次第に磨り減っていくような不安に見舞われて、探し物を探すように、避難するみたいに、古本屋を訪れた。
何度も読んだ本書が、本棚に無いことに先日気がついた。誰かに貸すかして、忘れていたのかもしれない。と、この作品をこうして買うのは、三度目であることに思い至る。15歳、部屋を引き払うときに手離して再度、25歳くらい、そして今度は35歳。感慨深いものがある。二十年来の付き合いになる。
最初に『エズミに捧ぐーー愛と汚辱のうちに』を読んだ。いまでもエズミが言った“汚辱”の意味するところはわからない。もしやそれは『バナナフィッシュにうってつけの日』でシーモアが言った“バナナ熱”と同義なのだろうか。
『小舟のほとりで』、『笑い男』、『エズミに捧ぐ』及び『バナナフィッシュにうってつけの日』は、サリンジャーの体験と無関係ではない作品たちだろうと思う。とすると、“汚辱”というのは通底したテーマであることには気づく。それは戦争によるものであり、また暴虐下劣な現実によるものでもある。ホールデンは逃走し、隠遁を夢見るが、シーモアはピストル自殺してしまった。こうしてシーモアは回想される人、いわば伝説となってしまい、以後のグラース家の物語へと継承される。
さて、今回は以下の三作が、従来とは違う意味で印象深かった。
『コネティカットのひょこひょこおじさん』
『笑い男』
『小舟のほとりで』
共通するのは、大人の言動によって傷ついていく小さな子どもたち、という構図である。以前は大して気にならなかった側面だが、やはり子を持つようになって、視座が少し変わったのだろう。
大人の身勝手さというか、思慮のなさ。それに翻弄される傷つきやすさを、私はいつしか忘れていた。という印象から、サリンジャーの観察眼や機微を描く緻密さに再度感心させられた今回である。
しかし英語を読めない私は、所詮は野崎孝氏が再構築したサリンジャーをしか読めないわけで、そんな残念感を新たにした。特に、都会的な若者の口語英語が特色といわれるサリンジャーの作品を前に、言葉の壁は厚いなと思わざるを得ないわけだ。
