その①の続き
本の中で一番面白かったのが、「ソバプンの話」。読売新聞の人生案内に投稿した、医療大学で学んでいる20代女性の相談が取り上げられており、こんな話なのだ。
「彼は2週間以上も同じ服を着続けています。入浴もしていないようで、強烈な臭いを放っています。このため、教室でみんな避けて座ります。(中略)
その彼と、実習で同じ班になってしまいました。マスクをしても臭いは防げず、蝕診の課題では彼に触れなければなりません。頭や肩にはふけが大量についています。耐えられません。実際に体調が悪くなったこともあります」(44頁)
思い余った彼女が学生課に相談しても何も解決されず、直接注意するのは恐くてできない。今後新たに実習班が組み直されることになったので、万一同じ班になったら1年間、一緒に行動しなければならず、相談はこう結ばれている。
「そのことを考えると、不安で夜も眠れません。このままでは大学に通えなくなりそうです」(45頁)
今時、このような男子学生がいたこと自体驚いたが、「ソバプン」とは傍に行くとプンと臭う人を指す言葉で、故・遠藤周作が学生時代に付けられたあだ名でもあったそうな。佐藤氏は件の女性の相談を読んで、「ソバプン」の話を思い出してしまったという。
それにしても、何故この相談者はハッキリとソバプンに向って注意しないのか、私には不思議だ、という著者には私も同意する。それほど悩んでいるにも拘らず、直接注意するのは恐くてできないという気弱なメンタリティには呆れる。強烈な体臭は不快にせよ、死臭はさらに酷いはず。女医の卵がこれで将来大丈夫か、と思ってしまった。著者は当然それを厳しく非難している。
「何もいえず学生課に相談したり新聞に投稿して回答を待つというような手の込んだことをするなんて、そういう人は「気弱」なんてものじゃない。私にいわせれば「怠け者」だ」(47頁)
続けての一文、「ふりかかった不幸災難は、自分の力でふり払うのが人生修行というものだ」は、確かに正論である。今は不幸災難には、他人や社会の力を当てにするのが普通となっている時代なのだ。尤も先の女子医学生が著者の意見を見たところで、一念発起するかは疑問。
「懐かしいたずら電話」の話も面白い。著者の家には毎日のようにいたずら電話がかかってきたそうだ。身の上相談や愚痴もあったが、多いのがエロ電話、無言電話だったという。著名人特有の“有名税”もあろうが、これには家中が振り回される。あまりの無言電話の煩さに著者は警察に相談に行き、粘っては相手の電話番号だけを突き止めて貰う。これまた著名人の特権だろう。一般庶民なら訴えても、対応しないのが警察だから。
無言電話の主は何と青森の男だった。著者はこの男への無言電話を何度か行ったが、1人暮らしなのか、毎回同じ声の主が出てきたとか。その結果、ついに無言電話はかからなくなった。
「ああ、あの頃が懐かしい。あの頃は毎日が忙しく、元気横溢していた」と述懐する著書。脂ののった売れっ子作家だった過去を懐かしむのはご愛嬌だが、「当節は無言電話やエロ電話の話題さえも耳にしない。耳に入るのは「フリコメ詐欺電話」の被害ばかりだ」の一言にハッとした。
現代でもエロ電話や無言電話の被害者は少なくないはずだが、以前より減少したのか話題にも上らなくなっている。それに代わったのがメールで、こちらもエロや嫌がらせ、フリコメ詐欺メールと多種多様ある。エロ電話や無言電話がかかってくるのは不快だが、金銭を盗られるフリコメ詐欺に比べれば、嫌がらせ電話と言ってよい。フリコメ詐欺の手口も年毎に巧妙化しており、いたずら電話全盛の頃のほうが社会は平穏だったのか。
長寿は一般にめでたいと云われる。しかし、実際に高齢にならなければ老苦は実感できないし、年を経るだけで気力や体力が衰えてくるのは恐ろしい。病にならずとも長生きすればするほど、目や耳、腰、ひざなど体全体が悪くなってくるのは避けられない。著者が嘆く身体の衰えは、母や叔母たちも同じなのだ。少女時代にかけっこの早かった叔母は今ではひざを痛め、歩くのさえままならず、母も外出時には杖が欠かせない。
それでも売れっ子作家だっただけあり、著者の気力はまだ衰えていないようだ。「イチャモンつけの元祖である私」(181頁)を自負するほどだから、良くも悪くもイチャモンつけはアタマを使う。つまり、イチャモンつけは脳の活性化に繋がるということ。イチャモンはそれを聞いてくれる人がいてこそやれるものだが、著名な老作家はそんなファンに不足しない。
「怒りは私の元気の素だった」(126頁)は御もっとも!私自身も短気な性格だし、怒りをネタにブログを書くことはしばしばやっている。適度に怒りを発散させるのはストレス解消にもなるし、「怒らない生き方」という本もあったが、この種の啓蒙本は読む気にはなれない。