その①の続き
このタバコ・ボイコット運動は、シーア派の聖地であるイラクのサーマッラー在住のマルジャア・アッ=タクリード(模擬の源泉の意)の聖職者が、利権が解除されるまでの喫煙は禁忌であるとするファトワー(宗教命令)を発したとの噂がテヘランに届いたことで、一挙に盛り上がる。「マルジャア・アッ=タクリード」とは、スンナ派と異なり独自の位階制を持つシーア派の最高権威であり、大アーヤトッラーの高位ウラマーだけが就ける対象となる。20世紀のイラン・イスラム革命の指導者、ホメイニも大アーヤトッラーだった。カトリックで言えば、ロー マ法王のような存在。
サーマッラーの最高権威のファトワーは噂だったが、これを受け他の聖地のアーヤトッラーやウラマーたちも喫煙禁止命令を発する。シーア派ウラマーの間には驚くような結束力を生み、運動が全国的に発展、互いに強力な連帯感を持つようになる。主なウラマーでタバコ禁忌令を認めなかった人物は僅か一人だけだったという。商人や地主など直接利害を侵害された人々のみならず、タバコを愛飲する庶民までもが教令に従い、一斉にタバコをボイコットする。ナーセロッディーン・シャーの侍医だったフランス人フーヴリエの日記の一節にはこう記 されている。「教令が公布された後、公共の場は言うまでもなく個人の家屋でも、水煙管と吸口は見当たらなくなった。宮廷もその例外ではなかった」。
2年間に亘り繰り広げられたタバコ・ボイコット運動で、1892年、ついにシャーは事態沈静化のためタバコ利権を撤回する。この事件はシーア派ウラマーとその最高権威が民衆の利益を代弁し、国王の政策転換を迫るという政治運動の原型となる。1905年以降のイラン立憲革命 もこれに連なり、イラン・イスラム革命も同じ型を見ることとなる。運動は勝利したが、国王は利権撤回に伴う多額の賠償支払いを要求され 、膨大な債務を抱える羽目になったから、イランにとっても悲運だった。
イランのウラマーたちがシャーに対抗出来た最大の理由は、商人や地主層が払う宗教税により国家から独立した財源を確保していたからである。一般信者の中でも特にバーザール(市)商人や地主などの富裕層は、ザカート(喜捨)や五分の一税などの宗教税の支払いを通じ、影響力を行使していた。そのため、19世紀中頃から20世紀初頭のシーア派ウラマーは、オスマン朝とガージャール朝のいずれからも独立した 組織として存続しえた。
商人や地主が聖職者を経済的に支えたのを不思議に感じる方もいるだろう。その見返りとして彼らは、ウラマーにイスラム法に適った取引や契約を指導し保障してくれること、国家からの不当な搾取や介入に抗し、商人層の利害を守ることを期待した。シャリーア(イスラム聖法)と言えば聞こえはよいが、実際は儒教圏のような人治主義がかなりまかり通っていたのだ。人治主義も臨機応変に対処できる長所がない訳でもないが、恣意的な法の解釈や腐敗を生む原因であり、士大夫のようにウラマーにも曲学阿世の輩が少なくなかった。イランと異なり オスマン朝の聖職者は宮廷の御用学者と化し、帝政廃止以降の皇帝同様、支配層の地位を追われることになる。
西欧へのタバコ利権問題で、イラン国民を覚醒させたペルシア語紙「アフタル」には、1890年3月、興味深い一投書が載っている。水キセル用の刻みタバコの輸出に触れ、イギリスとイランの商品は梱包や輸送法の点で既に差があると嘆いていた。イギリス人の扱うタバコ商品 は2つの袋を頑丈に梱包し粗い黄麻の布で保護していたので、運送中に破損することはなかった。しかも、「婚礼であるかのように商品を飾 り付けて売りさばく」見事さ。一方、イラン人の扱う商品は外見からして、「見るも無残なやり方」で包まれていた。タバコを入れた袋はボロ紐で括られ、黒ずみ使い古された麻袋に包まれていた始末。当然輸送途中、梱包がバラバラになり、タバコがこぼれ落ちてしまう。結局目的地では、イギリス人の扱った商品より安く買い叩かれたのは書くまでもない。これだけでも西欧資本主義における商品の高品質や物品輸送の優位性が知れる。
それにしても、利権を求め相手側の無知に付け入る欧米経済人の抜け目なさは、21世紀においても変わりない。第三世界に訓示を垂れる欧米知識人の傲慢さもまた然り。タバコ・ボイコット運動を、イラン人のナショナリズムが台頭した事件と見る識者が多い。だが、欧米のどの国よりも先駆けてナショナリズムによる近代国民国家を形成、「神と国王と祖国のために死ぬ」との愛国心教育を青少年に施したのがイギリスだった。
■参考:「世界の歴史・第20巻/近代イスラームの挑戦」山内昌之著、中央公論社
「シーア派」桜井啓子著、中公新書
◆関連記事:「英露の覇権争いにより…」「明治の日本人が見たイラン」
