その①の続き
戴季陶が日本人の長所として挙げた自尊心という素質がなければ、明治維新はなかったか若しくは相当遅れていただろうと、高坂正堯氏は指摘する。黒船来航から明治維新の行われた間、多くの日本人は強い危機感を抱き、体制を変えなくては日本は西欧列強により植民地化されてしまうと考えたのは所謂尊皇攘夷派の人々だけではなく、幕府側もその点では同じだった。もちろん、全く新しい外国勢力が出現したことにただうろたえた人もいたし、外国人に日本の土地を踏ませてはならないと憤った人も多く存在した。
ただ、多少ともまともな人々は西欧の挑戦の大きさを理解し、体制の変革を必要と考えた。そして、変革を求める気持が強く、幕府の中にもあったため、ごく短期間に体制が変わる。どの体制もそれに関る人々が、体制の正当性と能力に自身を持っている限り、崩壊はしないのだ。
そして日本が近代国家への世界的な潮流に辛うじて間に合ったことこそ、明治維新が成功した重要な理由だと高坂氏は書く。1860年代の世界は政治上の大変化が相次いだ。1865年、南北戦争が終結、アメリカは統一され、翌年はイタリアが教皇領を残しほぼ統一された。通史ではイタリア統一は1861年だが、'66年までオーストリアはヴェネツィアを保有していた。それをオーストリアが失ったのは普墺戦争の結果であり、プロシアもドイツの重要な箇所を統一することに成功する。普墺戦争に敗れたオーストリアも'67年、オーストリア=ハンガリー帝国へと政治体制を変更した。
こうしてイギリスとフランスのような早くから近代国家の制度を整えていた国を別にして、その他全ての国が1860年代半ばに近代国家化へと本格的に歩みだしたことになる。日本の明治維新も1868年、同時代である。19世紀初め、日本人の誰がそのようなことを予測できただろう?明治の人々の必死な努力があったのは言うまでもないが、最初に目だって遅れたならば取り返しの付かないことが多く、ぎりぎりにせよ間に合ったことが重要だと、高坂氏は力説する。
もちろん工業化について、日本の出発は大きく遅れた。だが、技術よりも政治・経済・社会のシステムの方が変え難い上、変えるのに時間を要する。その点、経済の方は江戸時代に殆ど近代化されており、政治と社会のしくみが明治維新で変革されたのだった。それを可能にしたのは当時の日本人だからこそであり、それ故工業化もされ、軍事的にも強くなりえたのだ。重要なことは日本が西欧の優れた軍事技術を取り入れたことではなく、それだけならオスマン朝も清朝も行っている。差が出たのは日本軍の組織が近代的なものとなり、それを支える社会も政治も、大体のところ、近代国家のそれに変貌したからであり、これは高坂氏に限らず多くの学者も認めている。
明治維新の意義は大きく、それが可能になったのは幕末の日本人が強い危機感を共有したからであり、それを掘り下げていけば日本人の感覚の鋭さと誇り高さが見て取れる、と高坂氏は考える。だが、民族の誇り、即ちナショナリズムは危険なものでもあり、それは日清戦争の勝利と同時に現れ、そのため外相・陸奥宗光は対応で心身をすり減らすことになる。日本軍が平壌の陸戦と黄海海戦で勝利を収めると、日本人は戦勝に酔い、そして、北京まで進み城下の誓いをさせるべきであるとの議論に始まり、台湾を始めいくつかの領土と利権を要求する声が高まる。韓国への清朝の支配を排除するとの戦争目的は忘れ去られた。陸奥はこの戦争を総括し、『蹇蹇禄(けんけんろく)』にこう記した。
-ただ進軍せよという声以外は何人の耳にも入らず、深慮遠謀の人がいて妥当中庸の説を唱えようものなら、卑怯未練で全く愛国心のない人物と社会から白い目で見られるので、何も言わずに蟄息閉居する他ないという世情になった。
続けて、この状況について陸奥は次のように述べる。
-我が国民がこれ程までに空しい大望の熟度を高めるに至ったのは、我国古来特種の愛国心の発動したことによるものであって、政府はもとよりこれを鼓舞作興すべきであり、濱斥排斥(ひんせきはいせき)する必要はない。しかし、その愛国心なるものがいかにも粗豪厖大(そごうぼうだい)なものとなり、事実に適用する際の注意を欠く場合には、しばしば返って当局者に困難を感ぜしめた。スペンサーはかつてロシア国民が愛国心に富んでいることを説いた後、愛国心とは蛮俗の遺風であると述べた。そこまで言うのは言いすぎであろうが、しかし、愛国心のみあって、これを“用いる方法”をよく考えないならば、しばしば国家の大計に反する場合がある…
陸奥の危惧がやがて恐ろしい形で適中したのを、現代の日本人で知らぬ者はいない。ナショナリズムは熱狂と激憎を生み出した。しかもなお、日本にはそれが必要であったし、今もそうである、そこに日本のジレンマがある、と高坂氏は言う。
国際政治学者の高坂氏は、島国日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべきという論を展開、それら論文を契機として、弱冠29歳にして氏は現実主義を代表するオピニオン・リーダーとしての地位を確立した。進歩的文化人が主流だった当時の論壇では、アメリカ重視の少数派論客でもあった。62歳の死は早すぎる。
