トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

アルメニア人虐殺事件 その四

2011-03-01 21:14:46 | 読書/中東史

その一その二その三の続き
 1896年に入ると、東方問題は急速に複雑な様相を呈してくる。同年1月の第3週、サロニカの英国総領事から外務省には、アルメニア人革命家たちがマケドニアのギリシア人の間に社会的不安を掻き立てているとの情報が確かな証拠付きで送られた。アルメニア人活動家は同胞以外にもバルカンの異民族キリスト教徒とも連帯することもあったようだ。それが一層オスマン帝国のムスリム臣民の敵意を駆り立てた。
 2月末、アルメニア人活動家が背後にいたのかは不明だが、クレタ島のギリシア人村でオスマン帝国支配に反する暴動が起こる。英国工作員が暴動を唆し、この島を占領して大英帝国に取り込もうとしていると云った噂がコンスタンティノープルで広まった。当時の英国はこの島を占領する意志はなかったようだが、島の戦略的価値と帝国主義外交から噂が受け入れられたのである。

 クレタ島の暴動ははじめ列強の関心を引かなかったが、5月になると社会不安が深刻化する。同じ頃、帝都にはクレタ島の反政府分子や急進的愛国主義ギリシア民族運動家の他アルメニア人革命家も加わり、秘密会議を開いている。活動家たちが欧州列強に働きかけをしたのは書くまでもない。暴動はギリシア人の住む他の地域にも飛び火しかねなかった。
 1896年の夏になると、列強はクレタ島のギリシア人多数派に自治権を引き渡すよう、トルコに迫るようになる。8月の第2週までギリシア方面に 42万人の兵士を送り臨戦態勢を敷いていたアブドュルハミトだが、経済的負担以外にもドイツ、フランス、ロシア大使それぞれからかけらていた圧力も堪えた。

 8月25日、ペラの大使館員全員で構成される委員会が提出したクレタ島の改革計画を、ついにスルタンは承認する。つまり、クレタ島民はキリスト教徒の総督と幅広い自治権のある州議会を持ち、憲兵隊は欧州人の弁務官の支配下に再組織されるが、その地の役人の3分の2は島民にするというものだった。ヴァン州からはアルメニア人殺害や対抗するテロという情報も伝わってくるも、クレタ島問題は解消の方向に向かう。

 アブデュルハミトがクレタと会改革計画を承認したのは火曜日の朝だった。翌水曜日、1896年8月26日午後、アルメニア人過激派組織ダシナキのメンバーが、ガラタのオスマン帝国銀行本店を占領する事件を起こす。彼らは20世紀近東で多くのテロ組織が行うことになる手段を先取りしていた。建物に爆発物を仕掛け、人質を取り、アナトリア東部6州の即時改革を要求したのだった。アルメニア人はクレタ島のギリシア人と異なり、何処でも多数派民族ではなかったが、クレタ島民に約束した譲歩に匹敵するアルメニア人の権利を得ようとした。同年初めからアルメニア人は首都で、東部6州改革が実行されないことに抗議するデモを盛んに行っていた。しかし、ムスリム住民には列強という外圧の威を借りた横暴にしか見えず、激高した民衆の中にはアルメニア人を襲撃する者もいた。

 2時間に亘って銀行の周囲と内部で撃ち合いが行われた。銀行役員とロシア大使館の通訳官、テロリストの間で行われた交渉で浮かび上がってきたのは、ダシナキの一番の目的は、アルメニア人の窮状に対して欧州を目覚めさせることだった。これについて、彼らは大成功を収めた。木曜日の早暁、生き残ったテロリストたちは、ボスポラス海峡に停泊させてあった銀行頭取のヨットに護送され、国外追放となった。

 彼らは幸運だった。それから36時間の間、報復行為に出た群衆は首都のアルメニア人を虐殺、犠牲者は5~6千人と言われる。水曜の夜と翌日の昼、オスマン帝国軍は暴動を阻止する措置を全くとらなかった。木曜日朝、欧州の大使たちは合同でスルタンに、「このような前代未聞の事態を直ちに収拾するため、明確かつ例外なしの命令」を発令するよう要請する。
「即位以来20年間、そのような言葉は聞いたことがない」と抗議するアブデュルハミトに、すかさず大使たちはさらに厳しい言葉を突き付ける。虐殺に終止符を打つことが出来なければ、帝位も帝国も危機に晒されるだろうと、恫喝した。金曜礼拝のあと、スルタンはやっと信徒の殺害禁止措置をとった。
その五に続く

よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログへ



最新の画像もっと見る