安政7年3月3日、桜田門外で水戸浪士と薩摩藩士による襲撃(薩摩藩は結果的に一人)により、幕府大老井伊直弼が惨殺された。首を切り取られたが、取り戻されている。
井伊直弼は13代将軍家定の継嗣をめぐって一橋派と対立。南紀派(紀伊徳川家・・8代吉宗が有名)に推挙されて大老に就任し、強権をもって一橋派を左遷処罰しました。また日米修好通商条約を勅許を得ないまま調印締結。この強権政治に反発した反幕的な公卿や志士たちに弾圧を加えました。
13代将軍家定が病弱であり、その補佐をするためと、実子がなく早々に後継者を決める必要があったのです。最有力候補は二人。水戸徳川斉昭の七男で、御三卿一橋家に養子に入った慶喜と紀州藩主の徳川慶福(よしとみ、後に家茂と改名)です。結局家茂が、継ぐことになるのですが。
一橋派・・・一橋慶喜(18歳)を推すグループ。水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら雄藩大名。岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、大久保忠寛ら開明派官僚。「難局に指導性を発揮できる英明さ」を主張する。現代の企業に例えると「会社が危ない時に8歳の子供を次期社長にしてどうするんだ!」と主張するようなものです。
南紀派・・・紀州藩主徳川慶福(8歳)を推すグループ。水戸斉昭を嫌う大奥、松平忠固(まつだいら・ただかた、老中)、水野忠央(みずの・ただなか、紀州家付家老)、平岡道弘(御側御用取次)ら保守派。「血筋の近さを尊重する」「年齢や英明さを基準に選ぶのは誤りである」とする。
安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任し、その強権をもって「将軍継嗣問題」「条約調印問題」の懸案事項を強引に解決することになります。6月19日、日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印。6月25日、徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表しました。
この強引な決定が大老井伊直弼に対する攻撃材料にされますが、それは誤りだと思います。日米修好通商条約に勅許(天皇の許可)を得ないで調印したことを責めるのは、まったく論外です。もともと*外交権は完全に幕府が持っていて、天皇や朝廷が口出しすることではありません。鎖国は幕府の政策であり、開国するのも幕府の自由で、条約の調印に勅許など必要ないのです。朝廷という意識は、水戸藩ではありましたが、幕府にはありませんでした。
井伊大老が就任以前の老中阿部正弘・堀田正睦が、開国通商に反対する者たちを押さえ込むために天皇の許可を得ようとした(天皇に責任を負わせようとした?)ことが間違いだったと思います。目算が狂って勅許を得ることができず、政治に発言権がなかった朝廷を政治の舞台に引っ張り出してしまったのですから。雄藩にも「朝廷」があるという意識をさせてしまったのです。
諸外国との外交権は幕府が持ち、和蘭(オランダ)風説書を通しての海外情報を独占しています。朝廷が口をはさむことはしませんでしたし、出せませんでした。
将軍継嗣を強引に幼い徳川慶福に決めたのも、血統という常識面からは当然ですし、結果的にも影響があったとは思えません。一橋慶喜は慶福より年長というだけで、英明だったかは疑問ですし、慶喜が将軍になったら、攘夷論者である水戸斉昭が将軍の実父として幕政に関与するでしょう。ただ、難局にあたって、指導力のある将軍の下に雄藩大名と優秀な実務官僚を配して、強固な体制にしようとした開明派たちの幕府改革の機会は潰えてしまいました。
攘夷論者である水戸斉昭・・・攘夷論者ですが、本心では攘夷が無謀なことは理解していたそうです。
井伊直弼に罪は、反対派に対して弾圧をおこなったことだと思います。藩主の父親を永蟄居にされたということで水戸藩士が憤るわけですが、幕府大老を襲ったということになれば蟄居どころではありませんので、脱藩し浪士となって襲撃するわけですが、薩摩藩の挙兵は抑えられていましたので、駆けつけられたのは一人でした。
黒船来航、砲台台場建設、開国、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、彰義隊、戊辰戦争、会津藩、越後藩、五稜郭。新撰組、海援隊。この時代の面白さは、民衆が立ち上がったのではなく、武士が武士の政権を倒し、新しい近代国家を作ろうとしたことでした。しかし、国内がまだ安定していないときに目を外に向け、アジアを足がかりに一等国へ上り詰めようとした日本の近代化の始まりがここから始まりました。
