{あらすじ}
ある会社の真面目そうな事務員(田中絹代)は、社長の息子に好かれているが、実はこの女はチンピラの情婦である。彼女の男の元ボクサー譲二(岡譲二)は、数人の子分を連れており、けんかに強い。
ボクシングジムに通う大学生は、譲二に憧れてチンピラの仲間入りをする。それ以来、賭けビリヤード場に入り浸っている。素行の悪さに気づいた姉は、譲二のもとに現れて、弟を元に戻すように言ってくれ、と哀願する。譲二は、学生を姉のもとに帰す。
このことをきっかけに譲二は姉を好きになる。情婦は、二人を分かれさせるために姉のもとにピストルを持っていき脅そうとするが、姉の純情さに打たれて帰る。そして、譲二に、カタギの生活に戻ろうとせがむ。
学生、姉の会社のレジから金を盗んで逃げている。そして譲二にその欠損を埋めるために200円貸してくれ、という。
譲二は学生を追い返すが、カタギになるまえに一仕事して金を稼ぎ、学生を助けてやろうと考える。
譲二は情婦の勤める会社に乗り込み、情婦と二人でピストルを社長の息子に突きつけ、200円を奪って逃げる。そして学生と姉の住むアパートに金を届ける。
二人が逃げようとすると警察が囲んでいる。二人は二回の屋根から飛び降りて夜の町に逃れる。が、情婦は、いっそ捕まって刑に服してから生きなおそう、という。譲二は女を置いて去ろうとするが、情婦は彼の足をピストルで撃ち、二人とも警官に捕まる。
{批評}
舞台が日本であることを除けば、全くハリウッドのギャング映画であり、小津安二郎のアメリカ映画好みが全面に出た作品である。
技術的には何回かの移動撮影があるものの、スタイリッシュでカット割りが細かい。フィルム・ノアール風に光と影の演出も目立つ。
脚本の構成から言えば、サイレント時代なので仕方ないといえば仕方ないが、物語が単線的で、サブストーリーがなく、あっけないほど単純な物語である。もっとも、一般に小津安二郎映画は、単純な物語を特徴とするが・・・・・
キャラクター論から言えば、この主人公である譲二と情婦は「グッド・バッド・マン」の典型だ。小津安二郎は『朗らかに歩め』でもこのグッド・バッド・マンを描いている。善良なところのある悪党、という意味である。
余談になるが、グッド・バッド・マンは意外なほど多く映画の主人公になっている。座頭市、眠狂四郎、木枯らし紋二郎、それから喜劇になると、ハナ肇の馬鹿シリーズやフーテンの寅さんもそうだ。
子分になった学生の姉の古典的な日本人像=道徳的で弟のために身を犠牲にして愛を注ぐ女、にあこがれるチンピラの情婦。そして同じように姉の健気さに心を奪われチンピラのヘッドから足を洗おうとするギャング。その心の動き方が、いかにも新派悲劇的である。戦前、洋画のヒットから日本語でもしばしば使われた「アパッシュ(チンピラ)」のかっこよさを、小津安二郎は出そうとしたのかもしれないが、そのかっこよさはこの作品には出ていない。
この映画は、いかにもアメリカ映画のスタイルを踏んでいるがその心理的要素は和製の新派悲劇であり、この点で木に竹を接いだような違和感が残る。
また、この映画は後半はスリルとサスペンスの物語(強盗と追いかけ)になるのだが、テンポがのろく、作品としては失敗している。
小津安二郎というのは不思議な監督である。前年の『生まれてはみたけれど』のような小市民映画を撮り、この時点では天下一品の技量を見せているのに、まだこのようにアメリカ映画のコピー作品を作っている。この辺りの感覚が分からない。若気の至り、というものだろうか。
この作品は、あくまでも研究者向きの素材であり、映画そのものを楽しもうという人には、退屈だから見ないほうがいいですよ、としかアドバイスできない。つまらない映画である。
