河北新報は毎週日曜日に新刊案内の特集記事を組む。昨年末頃、あるジャーナスリトの自伝の新書が紹介された。その題も『ニュース・ジャンキー』(ジェイソン・レオポルド著、亜紀書房)。以下は文筆業の片山博氏による書評の全文。
-一読、「これは映画になる!」と思った。巨大企業の不正を暴くため取材に駆け回る型破りのジャーナリスト、彼がひた隠しに隠す忌むべき過去、その背景に潜む家族との確執と絆―。ハリウッド好みのドラマが、本書にはぎっしり詰まっている。しかも全て「実話」である。
地方紙の記者を経て米ダウ・ジョーンズに勤めた著者は米国史上最大の企業犯罪「エンロン事件」の真相を次々とスクープする。電力の不正取引などで2000年のカリフォルニア電力危機の一因となった経済事件だ。
熾烈な取材競争の舞台裏、ネタ元との虚実ない交ぜの駆け引きが読みどころだ。特ダネのためには時に情報源を騙し、裏切り、利用する。逆にハメられ、追い詰められる。著者はうそぶく。「情報をどうやって手に入れたかは大した問題じゃない。倫理を振りかざすジャーナリストもいるが、あんなものには一文の価値もない」。
彼を突き動かすのは、巨悪を許さぬ正義感と真実の追究…ではない。筆一本で世の中を動かす全能感、ライバル紙や同僚を出し抜く優越感だ。めくるめく自己陶酔の快感を求めて、彼は取材にのめり込み、暴走し、やがて社を追われる羽目に。
正義のヒーローには程遠い。攻撃的なくせに繊細、負けず嫌いで癇癪もち、失敗をやらかしそうな時は、幼少時からの父親による虐待の記憶がよみがえる。名を上げれば上げたで、コカイン中毒やアルコール依存症、窃盗の前科といった素性がばれないか、恐れおののく。
著者は記す。「自分の罪と恥の意識を、他人のもっと大きな罪を暴くことで打ち消そうとし、そのために報道の仕事を利用したのである」。
過去から逃げず、本来の自分と向き合うために綴った自叙伝。その意味で本書は一人のか弱き人間のざんげの書、自己回復の記録でもある。そしてその底には筆者を支える妻の愛という、もうひとつのテーマが流れる。日々報じられる一片の無機的なニュースの向こうには、生身の人間がうごめいている。それを鮮やかに伝える一冊。
新聞でこの本が紹介されてから数ヶ月は過ぎているが、未だに私は未読である。取材競争の舞台裏の話は興味津々の内容だが、反面“ざんげ”の箇所は所詮自己弁護と自己憐憫の長広舌に過ぎないのではないか、との疑いが拭えず、読むのに躊躇いがあるのだ。幼少時の父親による虐待など、アメリカ著名人の告白にはよくあり、己の欠点への流行の言い訳となっているかのようだ。また、酒や麻薬に溺れる夫への妻の献身も、いかにも読者の同情を誘うような話。特ダネ情報源と同じく、読者をも欺こうとしている可能性もある。
ただ、ジャーナリストの著者が“ニュース・ジャンキー”と化した動機が実に面白い。正義感や真実の追究がない訳ではなかったと思うが、それよりも自分の前科や罪悪感を打ち消すため、「他人のもっと大きな罪を暴くこと」に情熱を注いだ。つまり、自分の非は棚に上げて他人を攻撃することに満足を見出していたのだ。ジャーナリストも様々だろうが、この類は著者や米国ジャーナリスト業界の特異性ばかりとは思えない。同業者には甘く、そうでない者の非は容赦しない我国のマスコミだから、日本人ジャーナリストにも同類はいるはず。
もしかすると、無名のネットユーザーにも似たタイプはいるだろう。己の書込みが注目を集め、読む人が夢中になると思い込んでいるような、明らかに誇大妄想に陥っているブロガーを見たこともあるし、ネット依存症までいるのだ。巨悪を許さぬ正義感で真実を追究する記者など、マスコミが広めた神話であり、倫理観で律する者を求めること自体、ないものねだりなのだ。一部例外もあるにせよ、記者とは広告主の要望ひとつで真実を捏造、歪曲するペンを持ったゴロツキや男娼がその正体なのかもしれない。