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戴季陶が日本人の長所として挙げた自尊心という素質がなければ、明治維新はなかったか若しくは相当遅れていただろうと、高坂正堯氏は指摘する。黒船来航から明治維新の行われた間、多くの日本人は強い危機感を抱き、体制を変えなくては日本は西欧列強により植民地化されてしまうと考えたのは所謂尊皇攘夷派の人々だけではなく、幕府側もその点では同じだった。もちろん、全く新しい外国勢力が出現したことにただうろたえた人もいたし、外国人に日本の土地を踏ませてはならないと憤った人も多く存在した。
ただ、多少ともまともな人々は西欧の挑戦の大きさを理解し、体制の変革を必要と考えた。そして、変革を求める気持が強く、幕府の中にもあったため、ごく短期間に体制が変わる。どの体制もそれに関る人々が、体制の正当性と能力に自身を持っている限り、崩壊はしないのだ。
そして日本が近代国家への世界的な潮流に辛うじて間に合ったことこそ、明治維新が成功した重要な理由だと高坂氏は書く。1860年代の世界は政治上の大変化が相次いだ。1865年、南北戦争が終結、アメリカは統一され、翌年はイタリアが教皇領を残しほぼ統一された。通史ではイタリア統一は1861年だが、'66年までオーストリアはヴェネツィアを保有していた。それをオーストリアが失ったのは普墺戦争の結果であり、プロシアもドイツの重要な箇所を統一することに成功する。普墺戦争に敗れたオーストリアも'67年、オーストリア=ハンガリー帝国へと政治体制を変更した。
こうしてイギリスとフランスのような早くから近代国家の制度を整えていた国を別にして、その他全ての国が1860年代半ばに近代国家化へと本格的に歩みだしたことになる。日本の明治維新も1868年、同時代である。19世紀初め、日本人の誰がそのようなことを予測できただろう?明治の人々の必死な努力があったのは言うまでもないが、最初に目だって遅れたならば取り返しの付かないことが多く、ぎりぎりにせよ間に合ったことが重要だと、高坂氏は力説する。
もちろん工業化について、日本の出発は大きく遅れた。だが、技術よりも政治・経済・社会のシステムの方が変え難い上、変えるのに時間を要する。その点、経済の方は江戸時代に殆ど近代化されており、政治と社会のしくみが明治維新で変革されたのだった。それを可能にしたのは当時の日本人だからこそであり、それ故工業化もされ、軍事的にも強くなりえたのだ。重要なことは日本が西欧の優れた軍事技術を取り入れたことではなく、それだけならオスマン朝も清朝も行っている。差が出たのは日本軍の組織が近代的なものとなり、それを支える社会も政治も、大体のところ、近代国家のそれに変貌したからであり、これは高坂氏に限らず多くの学者も認めている。
明治維新の意義は大きく、それが可能になったのは幕末の日本人が強い危機感を共有したからであり、それを掘り下げていけば日本人の感覚の鋭さと誇り高さが見て取れる、と高坂氏は考える。だが、民族の誇り、即ちナショナリズムは危険なものでもあり、それは日清戦争の勝利と同時に現れ、そのため外相・陸奥宗光は対応で心身をすり減らすことになる。日本軍が平壌の陸戦と黄海海戦で勝利を収めると、日本人は戦勝に酔い、そして、北京まで進み城下の誓いをさせるべきであるとの議論に始まり、台湾を始めいくつかの領土と利権を要求する声が高まる。韓国への清朝の支配を排除するとの戦争目的は忘れ去られた。陸奥はこの戦争を総括し、『蹇蹇禄(けんけんろく)』にこう記した。
-ただ進軍せよという声以外は何人の耳にも入らず、深慮遠謀の人がいて妥当中庸の説を唱えようものなら、卑怯未練で全く愛国心のない人物と社会から白い目で見られるので、何も言わずに蟄息閉居する他ないという世情になった。
続けて、この状況について陸奥は次のように述べる。
-我が国民がこれ程までに空しい大望の熟度を高めるに至ったのは、我国古来特種の愛国心の発動したことによるものであって、政府はもとよりこれを鼓舞作興すべきであり、濱斥排斥(ひんせきはいせき)する必要はない。しかし、その愛国心なるものがいかにも粗豪厖大(そごうぼうだい)なものとなり、事実に適用する際の注意を欠く場合には、しばしば返って当局者に困難を感ぜしめた。スペンサーはかつてロシア国民が愛国心に富んでいることを説いた後、愛国心とは蛮俗の遺風であると述べた。そこまで言うのは言いすぎであろうが、しかし、愛国心のみあって、これを“用いる方法”をよく考えないならば、しばしば国家の大計に反する場合がある…
陸奥の危惧がやがて恐ろしい形で適中したのを、現代の日本人で知らぬ者はいない。ナショナリズムは熱狂と激憎を生み出した。しかもなお、日本にはそれが必要であったし、今もそうである、そこに日本のジレンマがある、と高坂氏は言う。
国際政治学者の高坂氏は、島国日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべきという論を展開、それら論文を契機として、弱冠29歳にして氏は現実主義を代表するオピニオン・リーダーとしての地位を確立した。進歩的文化人が主流だった当時の論壇では、アメリカ重視の少数派論客でもあった。62歳の死は早すぎる。
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