ある会社の真面目そうな事務員(田中絹代)は、社長の息子に好かれているが、実はこの女はチンピラの情婦である。彼女の男の元ボクサー譲二(岡譲二)は、数人の子分を連れており、けんかに強い。
ボクシングジムに通う大学生は、譲二に憧れてチンピラの仲間入りをする。それ以来、賭けビリヤード場に入り浸っている。素行の悪さに気づいた姉は、譲二のもとに現れて、弟を元に戻すように言ってくれ、と哀願する。譲二は、学生を姉のもとに帰す。
このことをきっかけに譲二は姉を好きになる。情婦は、二人を分かれさせるために姉のもとにピストルを持っていき脅そうとするが、姉の純情さに打たれて帰る。そして、譲二に、カタギの生活に戻ろうとせがむ。
学生、姉の会社のレジから金を盗んで逃げている。そして譲二にその欠損を埋めるために200円貸してくれ、という。
譲二は学生を追い返すが、カタギになるまえに一仕事して金を稼ぎ、学生を助けてやろうと考える。
譲二は情婦の勤める会社に乗り込み、情婦と二人でピストルを社長の息子に突きつけ、200円を奪って逃げる。そして学生と姉の住むアパートに金を届ける。
二人が逃げようとすると警察が囲んでいる。二人は二回の屋根から飛び降りて夜の町に逃れる。が、情婦は、いっそ捕まって刑に服してから生きなおそう、という。譲二は女を置いて去ろうとするが、情婦は彼の足をピストルで撃ち、二人とも警官に捕まる。
{批評}
舞台が日本であることを除けば、全くハリウッドのギャング映画であり、小津安二郎のアメリカ映画好みが全面に出た作品である。
技術的には何回かの移動撮影があるものの、スタイリッシュでカット割りが細かい。フィルム・ノアール風に光と影の演出も目立つ。
脚本の構成から言えば、サイレント時代なので仕方ないといえば仕方ないが、物語が単線的で、サブストーリーがなく、あっけないほど単純な物語である。もっとも、一般に小津安二郎映画は、単純な物語を特徴とするが・・・・・
キャラクター論から言えば、この主人公である譲二と情婦は「グッド・バッド・マン」の典型だ。小津安二郎は『朗らかに歩め』でもこのグッド・バッド・マンを描いている。善良なところのある悪党、という意味である。
余談になるが、グッド・バッド・マンは意外なほど多く映画の主人公になっている。座頭市、眠狂四郎、木枯らし紋二郎、それから喜劇になると、ハナ肇の馬鹿シリーズやフーテンの寅さんもそうだ。
子分になった学生の姉の古典的な日本人像=道徳的で弟のために身を犠牲にして愛を注ぐ女、にあこがれるチンピラの情婦。そして同じように姉の健気さに心を奪われチンピラのヘッドから足を洗おうとするギャング。その心の動き方が、いかにも新派悲劇的である。戦前、洋画のヒットから日本語でもしばしば使われた「アパッシュ(チンピラ)」のかっこよさを、小津安二郎は出そうとしたのかもしれないが、そのかっこよさはこの作品には出ていない。
この映画は、いかにもアメリカ映画のスタイルを踏んでいるがその心理的要素は和製の新派悲劇であり、この点で木に竹を接いだような違和感が残る。
また、この映画は後半はスリルとサスペンスの物語(強盗と追いかけ)になるのだが、テンポがのろく、作品としては失敗している。
小津安二郎というのは不思議な監督である。前年の『生まれてはみたけれど』のような小市民映画を撮り、この時点では天下一品の技量を見せているのに、まだこのようにアメリカ映画のコピー作品を作っている。この辺りの感覚が分からない。若気の至り、というものだろうか。
この作品は、あくまでも研究者向きの素材であり、映画そのものを楽しもうという人には、退屈だから見ないほうがいいですよ、としかアドバイスできない。つまらない映画である。