
十年ほど前、パックツアーで北海道道東を旅行したことがある。阿寒湖、摩周湖などの名所を中心とした早廻りの旅だったが、目玉はやはり博物館網走監獄の見学であり、上記の映像もWikipediaに載ったこの博物館の正門である。展示物も豊富で実に見ごたえのある博物館だった。
この博物館は網走刑務所で実際に使用されていた建物を天都山に移築・修復して設置されたものなので、再現された建築物としても迫力が違う。赤レンガ造りの正門は美しく、そこでおそらくムショとは縁のない善男善女の観光客が写真を撮るのに絶好の場だ。建物内部に入ると、ふんどし一丁のお兄さんのマネキンが目に入る。ガイドの説明で、昭和の脱獄王と謳われた白鳥由栄だと知る。白鳥由栄に関し詳細に書かれたブログもあるが、「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」の信念はすごい。
少し前までは使用されていた建物を修復したためか、博物館内部は何とも異様な臭気が漂っていた。明治23(1890)年の開設当初はまだ刑務所ではなく集治監(しゅうじかん)と呼ばれ、鉄格子ではなく木製の格子が使われていた。この木製獄舎も展示されてあり、格子のかたちが四角ではなく菱形だった。ガイドさんによれば、このかたちにしたのは囚人が内から外が見えないようにするためで、逆に外にいる看守には内部が見える構造になっている。観光客も木の檻に入れるので、面白半分に入って見て、ガイドの説明どおりだったのが分かる。さぞ収監された囚人たちの閉塞感は凄かっただろう。
監獄で使用された様々な道具や当時の様子を再現したマネキン人形も、展示されているだけで重みが伝わってくる。囚人にかけた手錠や足枷、鎖などは見るからに頑丈で、これを身体に付けられるだけで既に拷問のような思いにさせられる。一昔前の囚人のイメージといえば、縞々服に丸い鉄球を足に付けられているものだったが、まさに集治監当時は服装こそ違えど、両足に一つずつ鉄塊を付けられ、囚人たちは容赦ない強制労働をさせられていたのだ。
囚人たちの道路作業を再現した人形も展示されていた。足に鉄球だけでなく、脱走を防ぐため、2人一組になり腰で鎖に繋がれている。広大な北海道の原野を開墾するにも関らず、凶器にもなりうる鎌の使用は認めず、鍬一本だけが与えられた。これで原野を切り開くのは、大変な重労働だったのは書くまでもない。明治24年5月着工の160km以上に及ぶ北見道路の突貫工事では、2百名前後の死者を出している。明治の北海道の道路敷設作業は多数の囚人を使役しており、別名囚人道路と呼ばれる所以となった。
ガイドさんの説明で、初めてこれらの囚人たちの半数以上が所謂政治犯であり、開設当初は網走監獄と言えば連想する凶悪犯の方が少なかったのを知る。現代なら罪にもならぬ人々が収容されていたのが痛ましい。なお、現代の網走刑務所は再犯者の短期処遇を目的としており、重罪犯は旭川刑務所に送られるとか。
NHK大河ドラマ「獅子の時代」で、主人公が政治犯の濡れ衣で北海道の集治監に送られ、編み笠に赤い木綿の着物姿で監獄に収容される場面があった。博物館でも人形でそっくり同じ光景を再現している。21世紀の先進国でも囚人の顔を曝す所もあるから、果たして顔を隠すのと出すのと、どちらが人道的か一概に断定できない。
明治18(1885)年、太政官大書記官だった金子堅太郎は「北海道三県巡視復命書」を提出している。当時北海道は函館、札幌、根室の三県に過ぎず、大規模な北海道開拓を立案した書だったが、金子は囚人たちをより計画的、より広範な土木工事に使役すべきと述べている。
-彼等ハ固(もと)ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其ノ苦役ニ堪ヘズ斃死(へいし)スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨情ト異ナル。斃(たお)レ死シテ其人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニ於テ、万止ムヲ得ザル政策ナリ-
金子の方針は現代からすれば冷酷そのものであり、囚人への人権など顧みられない。しかし、これをもって明治政府及び日本の後進性を指摘するのは間違っている。帝国主義時代の当時、得意の絶頂にあった欧米列強さえも囚人への人道的配慮などなかったし、英国など犯罪者を容赦なく流刑にしていた。囚人に苛酷な労務を課すのは、現代でも一部の国にあるほどで根絶されていない。
元駐日インド大使で、『象は痩せても象である』の著者アフターブ・セット氏は、明治時代もまた変革と大失業時代であり、自殺者は今より凄まじかった、と書かれていた。歴史というのは視点を変えると、まるで違う面が見えてくる。網走監獄は北海道開拓の暗部の典型だが、大抵の人は哀れな敗残者より輝ける成功者の話を好むものなのだ。藩主ごと石狩原野の当別に集団移住、苦闘数年後ついに新農場を築き上げた岩出山伊達支藩の士族は、士族移民として最も早く成功した例である。ガイドさんはこの宮城県からの移民団に触れ、宮城の人はいい土地を中心に入植したと言っていたが、良き土地にしたのは彼らの不屈な意志と努力、さらに運なのだ。
