その①、その②、その③、その④の続き
切死丹/キリシタンについての対談でキーン氏は、当時のポルトガル人やスペイン人宣教者にかなり好意的な話をしている。氏は彼らが書いた手紙を英訳でかなり読んだそうだが、日本人は我々とは違う人種とは誰ひとり書いてなかったという。日本女性は欧州人より色が白いとか、そんなことまで言っていたとか。
はじめのうちはポルトガル人が来日しても、日本は欧州と殆ど変わらない、もっときれいだ、もっと清潔だと書いている。キーン氏にとって傑作だったのは、ポルトガル人達が一番困ったことは、何処で唾を吐いていいか分らないという記録という。欧州の家の中では平気で唾を吐いたそうだが、日本の家の中はあまりにも清潔であり、とても困ったらしい。
但し宣教師らしく、日本人には一つだけ非常に大きな欠点があり、それはキリスト教を信じなかったこと、と書いている。「もし日本人にそういう欠点がなくなったら、どのヨーロッパの国よりもいい」(60頁)とまで述べていたそうだ。
これらの話は意外だったし、同じ欧米人のよしみで宣教師を悪く言わなかった?と疑いたくなる。尤もキーン氏は“要出典”ながらwikiに、「ロシア系ユダヤ人の両親の家庭に生まれる…」と3月までは書かれていたが、今月になってその個所は何故か削除されている。このようなケースは他にもあり、在日ユダヤ系著名人の出自は極力隠すようだ。
私はポルトガル人やスペイン人宣教者の書簡集は未読だが、17世紀前半に書かれたイギリス商館長リチャード・コックスと、平戸オランダ商館の日記の邦訳は読んだことがある。宣教師の報告と違い、このふたつの日記はそれほど日本人を褒めてはいない。特にオランダ商館日記では日本人を度々“野蛮人”と表現していた。
ポルトガル人もそれほど日本人に友好的だったのか?人気歴史ブロガー、しばやん氏は「日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代」という見事な記事を書いており、女性だけではなく男性も奴隷として買われた歴史を未だに知らぬ日本人が多すぎる。
司馬遼が挙げた細川忠興のエピソードは考えさせられる。細川の妻はあのガラシャだが、彼女が密かに通っていた教会の神父に、妻が生前世話になったこともあり忠興はかなりな金を寄付したという。しかし件の神父は直ちに哀れな孤児や乞食とかにあげてしまう。こうして忠興が神父に寄付した大金は、一日にして一文もなくなる。
それを知った忠興が仰天したのは書くまでもない。日本の坊主はこうじゃない、取り込むばかりだが、これはすごいことだと言って感激している。この話は本書で初めて知ったが、どうりでキリスト教が日本全国に広まった訳だ。戦国乱世なのに救民もしない日本の仏教に失望するのは無理もない。21世紀でも日本の坊主は取り込むばかりだが。
キーン氏の意見で、「上方は武士文化、江戸は町人文化」というのは外国人らしく面白い見方だった。上方文化というと町人文化のイメージが強いが、元禄時代も含め江戸時代の前半は、大体が侍が作った文化という。西鶴は例外だが、近松や芭蕉など文化の担い手はみな士族だった。
これに司馬は「ちょっと面白い新説」と言い、そう言われれば町人文化の代表の様な西鶴も非常に武士を意識していたことを指摘している。キーン氏によれば西鶴はむしろ侍崇拝で、侍について悪いことはひとつも書いていなかったそうだ。
江戸文学を翻訳して、果たしてこの作品に普遍性はあるだろうか、とキーン氏は感じたという。芭蕉は最も普遍性があるが、近松となると特殊な道徳観や倫理観が入ってきて、読書の邪魔になるそうだ。近松を読む現代日本人は至って少ないが、読んだところで昔の道徳観や倫理観にはついていけないだろう。
対照的に平安朝文学の多くの傑作は女性によって書かれたが、男性の書いたものよりも女性が書いた作品の方が普遍性があると思う、というキーン氏。女性は外の世界をあまり見ず、自分の内面を見つめる。そして人間の内面はそんなに変わっておらず、嫉妬はあらゆる国にあるものだし、恋愛もそうだし、女性の感ずるような感情は国を問わず、時代を問わず、みな共通といっていいでしょう、と。つまり、男性よりも女性作家の方が世界的には通じるということか。
『日本人と日本文化』を見ただけで、キーン氏の学識の深さには唯々感服させられた。真の学究の徒とはこのような人物を指すのだろう。最近は浅学な知日派研究者ばかり目につくが、改めてキーン氏の逝去は惜しい。このような人物はこの先現れないかもしれない。
