3月29日の河北新報に「松本智津夫被告の控訴棄却に思う」というコラムが載った。寄稿者は川村邦光・大阪大大学院教授で、中央の大見出しに『殉教者の道選択阻止を』とあった。川村教授は麻原への死刑には反対の意見をとっており、その論文の一部を抜粋したい。
「死刑は犯罪の当事者を地上から消滅させてしまい、当事者ばかりでなく、事件そのものを否応なく風化させていく。最近「吉展ちゃん事件」のノンフィクションである故本田靖春氏の「誘拐」を読んだが、世間では小原保・元被告のことも殺害された村越吉展ちゃんのことも覚えてはいないだろう。事件は1963年に起こり、小原元被告は71年に死刑に処せられた・・・
死刑によって犯罪の帳尻を合わせられるのか、疑問であろう。死ぬまで“生き恥”を晒し続けることこそが、罪の重さを思い知らせることになるのではないか。それが被害者に対する償いとも弔いともなろう・・・
松本被告はオウム真理教の教祖にして「最終解脱者」の麻原影晃として死刑判決が下されること、そして死刑に処されることを望んでいるのだろうと推測でき る。すなわち、殉教者の道を選ぶことで生涯を全うし、この国の宗教の歴史に名を留めたいと願ったのが、この間の一連のパフォーマンスだったと考えられよ う。
自分の高遠な教えを理解できない、救い難い世間を愚弄し、後の世まで語り伝えられる孤高の殉教者としての道をあえて選んだのが、松本被告の戦略なのではないか・・・
だが、悟りに至る修行を通して弟子を育て、曲がりなりにも救済を説いたのである。虚栄に満ちたはかなく空しい現世を否定し、霊性・精神を鍛錬し高めて、来世の幸福を得ることこそ、至高のものだと教えもした・・・
「虚言」に満ちた現代の社会を改めて見直してみるためには、松本被告の声が是非とも求められる。殉教者としてパフォーマンスを演じさせるよりも“生き恥”を晒し続けさせることが必要ではないだろうか」
「吉展ちゃん事件」はTV化されたこともあり、私は憶えている。事件のことは母から聞いたが、犯人の小原は福島県出身で足が悪いこと、吉展ちゃんの遺体を事件と無関係の家の墓穴に隠したので、発覚が遅れたそうだ。墓穴の中とは考えたものだ。
川村教授は小原の死刑は事件そのものを風化させたと書いているが、時の流れは例え終身刑でも、“生き恥”を晒し続ける被告人の存在も忘れ去られる。
そして川村教授は麻原が殉教者を目指していると推測しているが、これは如何なものだろう。本人は弟子たちに全て責任転化しただけでなく、何年も前から黙秘 し続けているため、その精神状態はうかがい知れない。だが、あの姿勢は死刑判決を逃れるためのパフォーマンスではないか、との疑いを持つ者も少なくない。 麻原は生き残るためなら“生き恥”など感じないようなタイプではないのか?
教授は現世を虚栄や虚言に満ちている、と表現するが、現世はいつの時代も火宅の世界なのだ。
宗教に関する様々の著書があるひろさちやさんは『宗教練習問題』(新潮文庫)で、宗教学者を痛烈に批判していた。レッスン8で「インチキ宗教、ニセモノ宗教に騙される宗教学者」の見出しで、面白いことを書いている。
「宗教学という学問があります。これは、あらゆる宗教を全て平等に扱う学問です。従ってどの宗教がいい宗教か、どの宗教が悪い宗教か、一切発言しません。宗教学をやっている人たちは、そのような学問的態度を価値中立と呼んでいます。俺はこの宗教が好きだ、この宗教は嫌いだからこれは邪教だ、と言っていたのでは学問にならないと言う訳です。
それはそうかもしれません。でも、全ての宗教を平等に扱うのは危険です。そんなことをしていると、インチキ宗教、ニセモノ宗教に騙されてしまいます。事 実、有名な宗教学者でオウム真理教の麻原影晃と対談して、麻原に「尊師、尊師」と呼びかけていた人々がいます。いえ、その人々はインド哲学科の出身ではあ りません。インド哲学科の人間は概ね仏教学者で、仏教を最高の宗教と信じています。だからインチキ宗教、ニセモノ宗教に騙されることはほとんどありません が、宗教学科の出身者は仏教とオウム真理教を同等に扱いますから、容易に騙されてしまうのです。
それ故、私たちは価値中立だなんて馬鹿なことは言わないようにしましょう。宗教の内にはホンモノもあればニセモノもあります」
