捲土重来を目指すのが一般的であり、日本の天皇のように自国に留まるのは例外中の例外。王族というものは側近や臣下、同盟者に責任転嫁、己は騙された被害者だったと、言い逃れで延命を図るのに長けてます。日本の天皇は国外亡命の体験もないし、その発想や手段も思いつかなかったでしょう。洋の東西問わず、力をつけた重臣が王族を倒すか簒奪し、自ら王朝を建てるものですが、日本では何故かそのようなことが起きませんでした。
もちろん最も古い王族である天皇もまた、時の勢力者に協力し、皇室存続を図る意図もあっただろうし、GHQも日本占領のため大いに天皇を利用した方が得策との判断もありました。インドで英国総督府もマハーラージャと協力したように(一方反抗した王族は潰す)、日本人に皇室を尊重したと恩を売れますから。
キリスト教圏に「王権神授説」がありますが、英国などこれを巧みに取り入れ現代に至ってます。
ただ、同じ神でもヤーヴェ、ゴッド、アッラーと現人神は全く違う。江戸時代でも日本に「生き神様」があり、現人神はその延長で、一神教の唯一絶対神の重さはありません。現代でもインドは「聖者」に不足ありませんが、彼らは修行により高貴な精神と神通力(信じない者も多し)を得たと敬われる存在なので、日本の「生き神様」もそれに近い対象だと思います。
砂漠から生まれたセム族一神教に元来環境配慮の思想はありません。これら宗教に影響を与えたゾロアスター教はエコロジーを説いていたのに、もっぱら聖戦思想を取り入れた。1つの神しか認めないのが一神教なので、異教徒との「共存」は困難になる。
ただ、アラブ研究家の池内恵氏が雑誌の対談で「一度一神教の影響を受けると、その害毒を取り除くのは不可能ではないか」と語っていました。確かに一神教はパワーに溢れていますが、多神教は大人しい。多神教の「ほどほど」の精神が弱点にもなっているのです。
私事で恐縮ですが、ブログを再開させて頂く事に致しました。子育てに追われての更新ですので、気軽に書かせて頂こうと思っています。お時間のおありになる時にでもお立ち寄り頂ければ幸いです。
ついにブログを再開されましたか!早速拝読させて頂きましたが、2番目のお子様が女の子で安産だったとは何よりでした。
今後も貴女のブログの記事を楽しみにしております。
天皇制、天皇家なる言葉の使用の是非論は棚上げにしますが、土俵を変えて国家神道についてコメントさせて下さい。まだ、仕事中なので他日に譲りますが、私にmugiさんのブログを紹介した知人についても同様にさせてもらいます。
その方はHPを開設されていませんし、私も持っておりません。
また司馬作品を援用しますが、明治新政府の人事について氏は、薩長の中で最もすぐれた人材を軍に、次に優秀な人材を経済畑に、適宜割り振り、最後に残ったスカタン(関西弁でカスという意味)を神祇官(後の神祇省)に回さざるをえなかった、と述べています。作品名は忘れましたが、『坂の上の雲』だったかどうか?自信はありません。
つまり新政府の宗教政策はまずかったと、人事に言及することで言外に臭わせています。
とりあえず、終わらせなければならない仕事をやっつけます。
では、失礼します。
人間の性格は様々なので、「小さな棘」に拘る人もいます。ただ、そのような者には、他人も同じ態度を取るようになるはず。“霊”の文字があるし、言霊も私は宗教の延長にあると解釈しています。作家・井沢元彦氏も日本社会を支配するのは「言霊教」と書いていたのを憶えています。
軍や経済にもっとも優れた人材を当てたとは、明治政府というよりも日本らしいですね。これがイスラム圏ならピンに宗教関係の人材を当てるはず。軍事と経済は近代国家の最重要部ゆえ、信仰心が薄い日本的な人事です。よく言えば実際的だし、あまり宗教は重んじられなかった。
歴史にイフは禁句といわれるし、後知恵であの時の政策は拙かったと指摘しても、「後の祭り」でしょう。