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「カトリックによる日本侵略」
あと、明治以前の文学で声を出して笑えた唯一の作品が「江戸生艶気樺焼」。江戸時代中期の作品で、能天気でバカバカしい限りの行動をする主人公が滑稽です。金持ちのバカ息子にはある種の羨ましさを感じます(ため息)。金持ちの元バカ息子と言えば、日本にも鳥の名前のついた人物がいますが、こちらは実害が出ているので笑えません。
この作品一番の傑作場面は、バカ息子がモテ男と評判を立てるために狂言心中をしようとした部分です。「追い剥ぎ」に身ぐるみ剥がされて失敗するのですが、ここの文章は芝居の心中物のパロディになっていて、非常に可笑しいのです。
リンクしたのはこの部分の挿絵で、バカ息子と、バカ息子の狂言心中の相手にされている吉原の花魁です。彼女はこの狂言心中の相手をしてくれれば好きな男と結婚させてやる、と言われて行動したのですが、愚行に付き合わされた挙げ句に裸で夜道を歩く羽目になり、愚痴をこぼしているのです。
ttps://edo-g.com/blog/2016/03/kibyoshi.html/kibyoshi2-5_l
堅苦しい道徳も教訓も一切ないコメディですが、こう言う肩のこらない作品が出る時代というのは、やはり世界史的に見てよい時代だと思います。
そう言えば「女殺油地獄」がありましたね。私は未読ですが、何年か前にあるテレビ番組でも紹介していました。『罪と罰』も借金を断られ、金貸しの老女を惨殺して金を奪う話だったし、国や時代が違っても通じる物語でしょう。日本人にはキリスト教的倫理観が強い『罪と罰』よりも、油地獄の方に共感するかもしれません。
「江戸生艶気樺焼」も未読ですが、本当にスポンジ頭さんは読書家ですね。これを読んでいる人はあまりいないでしょう。「江戸ガイド」というサイトは初めて見ましたが、北尾政演の画が何ともユーモラスでほっこりさせられました。
モテ男の評判を得たいがために狂言心中を図る主人公というのが面白いですね。有吉佐和子氏が中国に行った時、現地の女性から「心中ができる日本人の男性は世界一勇気がある。愛に死ねるとはすごい」と言われて驚いたそうです。無理心中は他国でも珍しくありませんが、一緒となるとあまり聞かないような、、、
キーン氏は当時の心中をこう解析していました。
「心中の意味は、この世でいっしょになれなかった人間が、死んでから西方の浄土で同じ蓮のうてなでいっしょになれると信じる、仏教的な考え方で…浄土で結ばれるという考え方は、当時の日本人にとってひじょうに大切なことであったと思います」(204-5頁)
教義からすると、キリスト教やイスラム教ではあり得ない発想ですよね。とは言うものの、ダンテの神曲では、心中ではありませんが、夫に殺された恋人たちが地獄でも一緒にいる有様をダンテが共感を持って書いている場面がありました。確か実在の有名なカップルです。ロミオとジュリエットはキリスト教の考え方だと地獄堕ちですが、教会がこの作品を非難したとは聞き及びません。ただ、結果そうなってしまった、のであって、来世で幸せになる、と言う目的ではありませんね。
そう言えば、インドとかどうなんでしょうね。一番恋愛の心中物から遠いお国柄に思えますが。
心中物は観客が涙を流して見たのでしょうが、「江戸生艶気樺焼」のパロデイ道行では、夜道を裸の二人連れが寒さで顔色が青くなりながら鼻水を流して歩くので、ひたすら情けなくて笑えます。ただ、心中物の文章はここぞとばかりに力を入れて心中に向かう恋人たちを美しく描くので、心中を流行させた側面はあると思います。実際に幕府は吉宗の時代に心中物の上演を禁止していますから。
元禄時代は心中が流行し、当時の武士が心中場所に野次馬として行き、まだ生きている人間の描写をしているのですが、作品として鑑賞するのはともかく、現実として見るのは陰惨ですね。
もしかすると、ダンテの神曲に登場する恋人たちとはパオロとフランチェスカでしょうか?ダンテは恋人を殺した夫も地獄に堕ちるだろう、と言わんばかりの書き方をしていたそうですね。ダンテだけでなく英仏の詩人や小説家までもが美化するようになったとか。
キリスト教教義からすれば、不倫や自殺は大罪で地獄堕ちです。しかし、西欧の文学には不倫や後追い自殺を美化する物語が多いですよね。教会も黙認していたのやら。グィネヴィアとランスロット、トリスタンとイゾルデ等への批判も聞きません。
