その①の続き
幕末から明治にかけ日本の知識人の多くは海外視察のため欧米に渡航し、ついでイスラム圏にも足を伸ばした者も少なくなかった。その1人に福澤諭吉もおり、中東を見聞した日本人は福澤も含め、帰国後の報告は悪印象と低評価が書き連ねられている。日本人がイスラム世界に初めて接触したのはこの時代だが、当時の中東は欧米列強の攻勢で混迷しきっており、第一印象が悪すぎた。
明治2(1869)年、福澤は『掌中万国一覧』『世界国尽(くにづくし)』などで、人間社会を混沌・蛮野・未開・文明開化の4段階に分類、トルコやイランを“支那”と並び、「未開」の「最も著しきものなり」と結論付けている。「未開」を福澤はこう定義した。
-未開とは、教化を被(こうむり)て未だ治(あま)ねからず、風俗未だ開けざるを云う。其民耕作の法を知て稍(や)や巧を致し、芸技の道を解して人間に有用の物多く、村落を立て都府を開き、文字頗(すこぶ)る盛んなりと雖(いえ)ども、其人情、外国人を忌み、婦人を軽蔑し、小弱を凌(しの)ぐの風(ふう)あり…
大意はこうなる。未開とは人々の文明の教えが広く行き渡っておらず、風俗が未だに開けず進歩していない状態を云う。その住民は農耕の術を知り少しは工夫もする。工芸の学を理解して人間の役に立つ物品も多い。農村も都市もあり文芸も盛んだが、その性質たるや外国人を嫌い、女性を侮蔑し、弱者や年少者を侮る傾向がある…
福澤の見解は時代もあり、欧米の第三世界蔑視の影響を明らかに受けている。上記が未開の定義なら、21世紀でも欧米や日本も“未開”の範疇に入るだろう。当時はトルコやイランを土耳古、辺留社(ペルシア)と表記していたが、国名に使われた漢字はあまり芳しいものではない。土耳古や辺留社は「人家さだまり文字あれども人情いやし」く、荒火屋(あらびあ)に到っては蛮野で、「未だ家なくして天幕の下に居る」有様。荒、土、古、辺など、後進や辺境を想像させる字を当てているのだ。例外は印度であり、インドがいい文字を使われたのは、興味深い。日中関係が疎遠になると、日印が接近すると言った人もいる。
明治33(1900)年、クリスチャンの内村鑑三などは、「私は如何なる場合がありますとも土耳古人や、波斯(ペルシア)人の信じる回々(フイフイ)教を信じようとは思いません」と断言している。イスラムも散々嫌われたものだ。やはりキリスト教徒の徳冨蘆花(とくとみ ろか)も、大正9(1920)年、現代からすれば苦笑せずにはいられないことを大真面目に書いていた。
-マホメッドの時は、已(すで)に過ぎて了(しも)うた。回教諸国(或は基督(キリスト)者と唱うるマホメッド信者)は、マホメッドを脱けなければ、必(かならず)亡ぶる。私は今いう、近東諸国の復活は土耳古帽の赤帽を脱ぐ時にはじまる、と。全く私共の亜細亜の西の親類達は、マホメッドと縁を切って、生れ変わらない限り、亡国が前途に待って居る…
長く国禁だったキリスト教を簡単に信じた日本の知識人や市民がイスラムを敬遠した理由を、イスラム史の山内昌之教授は以下のように指摘されている。
-イスラムにはキリスト教が携えてきた近代性、明治風にいえばハイカラな雰囲気がなかったからだろう。万事につけ新しがり屋で好奇心旺盛な日本人が、珍しいほどイスラムに関心を示していないのは、今にも通じる特徴である。飲酒や豚肉の禁止などタブーの多い宗教は、文明開化の御世にあっては尚のこと、魅力を感じるものではなかった。明治から戦前の昭和にかけて、日本でイスラムに接する普通の機会といえば、英仏の船舶の下級船員や下働き、零細な商人たちとの偶然な接触くらいであった。これも知識人や市民にとりイスラムの魅力を乏しいものにした…
21世紀でもイスラムに関するニュースといえば、自爆テロやシャリーア(イラスム聖法)のまかり通る社会、ヴェール姿の女…これで魅力を感じる者はよほど酔狂な人だろう。中東に関心のある私も、旅行は別だが住みたいとは断じて思わない。いくらボーンムスリムや、日本人シンパ、改宗者がイラスムの素晴らしさを強調しても、「戦争の家」(※ムスリムは異教社会をこう呼ぶ)に居住したがるのだから、説得力を完全に欠いている。イスラム黄金時代さえ、ムスリムはインドや中国のような「戦争の家」に移住してきた史実もあるのだ。山内教授の言葉を借りれば、「日本人にとって、イスラムの世界はやはり遠い存在だったのである」。
■参考:『世界の歴史20巻-近代イスラームの挑戦』山内昌之著、中央公論社
◆関連記事:「福沢諭吉たちの見たエジプト」
「明治の日本人が見たイラン」
「イスラムの寛容」
「加害者としてのイスラム」