大衆は無知だが真実を見抜く目は持っている、と言ったのはマキアヴェッリだが、カルトにあっさり騙された宗教学者は大衆より愚かだったのではないか。
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「死刑は犯罪の当事者を地上から消滅させてしまい、当事者ばかりでなく、事件そのものを否応なく風化させていく。最近「吉展ちゃん事件」のノンフィクションである故本田靖春氏の「誘拐」を読んだが、世間では小原保・元被告のことも殺害された村越吉展ちゃんのことも覚えてはいないだろう。事件は1963年に起こり、小原元被告は71年に死刑に処せられた・・・
死刑によって犯罪の帳尻を合わせられるのか、疑問であろう。死ぬまで“生き恥”を晒し続けることこそが、罪の重さを思い知らせることになるのではないか。それが被害者に対する償いとも弔いともなろう・・・
松本被告はオウム真理教の教祖にして「最終解脱者」の麻原影晃として死刑判決が下されること、そして死刑に処されることを望んでいるのだろうと推測でき る。すなわち、殉教者の道を選ぶことで生涯を全うし、この国の宗教の歴史に名を留めたいと願ったのが、この間の一連のパフォーマンスだったと考えられよ う。
自分の高遠な教えを理解できない、救い難い世間を愚弄し、後の世まで語り伝えられる孤高の殉教者としての道をあえて選んだのが、松本被告の戦略なのではないか・・・
だが、悟りに至る修行を通して弟子を育て、曲がりなりにも救済を説いたのである。虚栄に満ちたはかなく空しい現世を否定し、霊性・精神を鍛錬し高めて、来世の幸福を得ることこそ、至高のものだと教えもした・・・
「虚言」に満ちた現代の社会を改めて見直してみるためには、松本被告の声が是非とも求められる。殉教者としてパフォーマンスを演じさせるよりも“生き恥”を晒し続けさせることが必要ではないだろうか」
「吉展ちゃん事件」はTV化されたこともあり、私は憶えている。事件のことは母から聞いたが、犯人の小原は福島県出身で足が悪いこと、吉展ちゃんの遺体を事件と無関係の家の墓穴に隠したので、発覚が遅れたそうだ。墓穴の中とは考えたものだ。
川村教授は小原の死刑は事件そのものを風化させたと書いているが、時の流れは例え終身刑でも、“生き恥”を晒し続ける被告人の存在も忘れ去られる。
そして川村教授は麻原が殉教者を目指していると推測しているが、これは如何なものだろう。本人は弟子たちに全て責任転化しただけでなく、何年も前から黙秘 し続けているため、その精神状態はうかがい知れない。だが、あの姿勢は死刑判決を逃れるためのパフォーマンスではないか、との疑いを持つ者も少なくない。 麻原は生き残るためなら“生き恥”など感じないようなタイプではないのか?
教授は現世を虚栄や虚言に満ちている、と表現するが、現世はいつの時代も火宅の世界なのだ。
宗教に関する様々の著書があるひろさちやさんは『宗教練習問題』(新潮文庫)で、宗教学者を痛烈に批判していた。レッスン8で「インチキ宗教、ニセモノ宗教に騙される宗教学者」の見出しで、面白いことを書いている。
「宗教学という学問があります。これは、あらゆる宗教を全て平等に扱う学問です。従ってどの宗教がいい宗教か、どの宗教が悪い宗教か、一切発言しません。宗教学をやっている人たちは、そのような学問的態度を価値中立と呼んでいます。俺はこの宗教が好きだ、この宗教は嫌いだからこれは邪教だ、と言っていたのでは学問にならないと言う訳です。
それはそうかもしれません。でも、全ての宗教を平等に扱うのは危険です。そんなことをしていると、インチキ宗教、ニセモノ宗教に騙されてしまいます。事 実、有名な宗教学者でオウム真理教の麻原影晃と対談して、麻原に「尊師、尊師」と呼びかけていた人々がいます。いえ、その人々はインド哲学科の出身ではあ りません。インド哲学科の人間は概ね仏教学者で、仏教を最高の宗教と信じています。だからインチキ宗教、ニセモノ宗教に騙されることはほとんどありません が、宗教学科の出身者は仏教とオウム真理教を同等に扱いますから、容易に騙されてしまうのです。