インドの恋愛物語も心中物は聞いたことがありません。あの国ではサティーのように後追い自殺を讃えるし、実際にも殉死が強制されました。
また貞操の証をするために火に飛び込んだ女性もいますが、自殺とは見られていません。後追い自殺するヒロインは、男性に受けるのでしょう。
心中物が流行れば模倣するカップルが現れるので、お上が心中物の上演を禁止するのは無理もありません。時代劇でも心中に失敗したカップルが生き晒しにされるシーンがありました。晒された後は最下層の身分に格下げ。ただ表沙汰にせず、内々で処理することもあったそうです。
そうです。地獄の嵐に吹かれる彼らをダンテは同情して見ているのです。
>グィネヴィアとランスロット、トリスタンとイゾルデ等への批判も聞きません。
トリスタンの場合は媚薬の誤飲ですから責任はないと言う事もできますが、グィネヴィアとランスロットは何故でしょうね。アーサー王物語はちゃんと読んでいませんが、ランスロットは立派な騎士と思いますが、グィネヴィアのどこが魅力的なのかさっぱり分からないのです。感情移入して読むには非常に違和感があります。
>しかし、西欧の文学には不倫や後追い自殺を美化する物語が多いですよね。
その辺りは現実とのズレでしょうか。ちなみに北欧神話では天界に行けるのは戦死者だけですから、夫が戦死すると、妻も戦場に出てきたとか。このような風習も影響しているのかも。ギリシャ神話でも後追い自殺がありますし。
イスラム教国で後追い自殺ってあるのでしょうか?
神曲を私は未読ですが、永井路子氏の『歴史をさわがせた女たち』(外国篇)で取り上げられていたため、パオロとフランチェスカのことを知りました。ブルフィンチの『中世騎士物語』は読みましたが、ランスロットは騎士の鑑として描かれています。
アーサーが先ずグィネヴィアを見染めており、彼女の父の命の恩人でもあります。父の方も娘とアーサーとの婚姻を望んでいましたが、グィネヴィアはさして乗り気ではなかったような。グィネヴィアがランスロットが初めて宮廷に来た時から恋したのは分りますが、ランスロットも恋に落ちたのはサッパリ分りません。
北欧神話では夫の線死後、妻も戦場に出てきたとは知りませんでした。ギリシャ神話の後追い自殺は、日本人にも共感できるはず。中世イランの『ホスローとシーリーン』でヒロインは夫が殺害された後、後追い自殺しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3
実在の人物を扱った作品で、史実ではシーリーンは後追い自殺しなかったようですが、作者は史実と違うロマンス文学にしています。物語の時代はイスラム以前のサーサーン朝ですが、ゾロアスター教でもイスラム教でも自殺は認めていません。その辺りも現実とのズレでしょう。
在日イラン人タレント、サヘル・ローズは先日BS NHK番組に出演していた時、「中東の女は愛に死ぬ」と話しており、『ホスローとシーリーン』を思い出しました。
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川島雄三監督の『幕末太陽傳』はおおまかなストーリーとしては落語『居残り佐平治』をもとにしていますが、様々なエピソードが追加され「人気の衰えた花魁が『ここらでいっちょう心中でも』と考えて、やおら相手を捜す」というくだりが出てきます。生き死にのモンダイなのに「カルいノリで心中」という点がオモシロイ。
http://www.nikkatsu.com/movie/20196.html
結局、心中はブチ壊しになるンですが、花魁が桟橋から心中の相手だけ突き落として「成仏するンだよ」ってシーンには笑えました。
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『幕末太陽傳』は未見ですが、名画と聞いています。リンク先を見たら、面白そうですね。幕末の若者全てが佐幕や倒幕に明け暮れていたはずもなく、カルいノリで心中相手を探す花魁もいたかもしれません。
現代人とは死生観が違いますから、あまり生き死にのモンダイと深刻に考えなかったかも。
ダンテが歴史上の著名人を地獄堕ちにしているのは知っていましたが、実在の政争相手たちまで地獄堕ちにし、しかも実名で表記していたとは知りませんでした。
塩野七生さんの短編集『サロメの乳母の物語』には、「ダンテの妻の嘆き」が収録されています。偉大な詩人の実像は不器用で世渡りが下手な夫で、ベアトリーチェにも嫉妬は感じていない妻の視点が面白かったです。