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幕末から明治にかけ日本の知識人の多くは海外視察のため欧米に渡航し、ついでイスラム圏にも足を伸ばした者も少なくなかった。その1人に福澤諭吉もおり、中東を見聞した日本人は福澤も含め、帰国後の報告は悪印象と低評価が書き連ねられている。日本人がイスラム世界に初めて接触したのはこの時代だが、当時の中東は欧米列強の攻勢で混迷しきっており、第一印象が悪すぎた。
明治2(1869)年、福澤は『掌中万国一覧』『世界国尽(くにづくし)』などで、人間社会を混沌・蛮野・未開・文明開化の4段階に分類、トルコやイランを“支那”と並び、「未開」の「最も著しきものなり」と結論付けている。「未開」を福澤はこう定義した。
-未開とは、教化を被(こうむり)て未だ治(あま)ねからず、風俗未だ開けざるを云う。其民耕作の法を知て稍(や)や巧を致し、芸技の道を解して人間に有用の物多く、村落を立て都府を開き、文字頗(すこぶ)る盛んなりと雖(いえ)ども、其人情、外国人を忌み、婦人を軽蔑し、小弱を凌(しの)ぐの風(ふう)あり…
大意はこうなる。未開とは人々の文明の教えが広く行き渡っておらず、風俗が未だに開けず進歩していない状態を云う。その住民は農耕の術を知り少しは工夫もする。工芸の学を理解して人間の役に立つ物品も多い。農村も都市もあり文芸も盛んだが、その性質たるや外国人を嫌い、女性を侮蔑し、弱者や年少者を侮る傾向がある…
福澤の見解は時代もあり、欧米の第三世界蔑視の影響を明らかに受けている。上記が未開の定義なら、21世紀でも欧米や日本も“未開”の範疇に入るだろう。当時はトルコやイランを土耳古、辺留社(ペルシア)と表記していたが、国名に使われた漢字はあまり芳しいものではない。土耳古や辺留社は「人家さだまり文字あれども人情いやし」く、荒火屋(あらびあ)に到っては蛮野で、「未だ家なくして天幕の下に居る」有様。荒、土、古、辺など、後進や辺境を想像させる字を当てているのだ。例外は印度であり、インドがいい文字を使われたのは、興味深い。日中関係が疎遠になると、日印が接近すると言った人もいる。
明治33(1900)年、クリスチャンの内村鑑三などは、「私は如何なる場合がありますとも土耳古人や、波斯(ペルシア)人の信じる回々(フイフイ)教を信じようとは思いません」と断言している。イスラムも散々嫌われたものだ。やはりキリスト教徒の徳冨蘆花(とくとみ ろか)も、大正9(1920)年、現代からすれば苦笑せずにはいられないことを大真面目に書いていた。
-マホメッドの時は、已(すで)に過ぎて了(しも)うた。回教諸国(或は基督(キリスト)者と唱うるマホメッド信者)は、マホメッドを脱けなければ、必(かならず)亡ぶる。私は今いう、近東諸国の復活は土耳古帽の赤帽を脱ぐ時にはじまる、と。全く私共の亜細亜の西の親類達は、マホメッドと縁を切って、生れ変わらない限り、亡国が前途に待って居る…
長く国禁だったキリスト教を簡単に信じた日本の知識人や市民がイスラムを敬遠した理由を、イスラム史の山内昌之教授は以下のように指摘されている。
-イスラムにはキリスト教が携えてきた近代性、明治風にいえばハイカラな雰囲気がなかったからだろう。万事につけ新しがり屋で好奇心旺盛な日本人が、珍しいほどイスラムに関心を示していないのは、今にも通じる特徴である。飲酒や豚肉の禁止などタブーの多い宗教は、文明開化の御世にあっては尚のこと、魅力を感じるものではなかった。明治から戦前の昭和にかけて、日本でイスラムに接する普通の機会といえば、英仏の船舶の下級船員や下働き、零細な商人たちとの偶然な接触くらいであった。これも知識人や市民にとりイスラムの魅力を乏しいものにした…
21世紀でもイスラムに関するニュースといえば、自爆テロやシャリーア(イラスム聖法)のまかり通る社会、ヴェール姿の女…これで魅力を感じる者はよほど酔狂な人だろう。中東に関心のある私も、旅行は別だが住みたいとは断じて思わない。いくらボーンムスリムや、日本人シンパ、改宗者がイラスムの素晴らしさを強調しても、「戦争の家」(※ムスリムは異教社会をこう呼ぶ)に居住したがるのだから、説得力を完全に欠いている。イスラム黄金時代さえ、ムスリムはインドや中国のような「戦争の家」に移住してきた史実もあるのだ。山内教授の言葉を借りれば、「日本人にとって、イスラムの世界はやはり遠い存在だったのである」。
■参考:『世界の歴史20巻-近代イスラームの挑戦』山内昌之著、中央公論社
◆関連記事:「福沢諭吉たちの見たエジプト」
「明治の日本人が見たイラン」
「イスラムの寛容」
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歴史は昔から苦手で今でも知識は中学生レベルでしょうか・・・?
