扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

文具の魅力 その54 2008.04.21

2008-04-21 23:20:03 | Stationery & Supply
心というのは言葉に出ます........................

口から出す言葉というのは殆どの場合にまず本音が出てしまいます。
実際に不意に起こった「ショッキングな事態」や「ほかの人に起こったアクシデント」に考えていることが口に出てしまう事って多いですよね。
人間に起こる事態というのは往々にして「因果応報」で自分で撒いたモノを刈り取ることになります。
「自分で撒く」というのは聖書の中の言葉なのですがね。
この意味を少し説明しましょうかね。
自分が行なってきた事柄が「種」となって行動し続けることにより育ち成長します。
これは人が植物を育てるのと一緒で育った「実」がその人の受ける「報い」になる訳です。
よって人が自分中心のことを行ない続けるとほかの人から関心を示されなくなるという実を刈り取りますし。
ほかの人の為に行動し続けると、ほかの人から顧みられるようになるという実を刈り取る訳です。

そしてもし自分自身にアクシデントが不意に起こり、その事でほかの人が自分自身に対して発せられる言葉は自分に対しての「本音」だと考えても良いほどでしょう。
注目するべき点としては絶対に「第一声」の言葉に本音が集約されていると言うことです。
第二声以降は言ったことで理性が戻ります。
人は学習しますし、取り繕う為に必死になることも多いでしょう。
人は後の言葉によって取り繕うことによりなだめようとしますよね。
そしてその宥めに言われた人は納得してしまうことが少なくありません。
まあおいらは第二声以降は聴きませんし、関心もありませんのでなんなんですがね。

本音に対しては本音で話すことが重要ですし、おいらは例えどんな言葉でも率直に感じたことを伝えなければならないという強迫観念に囚われることがあります。
でも口で伝えると強烈な言葉になってしまうことが少なくない訳です。
おいらはかなり不器用ですからね。
言いたいことは言っておかなければならないとも思います。
しかし最近はこのようなBlogというモノを通して発散させることも出来ています。
更にメモをこまめに取ることにより気持ちの整理を行なうことも出来るようになってきました。

ボクシングではランニングが非常に重要になります。
なぜここでボクシングが出てきたのかは読んで頂くと解ると思いますのであしからず。
どうしてランニングが重要なのでしょうか?
ボクシングでは単純な殴り合いです。
この殴り合いの衝撃というのはかなりのモノなのは間違いないでしょう。
時に人が死ぬぐらいなのですからね。
ボクシングだけに留まらず、格闘技の目的は

「如何に効率的に人を壊していくか」

という人の破壊衝動の最もエゴイズムに満ちた目的に他なりません。
まあおいらはクリスチャンなのに格闘技が好きな故に「ひねくれクリスチャン」でありクリスチャンの風上には絶対に立てない人間ですからな。
もとより人間というのは闘争本能を有していて様々な「闘い」を行なってきました。
んで格闘技の中でももっともシンプルなボクシングには根源的な人間の衝動を満たす要素が満載なんですな。
足を使うでもなく、人を傷つけるための武器を使うでもなく...........ボクシングのグローブは武器だと言われるかも知れませんが、もしグローブを付けていないならば致死率は飛躍的に上がります。
ボクシングのグローブというのは自身の拳を保護すると共に、対戦相手にたいしての保護が第一の目的なんですな。
えーっと話をランニングに戻そうと思います。
殴られた際にそのショックをまともに受けると人は一発で沈んでしまいます。
よってその衝撃を緩和させる為にランニングをして足腰のバネを強靱にするのです。
対戦相手は「如何に人を効率的に壊せるか」を追求しているスペシャリストなのですからね。
もし突っ立ったままで殴られると倒れてしまいますし、ボクシングではなく実際の戦闘であればレフリーが割ってはいらずに倒れたところにとどめを刺される事になります。
よってランニングで鍛えた強靱な足腰により衝撃を緩和させてダメージを少なくする訳です。

