ノリ店長の気まぐれ日記

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原爆の日・・・

2015-08-06 08:28:16 | 平和

今日は70回目『原爆の日』

2005年3月に広島帰郷にて・・・

Dome_1  

爆心地からの距離160m 
広島県物産陳列館は広島県物産品の販売促進を図る拠点として
1915(大正4)年に建設されたもので、チェコ出身の建築学者ヤン・レツルの
設計による大胆なヨーロッパ風の建物として評判を呼びました。

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、
中にいた人は全員死亡したと伝えられています。爆風がほとんど真上から働い
たため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
そして、その形からいつしか「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。

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禎子さんの折り鶴・2歳のときに被爆し、10年後原爆後遺症害による白血病と診断され、
赤十字病院に入院しました。病気の痛みに耐えながら、健康の回復を祈って鶴を折り
続けましたが、願いもかなわぬまま8ヶ月の闘病生活の後、短い生涯を終えました。

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金属製品を回収するポスター  缶詰用の金属不足で代用品として、陶製の缶詰です蓋を開ける時は上の小さい穴を空けて開封

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1945年8月6日午前8時15分、世界で始めて原爆が広島に投下されました。
核兵器という大量破壊兵器を手にしたことで、この時から世界は核時代に入りました。

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なぜ広島に投下したか?アメリカは、投下目標を原爆の効果を正確に測定できるよう、
直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の市街地を持つ都市の中から投下目標を選び
その都市への空襲を禁止しました。そして、広島、小倉、新潟、長崎いずれかへの投下
命令を下しました。その後広島を第1目標としたのは、目標都市の中で唯一、連合国軍
の捕虜収容所がないと思っていたためです。

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一瞬にして街のほとんどが壊滅し、多くの尊い生命が奪われました。
そのなかには、建物疎開作業に動員された中学生や女学生など、
作業現場に遺品を残しただけで、
遺体はおろか遺骨さえ肉親の元に戻らなかった人たちも多かったです。

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なぜ開発したか?第二次世界大戦が始まった1939(昭和14)年、
アメリカは原爆の研究に乗り出しました。
1942年8月には「マンハッタン計画」と名付けられた原爆製造計画に着手し、
1945年7月16日、原爆実験に成功しました。

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なぜ日本に投下する事をきめたか?
日本の戦況が圧倒的に不利な中アメリカは戦争終結手段として、
日本本土上陸作戦、ソ連への対日参戦の要望、天皇制存続の保証、
原爆の使用という選択肢がありました。そうした状況の下、
原爆投下により戦争を終結することができれば、
戦後ソ連の影響力が広がるのを避けられ、
また膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できるとも考えました。

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広島駅前でクツ磨きをする原爆孤児(1948年) 
手前が家庭用パン焼機(私が子供の頃、実家にありました)

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当時の玩具・野球の入場券etc. 各国で核実験されてる

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核の地球儀   焼け焦げた衣類

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2003年から2004年に広島市の寄付された資料です

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原爆閃光除け頭巾(真ん中の白い頭巾)  黒い雨を飲む人々

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きのこ雲  原爆投下直後の貴重な写真です

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原子爆弾は市街地の上空約580mで目もくらむ閃光を放ってさく裂し、
爆心地から2kmにおよぶ市街地の建物が跡形も無く壊され焼き尽くされ、
爆風や熱線などによって多くの人々が亡くなりました。
かろうじて生き残った人々も、
焼け焦げで血みどろになったボロボロの衣服をわずかに身にまとい、
瓦れきのまちを逃げまどったのです。

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海中時計:二川謙吾さん(当時59歳)は、
市の中心部へ建物疎開作業に向かう途中、被爆しました。右肩から背中、
頭部に大火傷を負い、8月22日に死亡しました。
この懐中時計は息子から贈られたもので、肌身離さず持ち歩いたいました。

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赤い玉が原爆爆破場所       焼け焦げた女学生の制服

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女学校1年生下駄,下駄には左足の足跡が残っています.
中学1年生の弁当箱,食べることの出来なかったお弁当は真っ黒に焦げていました

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三輪車と鉄かぶと

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動員学徒の学生服  広島に投下された原子爆弾「LITTLE BOY」

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爆心地から260m周りの石段の表面が熱線によって白っぽく変化しましたが
人が腰掛けていた部分だけが黒い影のように残りました。

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熱線による被害:中学生の学生服、半ズボン

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黒い爪:浜田さんは赤穂部隊司令部で被爆しました。
左手を窓から出していたので、強力な熱線を浴びて、
指先が燃えるほどのひどい火傷を負い、ツメと皮膚が垂れ下がり
ました。その左手の中指、薬指のツメは、
黒く変形して生え続けました。ツメには血管があり

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原爆の惨禍からよみがえったヒロシマの願いは、核兵器のない平和な社会を実現です。

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