よろしかったら、クリックお願いします
この博物館は網走刑務所で実際に使用されていた建物を天都山に移築・修復して設置されたものなので、再現された建築物としても迫力が違う。赤レンガ造りの正門は美しく、そこでおそらくムショとは縁のない善男善女の観光客が写真を撮るのに絶好の場だ。建物内部に入ると、ふんどし一丁のお兄さんのマネキンが目に入る。ガイドの説明で、昭和の脱獄王と謳われた白鳥由栄だと知る。白鳥由栄に関し詳細に書かれたブログもあるが、「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」の信念はすごい。
少し前までは使用されていた建物を修復したためか、博物館内部は何とも異様な臭気が漂っていた。明治23(1890)年の開設当初はまだ刑務所ではなく集治監(しゅうじかん)と呼ばれ、鉄格子ではなく木製の格子が使われていた。この木製獄舎も展示されてあり、格子のかたちが四角ではなく菱形だった。ガイドさんによれば、このかたちにしたのは囚人が内から外が見えないようにするためで、逆に外にいる看守には内部が見える構造になっている。観光客も木の檻に入れるので、面白半分に入って見て、ガイドの説明どおりだったのが分かる。さぞ収監された囚人たちの閉塞感は凄かっただろう。
監獄で使用された様々な道具や当時の様子を再現したマネキン人形も、展示されているだけで重みが伝わってくる。囚人にかけた手錠や足枷、鎖などは見るからに頑丈で、これを身体に付けられるだけで既に拷問のような思いにさせられる。一昔前の囚人のイメージといえば、縞々服に丸い鉄球を足に付けられているものだったが、まさに集治監当時は服装こそ違えど、両足に一つずつ鉄塊を付けられ、囚人たちは容赦ない強制労働をさせられていたのだ。
囚人たちの道路作業を再現した人形も展示されていた。足に鉄球だけでなく、脱走を防ぐため、2人一組になり腰で鎖に繋がれている。広大な北海道の原野を開墾するにも関らず、凶器にもなりうる鎌の使用は認めず、鍬一本だけが与えられた。これで原野を切り開くのは、大変な重労働だったのは書くまでもない。明治24年5月着工の160km以上に及ぶ北見道路の突貫工事では、2百名前後の死者を出している。明治の北海道の道路敷設作業は多数の囚人を使役しており、別名囚人道路と呼ばれる所以となった。
ガイドさんの説明で、初めてこれらの囚人たちの半数以上が所謂政治犯であり、開設当初は網走監獄と言えば連想する凶悪犯の方が少なかったのを知る。現代なら罪にもならぬ人々が収容されていたのが痛ましい。なお、現代の網走刑務所は再犯者の短期処遇を目的としており、重罪犯は旭川刑務所に送られるとか。
NHK大河ドラマ「獅子の時代」で、主人公が政治犯の濡れ衣で北海道の集治監に送られ、編み笠に赤い木綿の着物姿で監獄に収容される場面があった。博物館でも人形でそっくり同じ光景を再現している。21世紀の先進国でも囚人の顔を曝す所もあるから、果たして顔を隠すのと出すのと、どちらが人道的か一概に断定できない。
明治18(1885)年、太政官大書記官だった金子堅太郎は「北海道三県巡視復命書」を提出している。当時北海道は函館、札幌、根室の三県に過ぎず、大規模な北海道開拓を立案した書だったが、金子は囚人たちをより計画的、より広範な土木工事に使役すべきと述べている。
-彼等ハ固(もと)ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其ノ苦役ニ堪ヘズ斃死(へいし)スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨情ト異ナル。斃(たお)レ死シテ其人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニ於テ、万止ムヲ得ザル政策ナリ-
金子の方針は現代からすれば冷酷そのものであり、囚人への人権など顧みられない。しかし、これをもって明治政府及び日本の後進性を指摘するのは間違っている。帝国主義時代の当時、得意の絶頂にあった欧米列強さえも囚人への人道的配慮などなかったし、英国など犯罪者を容赦なく流刑にしていた。囚人に苛酷な労務を課すのは、現代でも一部の国にあるほどで根絶されていない。
元駐日インド大使で、『象は痩せても象である』の著者アフターブ・セット氏は、明治時代もまた変革と大失業時代であり、自殺者は今より凄まじかった、と書かれていた。歴史というのは視点を変えると、まるで違う面が見えてくる。網走監獄は北海道開拓の暗部の典型だが、大抵の人は哀れな敗残者より輝ける成功者の話を好むものなのだ。藩主ごと石狩原野の当別に集団移住、苦闘数年後ついに新農場を築き上げた岩出山伊達支藩の士族は、士族移民として最も早く成功した例である。ガイドさんはこの宮城県からの移民団に触れ、宮城の人はいい土地を中心に入植したと言っていたが、良き土地にしたのは彼らの不屈な意志と努力、さらに運なのだ。
よろしかったら、クリックお願いします

