深夜を過ぎてしまった。
微笑禅の会ネット会報を書こうと思いながら、余りに多くのことが頭をよぎり、とりわけ「原理主義」「教条主義」がいかに人間の柔軟な思考と行動の邪魔になるか、この頃気づくことがあったため、それを説明しようとした。そこで、原理主義的な思考に基づけば、我々が思っているブッダの人物像やブッダの言葉ですら非常に曖昧なものであり、「釈迦は仏教を説かなかった」という逆説を証明するために、その第一人者だった故・中村元氏の研究の一部を紹介する。
中村元氏によれば釈迦の言葉に最も近いと思われるのは『スッタ・ニパータ』の第4章、第5章であり、その中にすら後世の解説が混じっている。私がかなり前に読んだ記憶では、釈迦の教えは結局諦観主義に落ち着くのかと失望したことがある。(漢訳で日本に伝わった仏典の中には『スッタ・ニパータ』はなく、仏教伝来以来、中村氏が生前に翻訳するまで仏教徒はこの事実を全く知らなかったのである)
これは別に釈迦を貶めるものではない。要するに原理主義に拘ると日本の伝統仏教は全て釈迦の言葉を誤解していたことになるが、大乗非仏説が出てもほとんど揺らがなかった事実が示すように、様々な思想の中でより優れたものを理解し実践していくことのほうが大切だ、といういいサンプルになるだろう。思想体系は固定すると死んでしまう。常に「遊び」の部分があり、そこで試行錯誤し、学び、実験する、という運動の繰り返しが必要だと私は思っている。中村元氏の業績もそこにある。清流が常に流れているように、自説も常に吟味し改良を加えるのが生きた思想だと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1838140.html
仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』よりもさらに古い資料を含むと言われているジャイナ教の聖典『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)の中には、サーリプッタとマハーカッサバなどがブッダとして紹介され、サーリプッタが仏教の代表者であるとされている。そこには、なぜかゴータマ・ブッダの名前が全く登場してこない。これは一体どういうことなのか?
このことに関して、中村元博士の解説を分かりやすくまとめた安部慈園先生の言葉を引用してみようと思う。(以下『中村元の世界』(青土社)P.142~145より引用)
近年刊行されたジャイナ教の古い典籍『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)は、四十五人の聖仙の思想を伝えている。仏教者としては、サーリプッタ(本文中ではサーティプッタ)とマハーカッサバ(アハーカーサヴァ)などが言及されている。彼らは、みな「ブッダ」と呼ばれているが、サーリプッタは特に「ブッダであり、阿羅漢(尊敬されるべき人)であり、仙人である」と呼ばれており、「慈悲の徳」を強調していた、という。
奇妙に思えることであるが、仏教の開祖である釈尊が、本書中のどこにも言及されていない。むしろ、ブッダとなる教えが、サーリプッタ(など)の教えとして紹介されていることである。すなわち、初期のジャイナ教徒からは、仏教は釈尊の教えとしてではなく、サーリプッタの教えとして伝えられていたこと、つまり、サーリプッタが最初期の仏教の指導者と、彼らから見なされていたという事実である。博士は、そこから、次の如く推理される。
【釈尊は臨終時にもアーナンダその他の多くの極く僅かの人々につきそわれていただけの微々たる存在であったが、それを大きな社会的勢力に発展させたのは、サーリプッタその他の仏弟子のはたらきではなかったか?】(⑫390項)
と。さらに、
【『聖仙のことば』に伝えられている・・・・・教えが歴史的に古い。もとのものを伝えていて、現在のわれわれが<仏教>と考えている内容が実は後代の成立のものであるかもしれないという可能性も考えられる。】(前同)
と提起される。かくの如く、サーリプッタの一側面を論じられたのち、博士は、さらに、「ブッダ」という観念すなわち仏陀観の変遷を次のようにたどられる。以下は取意して述べる。
(1)最初期のジャイナ教においては、『聖仙のことば』を見るかぎり、聖仙はすべて宗教の区別を問わず<ブッダ>であった。
(2)ところが、サーリプッタだけが特にブッダであることが強調されているのは、彼がブッダになることを強調したからではなかろうか。
(3)『スッタニパータ』の古い詩句には、ブッダということばがでてこないのは、この時代の仏弟子たちは、釈尊を特にブッダとも思わなかったし、また特別にブッダと称せられるものになろうともしなかったからである。
