その①、その②、その③の続き
儒教が日本社会に与えた影響について、キーン氏と司馬遼の見解の違いは興味深い。江戸時代に案外広まり、現代(1970年代初頭)でも相当根強い、というキーン氏。日本に道徳があるとすれば、それは仏教的な道徳ではなく、明らかに儒教的なそれでしょう、と断言する。儒教は日本人のモラルの根底になっているとまで考えているのだ。
一方、司馬はそれにはかなり懐疑的である。律令体制でも国家秩序みたいなものの形だけの輸入で、内容は輸入していない。特に反論の根拠として挙げたのは、天皇の血縁結婚。血縁結婚は天皇家以下、名家とされる公家も武家でも珍しくない。血縁どころか、同姓はめとらずというのが鉄則の儒教体制の国では考えられないことなのだ。
他にも論拠を挙げ、大体が儒教というものの影響は一般には殆ど受けていない感じです、と司馬は言う。私もこの辺りは司馬に同意する。儒教倫理が日本社会に根付いていたならば、夜這いなど考えられないではないか。
キーン氏は文学を通じて徳川時代の文化を見ているが、やはり近松の戯曲などを読むと、考え方は大体において儒教的だと思う、ただ、あるところまでのことです、と断りを入れている。その点を越えたら、もう何も道徳観がない、狂う…というのだ。例として近松の『寿(ねびき)の門松』を挙げる。
『寿の門松』の主人公は妻を愛しながら、1人の遊女をも愛している。どうしたらよいか分らず、終いには完全に狂ってしまう。利害打算が全然なく、儒教的な考え方もなく、ただ純粋に自分の感情のままに動いた。キーン氏に言わせると、非常に日本的という。しかし、発狂するまでの心の動きを規制するものは極めて儒教的だった、と。
特にキーン氏が江戸時代の日本人の一生を引き合いにして語った宗教観には唸ってしまう。江戸時代は生まれたことを神道の神々に告げ、結婚式も神道だが、普段の生活は儒教で、死ぬ時は仏教的な法事が行われた。しかもその三つの宗教、厳密には儒教は宗教ではないが、ともかくそれらは全く原理的に違う。三つとも全く矛盾しあっているのに、日本人はその三つの宗教を同時に信じられるので、大したものだと思います、という件は何とも皮肉に聞こえた。
昭和23(1948)年、戦犯として処刑された人々の最後の手紙を集めた書簡集をキーン氏は見たことがあるそうだ。彼らは大体において仏教のことを書いていたという。仏教のことに言及しない人の方がむしろ少なかったようで、神道のことを書いたものは一つもなかったそうだ。キーン氏はこれを挙げて話している。
「いちばんの危機に直面する場合、そのときこそ、そのときまであまりだいじにしなかった釈迦とか阿弥陀仏をはじめて信じるようになります。あのときに、もう近いうちに死刑に処せられると思っていても、天照大御神の名まえは言わないですね」(208頁)
これへの司馬遼の返答には思わず吹き出してしまったが、日本人の信仰をズバリ言い当てている。
「それは天照大御神はけっして頼りにならないからです。死後の世界を救ってくれませんから……。そこに良い意味でも悪い意味でも、日本人の便宜主義というものがあるわけで、いよいよおれは死ぬということになると、阿弥陀仏になるのですよ」(同上)
明確な教祖もおらず、ハッキリ教義を説いた啓典もないため、私的には神道はよく分らない宗教だった。同じ多神教でもヒンドゥー教なら立派な教典が複数あり、矛盾も見られるが教義や哲学が書かれている。神道について司馬はこう語っていた。
「もともと神道というものは、要するにお座敷ならお座敷を清らかにしておくというだけです。べつに教義もなければ何もない。そして神さまなら神さまがそこにいるとしたら、その神さまのいるはずの場所に玉砂利を敷いて清めておく。清めるというのは、衛生的にしておくのかなにかよくわからないのですけれど、神道で清めておくということだけがあって、その上に仏教や儒教が乗っかっても平気というところがあるのです……
一つの神道的な空間というものが日本人にあって、その上に仏教がやってきたり、儒教がやってきたりするけれども、神道的な空間だけは揺るがないという感じじゃないでしょうか」(204頁)
その⑤に続く
また、司馬の言う通り儒教はないですね。
血縁結婚より凄いのは、天皇の出生の秘密が小説(源氏物語)のネタになるところでしょうか。
他には、西郷隆盛の評価です。明確に天皇に弓引いた賊将でありながら、わずか12年で名誉回復ですから。(従道と大山は筋を通して首相にはならなかったとされますが。)
(どっちも、中国や朝鮮だとありえません。血の雨が降ります。)
あと、天照大御神は意識しませんが「お天道様」は重要です。大日如来や儒教(元は道教?)の天と習合していますが。
「お天道様が見てる」のお天道様はキリスト教の God に近いように思います。「ご先祖様」でも「世間様」でもいいですが。
しかし、啓典など無いので自身の内だけで向き合わないといけません。これが日本人の道徳なのではなないでしょうか。。幼児にだって自分自身で「よいこと」を考えさせるのが日本人です。だから、聖書に答えがあるとするキリスト教では満足できないのでしょう。
司馬も日本人の素晴らしさとして、「原理というややこしいものに煩わされることが少なかったというところ」を挙げています。原則論でいえば、天皇家が仏教を受け入れること自体が外道です。ま、中国も道仏混淆がありましたが、さすがに儒仏混淆はないでしょう。
西郷よりは遅かったのによ、天皇に弓引いた賊将のドン徳川慶喜も明治中に名誉回復しています。明治31(1898)年には天皇と謁見、明治35年にはついに公爵に叙せられました。中国や朝鮮はもちろん、欧州でも考えられないことでしょう。幕末に来日していた欧米人には、戊辰戦争が1年そこそこで終結したことが理解できなかったそうです。
あるトルコ史研究者がイスラム教並びにその宗教法は、我々にとっての「世間サマ」と同じだと認識すべきと言っていました。だからお天道様はイスラムのアッラーに近いはずです。
むしろ啓典がないため、自身の内だけで向き合うのが日本人の道徳、という指摘は鋭いですね。啓典が全てでそれがなければ道徳もない、とするイスラム教も受け入れ難いでしょう。
