2020年7月28日
中々梅雨開けしないですね。関東地方は8月まで持ち越すとか。
気温は高く蒸し蒸しするのでショリョウバッタの1cmに満たないのや
コガネムシの小さいのとかテントウムシやら小さい昆虫たちが繁殖して
草々を食い荒らしてます。大葉、茄子、グラジオラス、ダリア、百日草。
長雨で作物がやられて野菜が高騰してるのもよくわかりますね~。
春に種蒔きして花をつけた百日草(ジニア)。
今時のジニアは矮性種が売られていて丈が伸びないので
手入れがしやすくなっている。
↑上のは矮性種ではないので伸びすぎるとちょっと厄介かもしれない。
花の名前の由来、 百日は花を咲かせるというのでつけられたそうです。
幼い時に親しんだ花は傍にあるとなんか嬉しい。
ダリアやグラジオラスもそうですね(^^)/・・・。(ダリア)
↑この花をご存知ですか? ニカンドウ(青花ほうずき)
このブログに移る前の2010年「無名会11月」ブログ
(2010年11月29日発行)にも載せています。
実は去年秋に友人の庭でこの花の種が出来ているのを発見!
是非にと,もらってきて百日草と一緒に種蒔きをしました。
同じ時期に咲くんですね~。
でも、ちょうど10年前に目黒の町通りで見て撮ったのですが
(無名会の写真がそうです)うちの花は小ぶりのような気がする。
ハイブリッドから外れて原種に戻ってるのかな?
栄養はたっぷり(バラの肥料を隣で横取りしてるらしい)あるので
幹は草ではなくてまるで木のようです。でも花が小さい!。
予想外の展開でちょっとがっかり・・・。
達磨檜扇
檜扇(ヒオウギ)とはアヤメ科のはっぱが扇のように
横に広がってるので、つけられたようです。
花色も何やら王朝めいてますね。
2020年7月19日
梅雨はあともう少しで終わるのでしょうか、ジメジメした気候とコロナウィルスの感染拡大のニュースを聞くたびに心がめいってしまいますね。
(藪甘草)
「悲しくなった時は海を見に行く」
このフレーズは寺山修司の詩の一節です。
>悲しくなった時は海を見に行く
>古本屋の帰りも海を見に行く あなたが病気なら海を見に行く
>こころ貧しい朝も海を見にいく
> あぁ海よ 大きな肩と広い胸よ お前はもっと悲しい
>お前の悲しみに私の生活(くらし)は洗われる
>どんなつらい朝も どんなむごい夜も いつかは終わる
>人生はいつか終わるが 海だけは終わらないのだ・・・以下
もう少し続きはありますが省略します。
この詩を私は好きなのですがこの詩を読むと必ず思い出されるシーンが
あります。腹違いの姉が、うす闇が迫る夕方、
太平洋の海に向かう砂浜に座ってズーと海をを眺めているのです。
どす黒い大きなうねりをもってどどっーと打ち寄せて来る波。
ざわざわ、しわしわと引いていく波。
人はいなく広い広い大きな浜辺でした。
彼女は決して海を見ているわけではない。何か思っているのです。
姉は事情があって生まれてすぐ父の叔母の(子供のいない)
子供として育ってました。
あの時どうして海に行ったのかは今では覚えてないのですが、
その海を見ている時、彼女の苦しみ、悲しみが伝わってきたように思う。
私と妹弟は母と父と一緒に住んでいたのです。
彼女は他所で、もらわれ子として育っているのです。
彼女は高校生、私は中学生でした。
この詩を読むと必ず思い出されるシーンなのです。
今度9月に行われるコンサートにむけてこの歌を歌おうと思います。
これは中田喜直が作曲して歌曲になっています。
高音で作られてるのですが私は詩の内容からメゾか
むしろアルトの歌で作られたらもっと説得ある曲になると思うのですが、
高い音とりです。朗読に向いた詩なのかもしれない。
私の歌の好みといえば、アルトの落ち着いた柔らかくてのびやかで
説得力のある歌。ところが私の声帯はコロラトゥラ向きだそうで
コロコロとした明るい高い声なのだそうです。
しっとりとした落ち着いた歌にはむいてないそうで・・・。
先生に歌ってみたい好みの歌を持っていくとこの歌はメゾの曲で
あなたにむいてませんていわれる・・。無理にお願いして一度
ヘンデルの「Ah,mio cor」を歌わせてもらいましたが・・・。
この「悲しくなった・・」は色々な方が歌っておられますが
日本人が歌ってるのに、外国人?と思わせる舌の運び、
鼻に抜ける発声の仕方に日本語ではない違和感を感じる
歌い手がいるとおもいます。
