前回ロマノフ家にまつわる本を見たので、ロマノフ朝ラストエンペラーが行った日露戦争に関する話を描きたくなった。但し当事国からではなく、トルコから見た日露戦争。当時のトルコはオスマン帝国だったが、戦争の最中、オスマン帝国が日本に対し、出来る限り支援をしていたことは案外知られていない。
例えばロシアの黒海艦隊がいつボスポラス海峡を通過するか、24時間ぶっ通して見張ってくれ、東部国境のロシア軍の動向も一部始終報告してくれるという協力ぶりだった。映画化されたこともあり、エルトゥールル号遭難事件のことは知られるようになったが、日露戦争におけるトルコの協力を指摘する人は、まず聞いたことがない。
もしかすると軍事史に詳しい方なら知っているかもしれないが、私の様な軍事オンチでも、敵情を知らせてくれるのは戦争に置いて極めて重要という認識はある。
20世紀初頭まで、トルコはロシア帝国と大規模な戦争だけで12回も戦い(※露土戦争)、18世紀以降は英仏の支援を受けたクリミア戦争を除けば敗戦続き、一方的にロシアに領土を奪われてきた。憎っくきロシアという国民感情が現代でも払しょくされたとは言い難く、20世紀初頭のトルコ人の「ロシア憎し!」という心情はかなり強かった。
当時のトルコ人がロシアに対する日本の勝利を我がことのように喜んだのは、単にロシアへの憎しみだけではない。ロシアが軍事的に大損害を受けたおかげで、その伝統的な主としてトルコ領を狙う「南下政策」を、一時的にも中止せねばならなくなったためだ。もし日露戦争でロシアが勝利したら、次のロシアの野心はトルコ帝国の本領であるアナトリアと、帝都イスタンブルへ向けられることを、トルコ人は熟知していた。
ところが、ロシアは対トルコ戦用の軍団まで満洲に送ってしまい、黒海艦隊の中の新鋭艦までバルチック艦隊を補強するため極東に送り出し、いずれも失ってしまったのだ。特にバルチック艦隊の全滅で、ロシア艦隊の海軍力はゼロに等しくなったことは、トルコ人を狂喜させたようだ。つまり、ロシアの老朽軍艦しか黒海にいなくなった結果として、トルコは黒海におけるロシアの絶対的制海権という重圧から解放されたのだ。
バルチック艦隊が全滅したニュースが届いた時はトルコ国中が湧きたち、当時帝都だったイスタンブルではお祭り騒ぎが始まったという。この劇的な報告を受けた独裁皇帝アブデュル・ハミト2世は思わず立ち上がり、「アッラーは偉大なり!」と叫んだと云われる。
日本の勝利は全てのトルコ人を狂喜させただけでなく、知識階級の人々を考えこませることにもなった。特にいかなるシステムにより、日本という遅れた小国が、列強と肩を並べられる国家に成長できたのかということが、トルコの知識人論議の的となったという。そして日本の近代化の秘密は、やはり憲法政治にあるというのが大半の人々の結論であった。
従って、19世紀で挫折した「ミドハト憲法」を復帰させねばならないという運動が、日露戦争後に急に活発となる。だが、彼らはトルコと日本の重大な社会条件の違いには気付かなかったようだ。つまり、日本には政治を規制するほど強大な宗教がなく、政教分離が比較的容易に行われていたということだった。
日本の勝利はトルコ一国を狂喜させたに止まらなかった。それがどれほどロシア帝国をはじめとする「列強」に支配されていたり、「列強」の野心に苦しめられていた諸民族を勇気づけたのかを、世界史の次元で評価しないのは、ソ連人と、いわゆる日本の「進歩的文化人」くらいなものである、と断言したのはトルコ史研究家の故・大島直政氏だった。現に私が読んだインドやイランの歴史教科書にも、それが特筆されていたほど。
但し大島氏は特亜を挙げてはおらず、日本の「進歩的文化人」など特亜の狗同然だったことは現代では知られている。拙ブログにも「がけっぷちのまぐれ」と腐した書込みをしてきたap_09なる女ブロガーがいた。複数のHNを使い、ネット浸りの暇人なのはともかく、韓国の話題には殊更ムキになり、日本語の読み書きも拙かったのでほぼザパニーズだろう。
■参考:「ケマル・パシャ伝」(大島直政 著、新潮選書)
「遠くて近い国トルコ」(大島直政 著、中公新書)
◆関連記事:「海難1890」
「イランの歴史教科書」
「ロシア人の見た露土戦争」
日本は明治のとき何を始めるにもとりあえず人を育てることから始めたのが近代化に失敗した国との違いだと思います。そしてそれも一部エリートではなく国民全体を広くレベルアップを狙ったところでしょう。逆に過去の失敗した国同様、現在のアフリカが欧米の教育機関で優秀な人材を学ばせても結局上手くいてないパターンの多いこと!