(4)次の段階として、尊敬されるべき人を、一般にブッダとか仙人とかバラモン仙人とかバラモンと呼んだ。
(5)このうち、ブッダは特別にすぐれた人と考えられ、その呼称として用いられるようになった。
(6)ついに、ブッダとは釈尊(あるいは釈尊に匹敵し得る人)のことであると考えられるようになった。(⑫391-393項)
サーリプッタが、「ブッダ」と呼ばれているのは、これらの発展の初期の段階を示している、と述べられ、さらに、博士は、
【なおこの原典から見ると、当時<仏教>というものは認められていなかったし、開祖釈尊なるものも、後代になって現われ出たのであろうと考えられる。】(⑫393-394項)
(引用 終わり)
余談ではあるが、「中村元選集⑫」の中で、中村氏は次のように解説している。(以下 引用)
【修行者をサマナ(沙門)と呼ぶことは仏教でもジャイナ教でもかなり古くから行われていたが、仏教でも理想の修行者を「バラモン」とよんだ段階のほうが以前であり、最古のものである。】P.207
【ジャイナ教の最古の原典である『アーヤーランガ』のガーターの中ではどこにもサマナという語が出て来ないで、理想の修行者は「バラモン」と呼ばれている。また仏教最古の経典『スッタニパータ』のうちの最古の部分である「パーラーヤナ編」では理想の修行者はつねに「バラモン」と呼ばれていて、「サマナ」とは呼ばれていない。】P.208
【仏の弟子という表現が最初期の仏教には見当たらない。〔この点はジャイナ教の場合も同じである。〕】P.228
【マウリヤ王朝以前には、仏教徒たることを示す(インド一般に認められた)定まった呼称がなかったらしい。】P.234
【仏教の最初期には、戒律の体系もなかったのみならず、戒律に関する一定した呼称さえもなかったのである。】P.283
【最初期においては仏教特有の戒律なるものは存在しなかった。・・・・・そうして仏教の本質なるものは、戒律規定のうちにあったのではなくて、それによって実現される智慧、すなわち、実践認識の実現のうちに求められねばならぬのであろう。】P.297
【普通には釈尊はいつも多勢のビクを連れて歩いていたように考えられ、仏典にもそのように記されているが、それは後世の仏教徒の空想であり、最古のことばによってみると、釈尊は森の中でただ一人修行していた。『ゴータマはひとり森の中にあって楽しみを見出す。』(SN.Ⅰ,p.4 G.)悪魔がゴータマに呼びかけた語のうちにも、『汝は森の中にあって沈思』(SN.Ⅰ,p.123 G.)という。】P.335
【釈尊が千二百五十人の修行僧をつれて歩いていたなどというのは、全くののちの空想の産物なのである。(千二百五十人もつれて練り歩くなどということは、今日のインドでもヴィノーバやシャンカラ法王のような崇敬されている人でも不可能である。食糧の手配だけでも大変である。シャンカラ法王が巡歴する場合でも、ついて行く人は数十人にすぎないし、それもバスや自転車によって食糧を運ぶからこそ可能なのである。)】P.336
【最初期の仏教ではひとりでいることを讃えていた。】P.336
【最初期の仏教修行者は寺院や僧房はおろか、住む小屋さえももたず、村人にもつき合わなかった。】P.337
【『スッタニパータ』のパーラーヤナ編やアッタカ編を見ても慈悲の教えは殆ど説かれることなく、専ら「執着するな、こだわることなかれ」ということが教えられている。慈悲の教えは『スッタニパータ』の新層になって現われる。仏典とジャイナ教聖典との所伝が一致するところから見ると、慈悲の徳を特に強調したのはサーリプッタであり、それ以降仏教が急激にひろまったのだと考えられないだろうか。『聖仙のことば』に記されているサーリプッタの実践は、『スッタニパータ』に述べられているものに大体対応する。】P.395
中村元氏は、「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」の成立時期について興味深いことを言っている。(以下 引用)
『パーリ文「アリヤ・パリエーサエ経」がつくられたときには、中道も八正道もまだまとめられていなかったか、少なくとも重要視されていなかった。相当漢訳の原本がつくられたときに、漸く中道と八正道とがベナレス・サルナートの説法と結びつけて考えられていたが、しかし四種の真理の説は編纂者の念頭にはなかった。サルナートの説法と四種の真理とが結びつけられて考えられたのは、かなり後世のことだと言わなければならない。詩句(ガーター)の中にもサルナートの説法と四種の真理・八正道・中道と結びつけたものは一つも存在しない。』(『中村元選集・第11巻・p239)