すみません。映画批評を掘り起こす批評です。多分、もう一度ぐらいで終わります。
(カテゴリーを間違えて投稿したので、再度の投稿になります)
『月はどっちに出ている』(崔洋一、1993年)
{あらすじ}
この映画は3つのエピソードから出来ている。
一つ目は、在日朝鮮人で、母親がフィリピンパブを経営していて自分はタクシードライバーをしている主役(岸谷五郎)が、母の店のチーママであるフィリピン人(ルビー・モレノ)をナンパして同棲し、一度は別れるが、また結ばれるという、はなはだいい加減で猥雑なラブストーリーである。
二つ目は、主役の勤めている在日系のタクシー会社(金田タクシー)の社長が、同じ在日系の金融屋の口車に乗って、ゴルフ場経営に乗り出そうとして騙され、15億の借金を背負う。そして、自己破産のかわりに会社に火をつける話である。
もう一つは、上の二つの物語に比べると小さなエピソードだが「俺は朝鮮人は嫌いだが、忠さんは好きだ」と主役の男を追い回す日本人にまつわる物語である。この男は妻に逃げられ、子供二人を故郷の母親に預けているが、いつかは妻とヨリを戻し、一軒家を立てて2世代一緒に暮らすのが夢だという。そして、別れてクラブのホステスをしている妻から、ヨリを戻したい、と電話があったというのだが、この男は家に電話などもっていない。結局不可解な行動を繰り返した挙句、警察に捕まって精神病院に強制入院させれることになる。
以上、3つの逸話が絡まりあっている。
{批評}
封切り当時は割りと評価の高かった映画だが、私はダメな作品だと思う。
まず、長所から言おう。この映画は、「被害者コンプレックス」の塊のようなこれまでの在日のイメージを根底からひっくり返したところにある。60年代から70年代にかけて、日本の革新的な作家たちは朝鮮人を被害者と規定し、彼らにシンパシーを寄せることが自分の良心の証でもあるようなスタンスをとっていた。『ユンボギの日記』や『絞首刑』の大島渚がいるし、『書を捨てよ町に出よう』の寺山修司も、人力飛行機にのって対馬海峡を越えようとして墜落した朝鮮人の話とそのイメージをこの映画のライトモチーフにしている。それのみか、寺山は、女子高校生を強姦殺人した朝鮮人の高校生を擁護する発言すらしているのである。我が金井勝は、さすがにこの二人のような「行き過ぎた同情」に傾いたことはないが、『GOOD-BYE』のラストでは日本の侵略から祖国を守った韓国の英雄の銅像の下に立ち、朝鮮人の目から日本を見る。
このような過去の大物映画監督のシンパシーに対して、崔監督はまるでアカンベーでもするかのように、金儲けしか頭にない、ゴキブリのようにたくましいチンピラまがいの在日たちをアッケラカンと描いているのである。この容赦ないリアルな視点は、崔監督自身が在日であることに裏付けられている。「加害者コンプレックス」に罹っている日本人監督ではとても描けない人物像である。
このように、在日のイメージを一変させたことはこの映画の値打ちだが、表現として純粋にこの映画を見たときには、平均点以上のものはない。
この映画は、ほとんどリアリティがない。主役がフィリピーナをナンパするところでも、ほとんどレイプなのに、女は男に腕を廻して簡単に寝てしまい、男と同棲を始める。滑稽なほどに汚らしいベッドシーンもあり、一体監督はこのシーンを何のために挿入したのか分からない。男性観客へのサービスだろうか?それにしては肉感性のほとんどない、大げさなセックスシーンである。
そうだ、滑稽なほどに、と今言ったが、おそらく崔監督はこの映画を「コメディタッチ」として描きたかったのだろう。在日の世界という暗いモチーフを、わざと喜劇調に描くことを彼は発見し、その発見に自分で酔ったにちがいない。しかし、その喜劇調が、全ての演出からリアリティをなくしてしまった。早い話、この映画は漫画のように人物描写が軽いのである。いや、漫画にももっと優れたものがある。要するに、崔監督はメリハリをつけ、描ききるところは描ききり、流すところは流す技量がないのだ。
表現スタイルとしても目立つのは移動撮影が必要以上に多いことぐらいで、特別に個性はない。
ラストシーンは、一旦別れたフィリピーナを主役の男が連れ戻して二人でドライブする場面だが、ここでも崔監督は「憂歌団」の音楽を使って、もっとも安易な終わらせ方をしている。なんだかスッキリしない、巧く決めることの出来なかった作品のラストに挿入歌を入れてごまかす、というのは学生映画でもやらない臭い技術といっていい。
なお、「月はどっちに出ている」というタイトルは、タクシーの運転手の一人がしょっちゅう迷子になって、自分の車がどこにいるのか会社に電話をかけてくるのに対して、係りの者が「月はどっちに出てますか?月の方向に進んで下さい」と答えることに由来している。なんだか訳ありげなタイトルだが、別に特別な意味はない。
私は恐らく崔監督の作品を他に見ていないので、この作品だけで彼の才能を断定することは出来ないが、この作品を見る限りでは才気のかけらも感じない凡庸な監督であって、これから追いかけようとは思わない。私はこの映画を見ている途中で退屈になってタバコばかり吹かしていた。読者にはお奨めできない作品である。
(カテゴリーを間違えて投稿したので、再度の投稿になります)
『月はどっちに出ている』(崔洋一、1993年)
{あらすじ}
この映画は3つのエピソードから出来ている。