◆関連記事:「ニュースの天才」「エンロン」
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-一読、「これは映画になる!」と思った。巨大企業の不正を暴くため取材に駆け回る型破りのジャーナリスト、彼がひた隠しに隠す忌むべき過去、その背景に潜む家族との確執と絆―。ハリウッド好みのドラマが、本書にはぎっしり詰まっている。しかも全て「実話」である。
地方紙の記者を経て米ダウ・ジョーンズに勤めた著者は米国史上最大の企業犯罪「エンロン事件」の真相を次々とスクープする。電力の不正取引などで2000年のカリフォルニア電力危機の一因となった経済事件だ。
熾烈な取材競争の舞台裏、ネタ元との虚実ない交ぜの駆け引きが読みどころだ。特ダネのためには時に情報源を騙し、裏切り、利用する。逆にハメられ、追い詰められる。著者はうそぶく。「情報をどうやって手に入れたかは大した問題じゃない。倫理を振りかざすジャーナリストもいるが、あんなものには一文の価値もない」。
彼を突き動かすのは、巨悪を許さぬ正義感と真実の追究…ではない。筆一本で世の中を動かす全能感、ライバル紙や同僚を出し抜く優越感だ。めくるめく自己陶酔の快感を求めて、彼は取材にのめり込み、暴走し、やがて社を追われる羽目に。
正義のヒーローには程遠い。攻撃的なくせに繊細、負けず嫌いで癇癪もち、失敗をやらかしそうな時は、幼少時からの父親による虐待の記憶がよみがえる。名を上げれば上げたで、コカイン中毒やアルコール依存症、窃盗の前科といった素性がばれないか、恐れおののく。
著者は記す。「自分の罪と恥の意識を、他人のもっと大きな罪を暴くことで打ち消そうとし、そのために報道の仕事を利用したのである」。
過去から逃げず、本来の自分と向き合うために綴った自叙伝。その意味で本書は一人のか弱き人間のざんげの書、自己回復の記録でもある。そしてその底には筆者を支える妻の愛という、もうひとつのテーマが流れる。日々報じられる一片の無機的なニュースの向こうには、生身の人間がうごめいている。それを鮮やかに伝える一冊。
新聞でこの本が紹介されてから数ヶ月は過ぎているが、未だに私は未読である。取材競争の舞台裏の話は興味津々の内容だが、反面“ざんげ”の箇所は所詮自己弁護と自己憐憫の長広舌に過ぎないのではないか、との疑いが拭えず、読むのに躊躇いがあるのだ。幼少時の父親による虐待など、アメリカ著名人の告白にはよくあり、己の欠点への流行の言い訳となっているかのようだ。また、酒や麻薬に溺れる夫への妻の献身も、いかにも読者の同情を誘うような話。特ダネ情報源と同じく、読者をも欺こうとしている可能性もある。
ただ、ジャーナリストの著者が“ニュース・ジャンキー”と化した動機が実に面白い。正義感や真実の追究がない訳ではなかったと思うが、それよりも自分の前科や罪悪感を打ち消すため、「他人のもっと大きな罪を暴くこと」に情熱を注いだ。つまり、自分の非は棚に上げて他人を攻撃することに満足を見出していたのだ。ジャーナリストも様々だろうが、この類は著者や米国ジャーナリスト業界の特異性ばかりとは思えない。同業者には甘く、そうでない者の非は容赦しない我国のマスコミだから、日本人ジャーナリストにも同類はいるはず。
もしかすると、無名のネットユーザーにも似たタイプはいるだろう。己の書込みが注目を集め、読む人が夢中になると思い込んでいるような、明らかに誇大妄想に陥っているブロガーを見たこともあるし、ネット依存症までいるのだ。巨悪を許さぬ正義感で真実を追究する記者など、マスコミが広めた神話であり、倫理観で律する者を求めること自体、ないものねだりなのだ。一部例外もあるにせよ、記者とは広告主の要望ひとつで真実を捏造、歪曲するペンを持ったゴロツキや男娼がその正体なのかもしれない。
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