そう考えてみると、当時の日本は今では考えられないくらいの人材が集まっていましたね。戊辰の生き残りが活躍した所を見ても日本史上の奇跡かもしれません。
海軍に限らず陸でも似たようなことが起きています。鉄道を国に敷設したのは結構でも、肝心の技師はアルメニア人やギリシア人などのキリスト教徒中心でした。そのため希土戦争時、軍需物資を戦地に送る際、かなり苦労したそうです。オスマン帝国時代の全盛期、技術革新を異教徒に任せっぱなしにしていたことが裏目に出ました。
アフリカについてはまるで浅学ですが、オリンピック選手がスポーツよりも稼ぐ目的で来ていた国までありましたね。アフリカは未だに国民国家ではなく、部族の集合国家が多いように思えます。これではいくら優秀な人材がいても、出身部族優先なので活用できません。
あの戦争は日本史上のみならず世界史上の奇跡だったかもしれません。確かに崖っぷちの戦いでしたが、戦争前に日ロ双方を見ていた人の中には、少数でも日本が勝つと断言した人がいました。まぐれでは絶対に勝てない。
あれ?私は以下だと思っていました。
>1904年 日露戦争勃発。黒海艦隊の出動も検討されるがイギリスなどの圧力により断念。商船に偽装した仮装巡洋艦数隻の出動にとどまる。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/黒海艦隊
>世界第3位のオスマン帝国海軍
最新型(特に本物の戦艦)は無いので清国海軍以下。(清国の定遠級は最新鋭。)
もっとも、技術面でもコンセプトでも世界最先端だった日本海軍が異常。(技術的にはイギリスが実験台に使ったともいう。)
確かにwikiには「黒海艦隊の出動も検討されるがイギリスなどの圧力により断念」とありましたね!一方参考資料とした「ケマル・パシャ伝」の62頁には、「黒海艦隊の中の新鋭艦までバルチック艦隊を補強するため極東に送り出し…」とあります。
たぶんwikiの方が正確なのでしょう。wikiのバルチック艦隊にも次の一文があり、黒海艦隊は無事だったようですね。
「ロシア海軍は黒海の外に出撃できない黒海艦隊を除いて戦力のほとんどが日露戦争に動員されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AF%E8%89%A6%E9%9A%8A
残念ながらオスマン帝国海軍は清国海軍以下でしたか。教えて頂きありがとうございました。
トルコと英国のおかげで、黒海に残留することになり生き残れた新鋭戦艦が騒動を起こすことになります。それが有名な「戦艦ポチョムキン号事件」です!戦艦ポチョムキン号は当時の日本海軍
最新の三笠と比べても攻撃力は同等の艦艇なので
バルチック艦隊に合流すれば十分脅威でした。
ソ連のプロパガンダ映画に「戦艦ポチョムキン」があります。映画史上有名な「オデッサの階段での虐殺事件」は実際は起きておらず、さすが左翼は虚偽宣伝が上手い。