井伊直弼は13代将軍家定の継嗣をめぐって一橋派と対立。南紀派(紀伊徳川家・・8代吉宗が有名)に推挙されて大老に就任し、強権をもって一橋派を左遷処罰しました。また日米修好通商条約を勅許を得ないまま調印締結。この強権政治に反発した反幕的な公卿や志士たちに弾圧を加えました。
13代将軍家定が病弱であり、その補佐をするためと、実子がなく早々に後継者を決める必要があったのです。最有力候補は二人。水戸徳川斉昭の七男で、御三卿一橋家に養子に入った慶喜と紀州藩主の徳川慶福(よしとみ、後に家茂と改名)です。結局家茂が、継ぐことになるのですが。
一橋派・・・一橋慶喜(18歳)を推すグループ。水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら雄藩大名。岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、大久保忠寛ら開明派官僚。「難局に指導性を発揮できる英明さ」を主張する。現代の企業に例えると「会社が危ない時に8歳の子供を次期社長にしてどうするんだ!」と主張するようなものです。
南紀派・・・紀州藩主徳川慶福(8歳)を推すグループ。水戸斉昭を嫌う大奥、松平忠固(まつだいら・ただかた、老中)、水野忠央(みずの・ただなか、紀州家付家老)、平岡道弘(御側御用取次)ら保守派。「血筋の近さを尊重する」「年齢や英明さを基準に選ぶのは誤りである」とする。
安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任し、その強権をもって「将軍継嗣問題」「条約調印問題」の懸案事項を強引に解決することになります。6月19日、日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印。6月25日、徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表しました。
この強引な決定が大老井伊直弼に対する攻撃材料にされますが、それは誤りだと思います。日米修好通商条約に勅許(天皇の許可)を得ないで調印したことを責めるのは、まったく論外です。もともと*外交権は完全に幕府が持っていて、天皇や朝廷が口出しすることではありません。鎖国は幕府の政策であり、開国するのも幕府の自由で、条約の調印に勅許など必要ないのです。朝廷という意識は、水戸藩ではありましたが、幕府にはありませんでした。
井伊大老が就任以前の老中阿部正弘・堀田正睦が、開国通商に反対する者たちを押さえ込むために天皇の許可を得ようとした(天皇に責任を負わせようとした?)ことが間違いだったと思います。目算が狂って勅許を得ることができず、政治に発言権がなかった朝廷を政治の舞台に引っ張り出してしまったのですから。雄藩にも「朝廷」があるという意識をさせてしまったのです。
諸外国との外交権は幕府が持ち、和蘭(オランダ)風説書を通しての海外情報を独占しています。朝廷が口をはさむことはしませんでしたし、出せませんでした。
将軍継嗣を強引に幼い徳川慶福に決めたのも、血統という常識面からは当然ですし、結果的にも影響があったとは思えません。一橋慶喜は慶福より年長というだけで、英明だったかは疑問ですし、慶喜が将軍になったら、攘夷論者である水戸斉昭が将軍の実父として幕政に関与するでしょう。ただ、難局にあたって、指導力のある将軍の下に雄藩大名と優秀な実務官僚を配して、強固な体制にしようとした開明派たちの幕府改革の機会は潰えてしまいました。
攘夷論者である水戸斉昭・・・攘夷論者ですが、本心では攘夷が無謀なことは理解していたそうです。
井伊直弼に罪は、反対派に対して弾圧をおこなったことだと思います。藩主の父親を永蟄居にされたということで水戸藩士が憤るわけですが、幕府大老を襲ったということになれば蟄居どころではありませんので、脱藩し浪士となって襲撃するわけですが、薩摩藩の挙兵は抑えられていましたので、駆けつけられたのは一人でした。
黒船来航、砲台台場建設、開国、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、彰義隊、戊辰戦争、会津藩、越後藩、五稜郭。新撰組、海援隊。この時代の面白さは、民衆が立ち上がったのではなく、武士が武士の政権を倒し、新しい近代国家を作ろうとしたことでした。しかし、国内がまだ安定していないときに目を外に向け、アジアを足がかりに一等国へ上り詰めようとした日本の近代化の始まりがここから始まりました。
こんなレベル、誰でも知ってる。