つい先週 オホーツク海側一帯を襲った猛吹雪
8名の方がお亡くなりになってしまいました
この死亡事故は果たして天災なのでしょうか? それとも人災でしょうか?
あの事故から1週間程になりますが人災を疑ったメディアは一件も目に入りません
何故 このように思うのか? には自らも経験しているから・・・
かれこれ15年程前になりますが私と娘、そして友人の3人で羅臼へ行きました
羅臼で一泊して帰る予定の翌日の事でした
天気予報も気にしない程の良い天気でしたが 午後から少しづつ空模様が悪化し始め
早めに帰ろうと午後2:00頃 帰路に付いたのですが羅臼からの出口は一本道です
その道が吹雪により通行止めとなって北海道開発建設部(通称=開発)の車が道を塞いでおりました
私の車は先頭から15台目位だったと思います
次の日が月曜日と言う事もあって どうしても帰りたかった為 何時通る事が出来るか
も全く見当も付かないまま 待つ事4時間余り 私の車の後ろに何台の車が繋がって
いるのかも全く解りません
しかし 開発が動いたのです
この集団だけを通します・・・と一台一台に連絡をして歩いていましたが、その時は
既に猛吹雪の序章は始まっていて、かなりの吹雪状態になっていたのです
先頭に除雪車が行き、次に開発車両、そして我々の一般車両と列を成して羅臼を出たのですが、始め内はゆっくりと歩くような速さ、徐々に休み休みに進むようになり
そして、ついに進まなくなったのです
その時のフロントガラスはビッシリと霜が付き全く外が見えない状態です
手の温もりで霜を解かすが卵一個程度を確保するのがやっと
車外に出る事など、とてもじゃないが無理
小便も出来ない(ビニール袋にしたが)この時 既にヤバイかもと感じておりました
動かなくなって数時間が経ち 夜の10時頃
開発の人が来て このように言いました
「向こう側の町からバスを一台羅臼へ向けて通しますので、車はここに置いてバスで避難するように」この言葉を聞いて“もしかすると助かった”と思いました
先頭をロータリー除雪車、次に大型の除雪車、そして大型バス、最後を開発車両で
満杯の人達を乗せて羅臼へ戻ったのは夜中の12時頃です
この吹雪は翌日も続いて、外を見ても全く何も見えませんでしたが我々は助かったのです。そして天候も収まり車を取りに行きました。 途中今回の吹雪同様に殆ど埋まった
状態の車両が何台もありました
犠牲者が出なかった事が不思議な位だったのです
当時は未だ携帯電話も普及しておらず無線でも積んでいなければ連絡を取る術すら無い
時代です
開発の機転が私達を始め多くの命を救ってくれたと感謝しておりました
なのに今回の惨事はどうして起きてしまったのでしょうか?
携帯を持ってない人はいない筈、外部との連絡は自由に取れた筈なのに
助けを呼ぶ事は誰でもが出来たし、救助を要請していたと思うのに
救助隊が動いたのは翌日の吹雪が収まってから・・・開発と警察の体たらくが今回の
惨劇を招いたと私は思っています。
つまり人災であったと・・・道路を所轄する行政の責任は重い
今回の現場は比較的平坦な道が多く救助活動がそれ程難しかったとも思えない
私達が鎖された所は 小高い山々を削るように作られた道路で、帰りに見ると
最も高いような所では4m程もあったのです
北海道ではこのような猛吹雪は当たり前のように起きます
このような事態に対応する体制も当然あって然るべきだし、無くては成らない危機対応
ではありませんか?
8名の方がお亡くなりになってしまいました
この死亡事故は果たして天災なのでしょうか? それとも人災でしょうか?
あの事故から1週間程になりますが人災を疑ったメディアは一件も目に入りません
何故 このように思うのか? には自らも経験しているから・・・
かれこれ15年程前になりますが私と娘、そして友人の3人で羅臼へ行きました
羅臼で一泊して帰る予定の翌日の事でした
天気予報も気にしない程の良い天気でしたが 午後から少しづつ空模様が悪化し始め
早めに帰ろうと午後2:00頃 帰路に付いたのですが羅臼からの出口は一本道です
その道が吹雪により通行止めとなって北海道開発建設部(通称=開発)の車が道を塞いでおりました
私の車は先頭から15台目位だったと思います
次の日が月曜日と言う事もあって どうしても帰りたかった為 何時通る事が出来るか
も全く見当も付かないまま 待つ事4時間余り 私の車の後ろに何台の車が繋がって
いるのかも全く解りません
しかし 開発が動いたのです
この集団だけを通します・・・と一台一台に連絡をして歩いていましたが、その時は
既に猛吹雪の序章は始まっていて、かなりの吹雪状態になっていたのです
先頭に除雪車が行き、次に開発車両、そして我々の一般車両と列を成して羅臼を出たのですが、始め内はゆっくりと歩くような速さ、徐々に休み休みに進むようになり
そして、ついに進まなくなったのです
その時のフロントガラスはビッシリと霜が付き全く外が見えない状態です
手の温もりで霜を解かすが卵一個程度を確保するのがやっと
車外に出る事など、とてもじゃないが無理
小便も出来ない(ビニール袋にしたが)この時 既にヤバイかもと感じておりました
動かなくなって数時間が経ち 夜の10時頃
開発の人が来て このように言いました
「向こう側の町からバスを一台羅臼へ向けて通しますので、車はここに置いてバスで避難するように」この言葉を聞いて“もしかすると助かった”と思いました
先頭をロータリー除雪車、次に大型の除雪車、そして大型バス、最後を開発車両で
満杯の人達を乗せて羅臼へ戻ったのは夜中の12時頃です
この吹雪は翌日も続いて、外を見ても全く何も見えませんでしたが我々は助かったのです。そして天候も収まり車を取りに行きました。 途中今回の吹雪同様に殆ど埋まった
状態の車両が何台もありました
犠牲者が出なかった事が不思議な位だったのです
当時は未だ携帯電話も普及しておらず無線でも積んでいなければ連絡を取る術すら無い
時代です
開発の機転が私達を始め多くの命を救ってくれたと感謝しておりました
なのに今回の惨事はどうして起きてしまったのでしょうか?
携帯を持ってない人はいない筈、外部との連絡は自由に取れた筈なのに
助けを呼ぶ事は誰でもが出来たし、救助を要請していたと思うのに
救助隊が動いたのは翌日の吹雪が収まってから・・・開発と警察の体たらくが今回の
惨劇を招いたと私は思っています。
つまり人災であったと・・・道路を所轄する行政の責任は重い
今回の現場は比較的平坦な道が多く救助活動がそれ程難しかったとも思えない
私達が鎖された所は 小高い山々を削るように作られた道路で、帰りに見ると
最も高いような所では4m程もあったのです
北海道ではこのような猛吹雪は当たり前のように起きます
このような事態に対応する体制も当然あって然るべきだし、無くては成らない危機対応
ではありませんか?