一つ目は、在日朝鮮人で、母親がフィリピンパブを経営していて自分はタクシードライバーをしている主役(岸谷五郎)が、母の店のチーママであるフィリピン人(ルビー・モレノ)をナンパして同棲し、一度は別れるが、また結ばれるという、はなはだいい加減で猥雑なラブストーリーである。
二つ目は、主役の勤めている在日系のタクシー会社(金田タクシー)の社長が、同じ在日系の金融屋の口車に乗って、ゴルフ場経営に乗り出そうとして騙され、15億の借金を背負う。そして、自己破産のかわりに会社に火をつける話である。
もう一つは、上の二つの物語に比べると小さなエピソードだが「俺は朝鮮人は嫌いだが、忠さんは好きだ」と主役の男を追い回す日本人にまつわる物語である。この男は妻に逃げられ、子供二人を故郷の母親に預けているが、いつかは妻とヨリを戻し、一軒家を立てて2世代一緒に暮らすのが夢だという。そして、別れてクラブのホステスをしている妻から、ヨリを戻したい、と電話があったというのだが、この男は家に電話などもっていない。結局不可解な行動を繰り返した挙句、警察に捕まって精神病院に強制入院させれることになる。
以上、3つの逸話が絡まりあっている。
{批評}
封切り当時は割りと評価の高かった映画だが、私はダメな作品だと思う。
まず、長所から言おう。この映画は、「被害者コンプレックス」の塊のようなこれまでの在日のイメージを根底からひっくり返したところにある。60年代から70年代にかけて、日本の革新的な作家たちは朝鮮人を被害者と規定し、彼らにシンパシーを寄せることが自分の良心の証でもあるようなスタンスをとっていた。『ユンボギの日記』や『絞首刑』の大島渚がいるし、『書を捨てよ町に出よう』の寺山修司も、人力飛行機にのって対馬海峡を越えようとして墜落した朝鮮人の話とそのイメージをこの映画のライトモチーフにしている。それのみか、寺山は、女子高校生を強姦殺人した朝鮮人の高校生を擁護する発言すらしているのである。我が金井勝は、さすがにこの二人のような「行き過ぎた同情」に傾いたことはないが、『GOOD-BYE』のラストでは日本の侵略から祖国を守った韓国の英雄の銅像の下に立ち、朝鮮人の目から日本を見る。
このような過去の大物映画監督のシンパシーに対して、崔監督はまるでアカンベーでもするかのように、金儲けしか頭にない、ゴキブリのようにたくましいチンピラまがいの在日たちをアッケラカンと描いているのである。この容赦ないリアルな視点は、崔監督自身が在日であることに裏付けられている。「加害者コンプレックス」に罹っている日本人監督ではとても描けない人物像である。
このように、在日のイメージを一変させたことはこの映画の値打ちだが、表現として純粋にこの映画を見たときには、平均点以上のものはない。
この映画は、ほとんどリアリティがない。主役がフィリピーナをナンパするところでも、ほとんどレイプなのに、女は男に腕を廻して簡単に寝てしまい、男と同棲を始める。滑稽なほどに汚らしいベッドシーンもあり、一体監督はこのシーンを何のために挿入したのか分からない。男性観客へのサービスだろうか?それにしては肉感性のほとんどない、大げさなセックスシーンである。
そうだ、滑稽なほどに、と今言ったが、おそらく崔監督はこの映画を「コメディタッチ」として描きたかったのだろう。在日の世界という暗いモチーフを、わざと喜劇調に描くことを彼は発見し、その発見に自分で酔ったにちがいない。しかし、その喜劇調が、全ての演出からリアリティをなくしてしまった。早い話、この映画は漫画のように人物描写が軽いのである。いや、漫画にももっと優れたものがある。要するに、崔監督はメリハリをつけ、描ききるところは描ききり、流すところは流す技量がないのだ。
表現スタイルとしても目立つのは移動撮影が必要以上に多いことぐらいで、特別に個性はない。
ラストシーンは、一旦別れたフィリピーナを主役の男が連れ戻して二人でドライブする場面だが、ここでも崔監督は「憂歌団」の音楽を使って、もっとも安易な終わらせ方をしている。なんだかスッキリしない、巧く決めることの出来なかった作品のラストに挿入歌を入れてごまかす、というのは学生映画でもやらない臭い技術といっていい。
なお、「月はどっちに出ている」というタイトルは、タクシーの運転手の一人がしょっちゅう迷子になって、自分の車がどこにいるのか会社に電話をかけてくるのに対して、係りの者が「月はどっちに出てますか?月の方向に進んで下さい」と答えることに由来している。なんだか訳ありげなタイトルだが、別に特別な意味はない。
私は恐らく崔監督の作品を他に見ていないので、この作品だけで彼の才能を断定することは出来ないが、この作品を見る限りでは才気のかけらも感じない凡庸な監督であって、これから追いかけようとは思わない。私はこの映画を見ている途中で退屈になってタバコばかり吹かしていた。読者にはお奨めできない作品である。
まあ、小さい話ですけど、家に帰って貰いたいですよねえ。痒い奴だぜ!
私はこの監督は才能が無いと思うし、歴史認識も相当偏向していると思います。
が、ウヲド様の表現の中に、コメント利用規約に抵触する差別用語が入っているようなので、あとでややこしくならないように気をつけてくださいね。
芸能界そのものが一種の踏み絵を踏まないと入れないシステムになっているようなので、芸能人のコメントはいかがわしく、私はテレビをもう数年見ていません。正論を言うと追放される世界だと思っています。