扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.148 2017.10.30

2017-10-30 16:02:53 | Depression,Melancholy & Thought

状況が良くありません..................


家族が病気で入院しました。
周りの親族がどんどん亡くなっていき、うちにも廻ってきたのかと感じてしまいます。
病気というのは、

・なぜ発病したのか因果関係が理解できないモノ



・生活習慣病からくるモノ

があります。
生活習慣とまでは言い切れないのですが、それに近い所での病気だと思っています。
そう考えると仕方が無いと言い聞かせ、受け入れるしか無い所があるんですよね。
わたしは家族に身体を大事にしていただきたいと思って居ますし、願っています。

ただ、人は各々が意思を持っていて勝手に動きます。

闇雲に
なにも考えずに
条件反射で限界を超えた所で動く

ことを繰り返す人は病気になりやすいのでしょうね。
良く似た人が親族におり、その方ももう既に無くなっているのですが、何を言っても無駄でした。
親族総出で「こうした方が良い、ああした方が良い」と言ったのですが、亡くなるまで自分を正そうとはしませんでした。
これと全く同じことで、しなくても良い苦労を、無駄に、そしてたくさん生み出しては、生み出した仕事分全てを消化することが生き甲斐にしているようなところがあります。

これがね。
家族としてみていると辛い訳ですよ。
一人で抱えるだけならば、まだ良いのでしょうね。
でも一生懸命になんでもやっているので、助けたくなります。
助けたくなると、改善策などを提供します。
こちらも労力を裂いている訳ですから。
以前にこのBlogで書いた「叔父の家の件」と余りにも「金銭的にルーズ」なのが続き、いろいろと策を弄したのですが全く改善されませんでした。
そして


ああ、この人達と一緒に居ると駄目だったんだな


と悟り、諦めるようになりました。
とても順調に物事を行い、適切に物事を行おうと努めても、正しい方向に物事を動かそうとしても無駄でした。
他の人達はもう諦めていて、見守るモードに入っていたり、見もせず放置を決め込んでいました。
「一人が原因でしょ」を言われる方が居るかも知れませんが、それを正そうとせず放置し、被害を与え続ける事が平気な人は同罪なのですよ。
何が原因かと言われると、わたしの親族には何事に対してもルーズな人間ばかりで、わたしはそうなりたくないと願って生きてきました。
いろいろと考えると精神的な暴力だな〜とわかりますね。
家族というのは興味深いですね。
そのような嫌悪すべきことに染めていくのですから。
自分自身がそうなりたくなくとも、そうなっていくんだな〜と自分を嫌悪しながら見ています。
案外、生きているだけでじゅうぶん頑張ってるんだな〜........

もう、楽になりたいな〜と良く考えます。

今回の病気にしても、いろいろと思う所があります。
わたしは「死」についてずっと考えて生きてきました。
ただ実際に自分が手術に直面すると恐怖で心細くなり苦しくなるのでしょうね。

最近、心が壊れてきていて感情が正しく作用しません。

何が悲しいか
何が辛いのか
何が苦しいのか
何がしんどいのか

こういうことを無理にでも嬉しいこと、楽しいことに変換するようになってしまった弊害なのかも知れません。
深く考えるとこれらの感情が深くなり、闇に心を持って行かれそうになるのでなにも考えないようになりました。
理由はこちらがどれだけこれらの感情を抱いて、他の人のことを考えて言葉で伝えても全く響かないんですよね。
それで線引きをするようになりました。

ここまで言って、これを言った後は相手がどのように行動しようともなにも考えまい。

というふうにです。
そして考えそうになるとこう言います。

「どうでも良い」
「もういいや or まあいいや」
「しゃーない(仕方が無い)」

とね。
最善を尽くしてきたのですから、良い方向に行かないのであればわたしにとってはどうでも良いことにしてしまいました。
昔ならこうはいきませんでした。
一生懸命に他の人のことを考え続け、命を掛けて他の人の為を思って言葉を苦しみながら生み出しつつ伝え、そして何かしら出来ないかと探ったモノでした。
ただ、優しい一辺倒では重要な場面では人は全く動きませんでした。
クリスチャンであってもそうで無くとも、「優しい」と言うことは良いことだとは言われています。
しかしクリスチャンであってもそうで無くとも、「優しい」ということは「弱さ」としか見られません。
でた結論としては、優しい人の意見ほど軽んじられるのでしょうね。