伊藤京子さんの歌い方が日本語の言葉の自然さと奥行きを感じられ、
いいと思いました。
ここまでは勝手な批評家の私。実際私が歌うのは超難しい難行です!!。
他にモーツアルトの羊飼いの王様から「アミンタのアリア」と
プッチーニの「私のお父さん」の3曲を歌うことになっています。
(ダリア)
(去年の球根をこの春に土に埋めたら雨にも負けず茂ってくれました。)
ところがここにきてコロナウィルスの感染蔓延で、
発声をしていいのか戸惑う私です。
特にマイクを使わない発声で腹の底から出す大量の呼気を
身体から出す練習です。
グループでレッスンを受けるのですが、
果たしてそんなことしていいのかしらと悩んでいます。
教室は大きいホールを借りて窓を開けて練習しているのですが・・・。
先週は怖くて欠席しました・・・。
お仲間さんはやる気でおられるけど、
やってみたい気はあるけど私は辞退しようかな・・・。
(カサブランカが毎年忘れずに芳香を放ち咲いてくれます。)
20120年7月8日
先日歯医者さんに行った。
待合室に手塚治虫の火の鳥シリーズの全巻が揃えられてました。
懐かしくて手にとってみる。学生時代だったか結婚後だったか
COMコミックから出ていた鳳凰編と乱世編を買って読んだ気がする。
まだ本棚のどっかにあると思う。当時はすごいマンガだと思ったが子育てと日常の生活で紛れてしまっていた。今回久しぶりに手を取って読んでみた。
(歯医者さんの本棚)
思えば手塚治虫のマンガとの出会いは小学校3,4年生だったか
叔父からもらったドストフェスキーの「罪と罰」。
手塚治虫が原作を漫画化したものであった。
幼くてその時はむつかしいマンガだと思った。
ラスコーリニコフと判事(?)の会話の絵がまだ脳裏に
焼き付いている。
次の出会いは月刊誌、少女クラブ連載のリボンの騎士。
わが家では小学館の「小学何年生」という雑誌しか
買ってくれなくて友達から借りて読んだ。
その順番を待つのに苦労した記憶がある。
夢中になって読んだ。
その後は隣の男の子の買っていた雑誌・少年で
鉄腕アトム。隣家の縁側で熱心に読んだ。
隣家には迷惑だったかも・・・。
当時はいろいろな漫画家・横山光輝、馬場のぼるとかがいて楽しかった。
後は思春期が始まり子供漫画はもう見るものではないと
決めたのかマンガの記憶があまりない。
後年大学時代に手塚治虫の講演会があって聴きに行って
後の質問コーナーで私は質問したのであった。
罪と罰のマンガについてあのような漫画はもう描かれないのかと
質問した時に「実はあの頃は他にもゲーテのファウストも書いたんですよ」とちゃんと答えてくれた。
今はほかのことに考えがいってるので、もうそういうことはないと言われたような気がする。
幼いときの雲の上の漫画家と思った人と話ができたというだけで
満足した記憶がある。
結婚、子育て、でマンガを見る暇はなかったがTVマンガが
隆盛してきて家事の合間に時折、メルモちゃん、三つ目が通る
、ブラックジャックなどを見た気がする。
相変わらず魅力的な作家だなぁと思っていた。
作風は思索的で哲学的、諧謔性、情緒性があり、ロマンチシズムがあふれている。描画の線が稚拙でなく洗練されている。
文明の向かうところの懐疑がよく出てると思う。
医学者であるので、科学の造詣も深い。
彼自身は俗世間に揉まれながら、悪と思うものを心の中では
許してないというのが見て取れる。
天才が生きるのは容易ではない!夭逝だと思う!。
今回手に取ったのは
復活編。ロボットと人間のありようであった。
ロボットの方がかえって人間くさい行動をとる。
ロボットは人間の理想(悪を働かない)を具現しようと作られたからだが・・・。ここでも手塚の主張が面白かった。
時を同じくしてTVで韓流ドラマの「君はロボット」を見ていた。このドラマは手塚治虫のロボット観を下敷きにして作られていると感じた。韓流ドラマは役者がうまいのと荒唐無稽でも引き込む作法をこころえている。
気になっているマンガでブッダというマンガがある。
まだ見てないので言ってはいけないのだが
手塚の世界観はブッダに近いものがあるような気がする。
「悉有仏性」とか・・・。
手塚は文明について近代的な解釈があるので
今風で付いていきやすく思う。
手塚が仏教についてどんな解釈をしているか
興味があるので見てみたい。
それにしても手塚治虫は天才だと思う。