それ故、私たちは価値中立だなんて馬鹿なことは言わないようにしましょう。宗教の内にはホンモノもあればニセモノもあります」
大衆は無知だが真実を見抜く目は持っている、と言ったのはマキアヴェッリだが、カルトにあっさり騙された宗教学者は大衆より愚かだったのではないか。
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私は川村教授のいうように、松本被告を「殉教者」とは、かなりの違和感、というかとてもそうは見えません。松本被告に当てはまるのは「凶悪犯」であると思います。また、宗教の為に人殺しを行うのも凶悪な犯罪ですが、松本被告の場合、宗教よりも、自己の利益を守る為、坂本弁護士一家殺害、地下鉄での無差別テロを考慮すると、とてもまともな「宗教家」には見えませんね。
また、mugiさんの仰る通り、生き恥を晒すという意識がないのもそうですが、生に固執し、部下に全て罪を擦り付ける姿は見苦しく、とてもじゃないですが共感できない。せめて、組織の長であれば、すべての責任を被る位のものがほしいものですが(それでも、罪の重さを考えると、とても許せませんが)。
やはり、学者と名のつく者ほど、専門的な知識はあったとしても、世間の意識からかけ離れていることは多々あります。
>宗教の内にはホンモノもあればニセモノもあります
宗教に限らず、世の中にはホンモノもあればニセモノもあるのが普通ですよね?それを「価値中立」で、全て平等に扱うとは。世界中の宗教の中に、どれほどホンモノがあるか分かりませんが(その基準も分かりませんが)、信者と同様に、学者も盲目になるものかもしれませんね。
私も川村教授の「殉教者」解釈には強い抵抗を感じました。ひろさちやさんが批判したように、反って宗教学者の方が騙されている。
世の中知らずの学者を煙に巻くくらい、詐欺師には朝飯前でしょうね。死刑廃止論の御用学者ですか、と皮肉りたくなります。
このような“有識者”がいるため、オウムに限らず日本の裁判が長引くのです。
意外に宗教に心の安らぎを求めようとする人ほど、宗教の基礎が分からない事が多い。オウムのホーリーネームなど少しでも仏教を聞きかじっていればお笑い種なのですが、アーナンダ(釈迦の弟子)などと呼ばれて喜んでいる。
何事にもプラス面とマイナス面がありますが、宗教のマイナス面が前面に出たのがオウムでした。
瀬戸内寂聴さんはお金を取るのが悪い宗教と仰ってましたが、まさにオウムがそうでした。
ごめんなさい。宗教は全部ニセモノではないかと小さい頃から思っていました。
>世間では小原保・元被告のことも殺害された村越吉展ちゃんのことも覚えてはいないだろう。
廃止派の方々が好んで口にされるフレーズですね。
私は当時子供でしたが今でもよく覚えています。
死刑であろうとなかろうと、「風化」するものはするでしょうし、風化しないものはしない、それだけのことだと思います。
実際には死刑にならないケースが大部分なわけですが、それらの事件が風化しないで人々の記憶に留まっているかというと大いに疑問です。
そもそも川村教授の「死刑に処せられることを望んでいる」という認識が御粗末ですね。どこをどう見ればそのような解釈ができるのでしょう。
この教授に限らず「犯罪心理学の専門家」などと称する先生方が何か事件の起こる度にコメントしておられますが、真相が明らかになってみると的外れである場合が多いように思います。
実は私もずっと宗教などまやかしと思ってました。
ただ、人類史上の宗教のプラス面は否めないので、最近は長所も見られるようになりました。職業柄ひろさちやさんは宗教否定は出来ないでしょう。
>DHさん
「岡目八目」という言葉がありますが、反って部外者の人のほうが、「犯罪心理学の専門家」より冷静に物事を見ていると思います。
川村教授は麻原の弁護側の精神科医が「混迷状態」と診断を下しているので、もし演技でなければ治療を受けて回復するまで待つのが望ましい、とも書いてます。これだから裁判が恐ろしく長引く。税金投入の無駄もいいところで、教授こそ世間を愚弄しています。
川村教授に限らず死刑廃止派の学者たちは、ご都合主義的な解釈で無意味な空論を弄んでいると思います。