そして自信満々に言っている人の意見が、「たとえ間違っていたとしても」採用されるのです。

自信が無いという事自体が悪いことだともされていますよね。
相手を軽んじることが出来るのがどれだけえらいんですか?
そんなことはだれでも出来ることではありませんか。
逆に相手を尊重し、相手の意見を受け入れることが出来る人はどれだけ居ますか?
純粋に受け入れられる人はほぼ居ません。
ただ、受け入れることが出来る人が居るだけです。
受け入れたことを実行できる人が真に強い人だと思うのです。
それが正しいやり方であればね。
現実的にできることと出来ないことは分けて考えねばなりません。

わたしはね。
独善的な人間が嫌いなのですよ。
特にわたしのような人間が大嫌いです。
「わたしは良い事を言っていますよ」と自分の発言に酔っている人も嫌いです。
このような人は信頼できません。
わたしは自分の言葉に酔うタイプの人間ではありません。
血統書付きの劣等感の塊ですからね。
自分の言葉に酔うなんて、なんて自尊心......もう酔うとなったらそれは「誇り」ですよね。
クリスチャンの場合にたちが悪いのは、「神の言葉」を用いて自分の独善性を正当化し、自分が正しいという考えを全く変えない所です。
後に間違っていると言うことが証明されても、自分からは間違っていたことを認めませんし、指摘されて渋々認めるぐらいです。
というより、そもそも言ったことを覚えていませんよね。
人間なんて自分の関心事や価値観が最も重要なのですから、覚えているはずもありません。
それほど責任を感じても居ないのでしょうしね。
なんて聖書的なのでしょうね。

そういえばこの頃は、家族から諦めるのが早すぎだと指摘されるようになってしまったぐらいです。

自分だけの為に何かするぐらいなら、他の人を煩わせるまでもない

という切り替えが早すぎるというのです。
他に外食をする際に何をたべるかとか、どこに行くかとなった際に

たまには自分の意見もいえば良いのに

とも言われます。
わたしが楽しいと思っても相手が面白いと思うか考えると楽しくないと思ってしまいます。
これは価値観の違いなのかも知れませんが、関心のあることが根本的に違うのですから、合わせられる方が合わせるのが良いのですよ。
わたしはずっと合わせてきましたし、他の人達はそれを当然だと思って来ました。
その関係性を急に変えろと言われても、難しいでしょう。
幸いなことに、わたしは楽しいことや意味のあるモノに変換するのが上手な方ですし、そのように振る舞うのも多少は出来ます。

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2017/10/29は集まりがありました。
従順に関しての講話が行われましたが、興味深い事に従うことに関しての実際的なメリットよりも、ほとんどの部分が「命令に従うことがなによりも重要」であることにしか焦点が合っていませんでした。
「とにかく盲目的に従えば良い」というメッセージ性が強かったように思います。
「物事の行い方が論理的でなくとも、適切に物事が行われなくとも、間違っていても、とにかく従うべきだ」とも言い切られていました。
受け入れる努力をすべきなのでしょうね。

人間というのは

自分にとってそのことがどれほど現実的に益となるのか
自分が当てはめた際に得られる効果
自分が適応した際の湧き出てくる喜び

など実際的に感情を揺り動かされる部分や実際に起こりえる事象のことを語られる方が当てはめやすいモノなんですけどね。
講話というのは学んで得られる情報よりも、実際的な部分にスポットを当てて話を進めた方が良いんだな〜と聴き終えて思いました。
「間違っていても」従うことで神が喜んでくださっても、いずれは限界が来ます。
人間は矛盾を嫌うでしょうし、正義感が強い人は耐えられないでしょう。
だからこそ耐えられる喜びを得る方法が教えられる必要があるでしょうね。

なんだかまとまっているような居ないような記事になってしまったな。
まあいいや。


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