また、仏暦と西暦が併用されていますが、元号がないのも面白い。
ttps://twitter.com/tomoshibi6o6o/status/1117074688784494593
ttp://www.kohzansha.com/jimon.html
下記のような記事を見ると、ある程度の政治的背景は推測できます。
>色即是空の科学事始め〔155〕
> 「極超音速飛行体の無駄遣い――際限なく次々と対抗兵器が登場するのに…」
「月刊住職」という雑誌は初めて知りましたが、購読せずとも目次が見られるネットは本当に便利です。仰る通り目次の上段の見出しは寺院の経済的問題が目につきますね。住職にとって宗教教義よりも、まず寺院経営が最優先なのが判ります。
赤旗でも元号と西暦が併用されているのに、「月刊住職」では元号がありませんね。色即是空の科学事始め〔155〕に投稿している池内了なる宇宙物理学者は、現代アラブ研究者・池内恵氏の叔父です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%86%85%E4%BA%86
池内了センセイ、世界平和アピール七人委員会の委員でもあり、「九条科学者の会」呼びかけ人も務めています。世界平和アピール七人委員会になる条件のひとつに、「自由人で民主主義陣営の人」とあるのは吹きました。所詮民主主義陣営でしか、世界平和をアピールできないのです。
ベトナム戦争時、南の僧侶には北のシンパだった者も少なくなかったそうです。法衣をまとったマルキストですが、統一後は優遇されるどころか、キャンプで「再教育」となったとか。
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日本でいう『神』とは自然信仰に近いので、その源は『鯖声(さばえ)なす荒ぶる神』です。神は有難いものではなく、恐ろしいもので、祟られないために手厚くもてなすべき存在なのです。
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アイヌの『イヨマンテ(熊送り)』の儀式には、その精神が残っているように思われます。すなわち、熊とは人間に肉や毛皮といった『ミアンゲ(土産)』をもたらす存在であって、子熊を大切に育てた後にあの世に送ることで、狩りの成功を祈ります。
送られた子熊は『人間に大切にされた』と他の仲間に伝え、どっさりと肉や毛皮をもたらしてくれるのです。で、反対に人を喰うようになった熊は『ウエンカムイ(悪い神)』と呼ばれ怖れられます。
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これ、ひょっとしたらベーリング海を渡ったモンゴロイドに共通の思考では?アメリカインディアンの精霊信仰にも通じるのでは?と勝手に考えています。
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さて、現在の日本語の『神』という言葉には意味の違うものが混在して混乱のもとになっています。
キリスト教者に「日本の『神』がいかに不完全な存在か」を指摘された日本の神官がいみじくも答えています。「キリスト教でいう『God』の訳語に『神』という言葉を使わないで戴きたい」。
誠にごもっともな指摘です。
ローマの神も多い時は30万もいたそうですが、日本は八百万とは数が多すぎ、と思っていました。しかし、インドの神々は一説によれば 333,333,333 もいるようで、さすがにスケールがデカい。八百万もいるならば、あと一万増えても問題ありませんね。
商店とメディアが一体となって宣伝するクリスマスやバレンタイン、ハロウィンですが、飲み食いができるとあってすっかり定着しました。一方、飲み食いがダメなラマダンは定着が難しいと思います。日没後のドカ食いは認められていますが、返って太るし、禁欲的なイメージは日本人に敬遠されがちです。
インドには日本以上に恐ろしい神々が沢山います。だから神のご機嫌を取って手厚くもてなす儀式が欠かせません。この辺りは多神教で通じる面がありますね。
アイヌで熊が神の扱いを受けていると聞いていましたが、人喰い熊が“悪い神”とされるのは興味深いですね。疫病神のように有難くない神は本土でも多いですが、それでもカミなのです。
キリスト教徒と神官の対話も興味深いものです。そもそも初めに不適切な訳を使ったのは耶蘇側で、デウスは大日如来からの誤訳でした。宣教師は我々はダイニチを信じている、と言ったら、日本人は我々も同じだ、と答えた話が本書にも載っています。当時の日本人からみれば、仏教の一派が来たと思ったようです。
賢しらぶったクリスチャンがよく口にする決まり文句は、「日本の『神』がいかに不完全な存在」(笑)聖書の数多い矛盾を指摘したサイトがありますが、管理人は元信者です。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html
私の信じる神は高級神なので、生贄や戒律を要求する低級神には興味ない、と言ってやる機会を待っています。
(前に似たようなことをコメントしたかもしれません。)
ちなみに、デウス(Deus)は、ゼウスやユピテル(父なるDeus)、北欧神話のテュール(英語の火曜日)、イランの悪魔ダエーワ、インドのデーヴァ(仏教の天部)と同語源ですね。Devil や Demon もか。
大日如来は、阿修羅王、アフラ・マズダーなので敵ですね。
仰る通り motton さんから似たようなコメントを頂いたことがありました。検索が上手く行かず、何時頃だったのかは分かりませんが、低級神という用語は憶えています。
貴方の定義でいえば、一神教の唯一神こそ低級神の極みと言えますよね。人間界に干渉というより絶対支配で臨み、常に生贄や戒律を命じる。「低級神」信者と一般日本人との精神性の違いを取り上げたブログ記事は面白かったですよ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=305232