この年になって焦って猛勉強中です(^-^ა)
私の夫はパキスタン出身で私は日本人改宗ムスリマです。
イスラム教徒も勿論一枚岩ではないので、色々な人がいますが、その教えの本質は独善的で非妥協的な排他主義そのものだと感じています。
金銭目当てで日本に居る一方で多神教の日本人を馬鹿にしています。
テロを起こすのは一部の過激なグループでが、それを支えているのは多くのこのような一般ムスリムでしょう。
まぁ色々なことがあって、今ではすっかりイスラムフォビアになりました。
うつになり精神科にも通いました。
日本にイスラム系移民が増えない事を願います。
ヨーロッパの二の舞は間違いないですね。
国際結婚をしたことで、和を重んじる日本の素晴らしさを日本に居ながら初めて(改めてではなく)知ることが出来たと思います。
mugiさんと映画や音楽の好みが似ているようなので、いつも楽しませてもらっています。
これからもよろしくお願い致します<(_ _)>
夫がパキスタン人で、貴女は改宗してムスリマになられましたか。
そのような方が拙ブログを以前から読まれていたとは光栄に存じます。大変有難うございました!
キリスト教も同じですが基本的に一神教なので、他宗教、殊に多神教徒など人間と思っていない者が少なくないと私は見ています。
多神教徒から援助されても感謝の念などまずなく、せいぜいジズヤ程度にしか見ていない。ムスリムを養うために多神教徒は存在していると考えているのでしょう。以前も記事に書きましたが、あのガンディーさえ「ムスリムはインドを共通の家と思っていない」と愚痴ったくらいですよ。
私も欧州のようにムスリム移民がこれ以上増えないことを切に願います。彼らはごく僅かの例外を除き、非イスラム圏で絶対に適応は無理なのです。こちらも食事にタブーがあるにせよ、ヒンドゥーは移民の優等生ですが。
ムスリムに限ったことではありませんが、日本の和が通じるのは同民族だけであり、これに付け入る移民も珍しくない。
貴女も映画や音楽がお好きでしたか。イスラム圏では音楽さえ制限されますね。
私の方こそ、今後ともよろしくお願い致します。
私は、キリストにも、イスラムにも、その他の宗教に対しても、全く無知です。
しかし、宗教人にとって、自らの行動の善悪は、対人ではなく、神や預言者ですので、他人の迷惑など、知ったものではないのでしょう。
(その宗教の非信者にとって、布教活動ほど、うざいものはありませんが、信者にとっては、相手によっての迷惑など、知ったものではなく、神に対し行動しているとして、自己正当化するのでしょうね)
イスラム圏では音楽さえ制限されるそうですが、捕鯨に対する、反捕鯨の立場の方の、ヒステリーや根拠のなさ、暴力など、イスラム信者と同じだと思えるのですが、、、。
(反捕鯨国の多くはキリスト教国で、他人の迷惑など、知ったものではなく、独善的な態度は、宗教は変われど、信者という者は同様なのかもしれませんね)
ベジタリアンにしろ、イスラームにしろ、自らの信仰に対する行動には、配慮せよと押し付けますが、非信者に対する配慮等、見たことがありませんね。
(無配慮というよりも、一方的な押し付けばかりですが、、、。)
日本でイスラムが敬遠される理由の一つには、非信者に対する無配慮、身内だけのマンセーによる所が、少なくないのでしょうね。
仰るとおり宗教人は己の信仰を世に広めることこそが、神への奉仕と使命と妄信しているので、異教徒への布教活動を迷惑とは毛頭考えていないでしょうね。逆にこの上ない恩恵と祝福を与える行為であり、それを拒んだりする者は、罰当たりの不信仰者と見なすのです。
反捕鯨集団を「環境保護団体」と呼ぶ我国の報道くらい、実態からかけ離れている表現も珍しい。暴力も辞さないテロ集団そのものであり、鯨のためなら殺傷など平気、十字軍やイスラム原理主義者と全く変わりないですね。やはり一神教の非寛容性の帰結です。
欧米のベジタリアンやムスリムは同じ“信者”に対しても、非寛容な傾向が強いのではないでしょうか。
所詮ムスリム(または隣国人)もいい暮しがしたいので、“戦争の家”“小日本”に移住してくる。その暮らしも現地人に寄生していることで成り立つので、それゆえ周囲の日本人に殊更無配慮な振舞いをするのだと想います。妬みが深層にあるのは確かでしょう。イギリス人作家F.フォーサイスは、「人が恩人に対して抱く嫌悪感ほど激しいものはない」と書いていました。
同時に人が恩を施したと思う者から忘恩行為を受けるほど、憎しみを感じることもありません。