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このタバコ・ボイコット運動は、シーア派の聖地であるイラクのサーマッラー在住のマルジャア・アッ=タクリード(模擬の源泉の意)の聖職者が、利権が解除されるまでの喫煙は禁忌であるとするファトワー(宗教命令)を発したとの噂がテヘランに届いたことで、一挙に盛り上がる。「マルジャア・アッ=タクリード」とは、スンナ派と異なり独自の位階制を持つシーア派の最高権威であり、大アーヤトッラーの高位ウラマーだけが就ける対象となる。20世紀のイラン・イスラム革命の指導者、ホメイニも大アーヤトッラーだった。カトリックで言えば、ロー マ法王のような存在。
サーマッラーの最高権威のファトワーは噂だったが、これを受け他の聖地のアーヤトッラーやウラマーたちも喫煙禁止命令を発する。シーア派ウラマーの間には驚くような結束力を生み、運動が全国的に発展、互いに強力な連帯感を持つようになる。主なウラマーでタバコ禁忌令を認めなかった人物は僅か一人だけだったという。商人や地主など直接利害を侵害された人々のみならず、タバコを愛飲する庶民までもが教令に従い、一斉にタバコをボイコットする。ナーセロッディーン・シャーの侍医だったフランス人フーヴリエの日記の一節にはこう記 されている。「教令が公布された後、公共の場は言うまでもなく個人の家屋でも、水煙管と吸口は見当たらなくなった。宮廷もその例外ではなかった」。
2年間に亘り繰り広げられたタバコ・ボイコット運動で、1892年、ついにシャーは事態沈静化のためタバコ利権を撤回する。この事件はシーア派ウラマーとその最高権威が民衆の利益を代弁し、国王の政策転換を迫るという政治運動の原型となる。1905年以降のイラン立憲革命 もこれに連なり、イラン・イスラム革命も同じ型を見ることとなる。運動は勝利したが、国王は利権撤回に伴う多額の賠償支払いを要求され 、膨大な債務を抱える羽目になったから、イランにとっても悲運だった。
イランのウラマーたちがシャーに対抗出来た最大の理由は、商人や地主層が払う宗教税により国家から独立した財源を確保していたからである。一般信者の中でも特にバーザール(市)商人や地主などの富裕層は、ザカート(喜捨)や五分の一税などの宗教税の支払いを通じ、影響力を行使していた。そのため、19世紀中頃から20世紀初頭のシーア派ウラマーは、オスマン朝とガージャール朝のいずれからも独立した 組織として存続しえた。
商人や地主が聖職者を経済的に支えたのを不思議に感じる方もいるだろう。その見返りとして彼らは、ウラマーにイスラム法に適った取引や契約を指導し保障してくれること、国家からの不当な搾取や介入に抗し、商人層の利害を守ることを期待した。シャリーア(イスラム聖法)と言えば聞こえはよいが、実際は儒教圏のような人治主義がかなりまかり通っていたのだ。人治主義も臨機応変に対処できる長所がない訳でもないが、恣意的な法の解釈や腐敗を生む原因であり、士大夫のようにウラマーにも曲学阿世の輩が少なくなかった。イランと異なり オスマン朝の聖職者は宮廷の御用学者と化し、帝政廃止以降の皇帝同様、支配層の地位を追われることになる。
西欧へのタバコ利権問題で、イラン国民を覚醒させたペルシア語紙「アフタル」には、1890年3月、興味深い一投書が載っている。水キセル用の刻みタバコの輸出に触れ、イギリスとイランの商品は梱包や輸送法の点で既に差があると嘆いていた。イギリス人の扱うタバコ商品 は2つの袋を頑丈に梱包し粗い黄麻の布で保護していたので、運送中に破損することはなかった。しかも、「婚礼であるかのように商品を飾 り付けて売りさばく」見事さ。一方、イラン人の扱う商品は外見からして、「見るも無残なやり方」で包まれていた。タバコを入れた袋はボロ紐で括られ、黒ずみ使い古された麻袋に包まれていた始末。当然輸送途中、梱包がバラバラになり、タバコがこぼれ落ちてしまう。結局目的地では、イギリス人の扱った商品より安く買い叩かれたのは書くまでもない。これだけでも西欧資本主義における商品の高品質や物品輸送の優位性が知れる。
それにしても、利権を求め相手側の無知に付け入る欧米経済人の抜け目なさは、21世紀においても変わりない。第三世界に訓示を垂れる欧米知識人の傲慢さもまた然り。タバコ・ボイコット運動を、イラン人のナショナリズムが台頭した事件と見る識者が多い。だが、欧米のどの国よりも先駆けてナショナリズムによる近代国民国家を形成、「神と国王と祖国のために死ぬ」との愛国心教育を青少年に施したのがイギリスだった。
■参考:「世界の歴史・第20巻/近代イスラームの挑戦」山内昌之著、中央公論社
「シーア派」桜井啓子著、中公新書
◆関連記事:「英露の覇権争いにより…」「明治の日本人が見たイラン」
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