日本人の格闘技感は他の国とは全く違うモノになっていることは間違いないでしょうね。
日本の美学の根底にこの精神が息づいていますし、「残心」というのは日本人にとっては素晴らしい文化だとも感じます。
武道においては生き死にというのは非常に身近なモノであり、生き死にの掛かっている対戦には思い残すことのない為に徹底的に身体を鍛える事がなされてきました。
よって日本人ボクサーがチャンピオンになる下地というのは十分に育まれてきたはずなんですな。
しかし昨今の「スポーツ格闘技」という西欧の中途半端な文化が台頭してきて美しい格闘技像が大きく揺らいでいるのは嘆かわしいことです。
なんだか大きく話がずれましたよね。

話を本論に戻そうと思います。
今回おいらが書きたいことはボクシングでのランニングと一緒で

人に対する見方

も鍛錬するべきだと言うことなんですよ。
人には絶対に諸事情があるわけです。
確かに自己中心的に物事を行なっている人には良い見方は難しいかも知れません。
でも其処に到るまでの人格形成のことも考慮に入れるべきであり、適正に人を判断するべきなんです。
人というのは出たとこ勝負で見たことで判断しようとする所があります。
ところが常に人を見ているかというとそうではなく、「目立った時だけ」を評価の対象にしてしまいがちです。
人を判断することで重要なのは数回だけ同じ事を行なっても他の部分で良いところがあるかもしれませんよね。
まあ往々にして目に付く事というのはその人が示している傾向が顕著に出ていることなのはあながち間違いではありませんけどね。

んで人に対する見方を鍛錬する方法として有効なのが実際に「文字」にして客観性を作り出すことなんですよ。
これはComputerで文字にすることでも効果があるでしょうけどね。
もっとも効果的なのが実際に字を書いてみると言うことだと最近感じるようになりました。
おいらは殆どの場面で手の届く範囲に字を書く道具を使える状態にしておくようにしています。
そして実際に字にしてみると感じたことの衝撃というのは足腰を鍛えて衝撃を緩和させる如く、本来示す反応に対する衝撃吸収効果があり心の「緩衝材」としての効果があるんですな。
おいらは率直に感じていることを手紙に書いて渡すことはしません。
これは自分の中で整理すればいい種のモノで自己完結しておけばいいからです。

確かにメモすることはほかの人の行動を記録するという色が強いのかも知れません。
しかし人の評価というのは一回や二回もしくは数回ではなくて、コンスタントに見続けて感じたことを書いていくべきです。
そして評価をする際には一回やそこらで評価するのではなく「見続けた結果」から割り出して評価するべきです。

おいらの場合は口で発する言葉はかなりきついというのは自分でも認識していますし、多くの場合に内に向けられる言葉であることも少なくありません。
「内に向けられる」というのは「=自分自身に対しての罵り」ということですな。
自責の念も少なからずあり、自己嫌悪もかなりあります。
止めどなく言葉が溢れてきますし、自分のせめるべき点を考え出すときりがないほどです。

自責の念や自己嫌悪が起こると気持ちの余裕が無くなっていきますし、常に自分に憤りを抱いて生活しなければならなくなります。
しかしいざ自分自身の自分を責める点や自己嫌悪を感じていることを書き出してみると、しょーもないことやこんな事で目くじら立てて嫌悪していたのかと笑えるようになるんですよ。

おいらは非常に短気で怒りっぽく、昔は原始的な感情表現というのを良く行なっていました。
しかし文字にすると嫌が応にも冷静にならざるを得ず、衝動的に出はなく理性的にもならざるを得ない状況になる訳です。

ということで今回の「魅力」の要素として感情の衝撃緩和策としての書く道具を書いてみました。
最近はショッキングな事が起こった際に手元にメモする道具がない時でも自身の中で字を書く作業を行なうことによりResponseが遅くなっているようになりました。
でも絶対に手で書く方がより強い客観性を生み出すことが出来るのでそちらをお奨めします。

なんだか回りくどい書き方をしましたが申し訳ありません。
加えておいらは猿並と書けば猿が気の毒なぐらいに短気で怒りっぽいのでメモする作業にまで持って行くことが難しいことも断っておきます。(爆)

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