その①の続き
続けて池内恵氏は、シャルリー・エブド紙襲撃事件における既存のメディアやネットでの動きをこう分析しており、少し長文だが引用したい。
「それ(反西欧感情)はテレビのような公共のメディアさえもしばしば見られたが、なんら抑制の無いソーシャル・メディアでは極めて放恣に表出された。
テレビ各局の報道記者やコメンテーターは「テロは許せない」とのお題目を一応は唱えながらも、その次の瞬間から、殺害された風刺画家たちとシャルリー紙が、あたかもヘイトスピーチを行ってきたかのように論じ、それがまさに西欧社会と西欧人の傲慢さと無理解を代表するかのように問題を規定して、論評し始めた。
ここにはソーシャル・メディアが公的メディアに及ぼすようになった影響を無視できない。テレビ局の記者やコメンテーターが、短時間に現地の社会と思想の分析を行って、番組を構成し発信したとは考えられない。
むしろ日本語のソーシャル・メディアやブログなどを情報源に、フランス或いは漠然とした「欧米」なる存在への反感、根強い非差別感情という「世論」或いは「空気」を察知し、そのような視聴者の期待に応えて問題を構成し発言を行っていったと推論できる。
反西欧の感情を表明する発言は、「欧米ではイスラーム教徒は差別されている」という強固な思い込みに支えられている。しかしその「差別」の実態について、具体的な事実や問題構造を踏まえた上での議論は殆どなかった。そうではなく、「自分も西欧社会で差別された」という、日本人の滞在者や旅行者の極めて曖昧な、風説の類に近い情報・印象を事実上は根拠とした議論がソーシャル・メディアに溢れ、「テロをやられた欧米に原因がある」という空気が形作られ、ソーシャル・メディアをも浸食した。
日本人滞在者・旅行者が感じたかも知れない「差別」と、イスラーム教徒の移民とその子供の統合の構造的な不全の問題とは、全く異なる対象である…」
ネット上で上記のような反西欧の感情を表明する発言が溢れた要因を池内氏は、「日本における知識人の役割の不全という深刻な問題」があるという。
しかしネットでは、「憎しみ」に近い表現ばかりではなく、フランスへの同情や支援を表明する声も多かった。イスラム主義者のテロを激しく非難する意見もあったが、それには西欧の植民地支配や軍事介入を持ち出す親イスラム派がいたのも事実なのだ。尤もこの類の親イスラム派は、現代進行中のウイグル・チェチェン問題には触れない傾向がある。
池田氏はフランス通とされる知識人にしても、事態を適切に認識できているのか疑わしい発言が目立ったとさえ書いている。フランス通はさて置き、イスラム通とされる知識人による「欧米ではイスラーム教徒は差別されている」といった論説が、河北新報で掲載されていた。
池内氏は違うにせよ、そのため「テロをやられた欧米に原因がある」という空気を形作るのに、既存のメディアが大いに貢献したのは明らかだ。おそらく他紙も河北と似たり寄ったりの論調だったはず。
さらにテレビ局の記者やコメンテーターが、現地の社会と思想の分析を行っていることを期待するのは無駄である。特ダネをいち早く提供し、視聴率を稼ぐのが第一のテレビ局にとって、大事件報道は娯楽のネタであり、正確さは省みない。
但し、池内氏のコラム「自由をめぐる二つの公準」には次の一文もあり、この箇所だけは賛同できなかった。移民に揺れる欧州社会を見れば、尚のこと。
「日本社会が今後も移民を受け入れる社会になることを選ばなかったとしよう。それによって被る経済的な制約・損失については措くとしても、精神的・知的損失だけでも計り知れない」
そして氏はコラムをこう結んでいる。
「「自分の自由を失いたくないならば、他者の自由を守れ」という、西欧に端を発する近代社会が多くの摩擦を含みながらも護持してきた公準を、周回遅れかもしれないが、日本社会もまた取り入れる時期に来ているのではないだろうか」
その③に続く