2018年11月18日(日)
礼拝メッセージは、「新しい命に生きる人」<コリント人への第二の手紙5章17節> 「キリストと結ばれる人はだれでも。新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(新共同訳)
1)だれでも「キリストにある」とき、人は新しくされます。/口語訳聖書で「ある」と訳されていることばは、共同訳聖書では「結ばれる」。ぶどうの実が、新な木に繋がれることによって、新しい実を結ぶように、私たちが御子イエス・キリストに繋がれる時、神からくる新しい命で生きる。キリストに接ぎ木されることによって、「我がまま」に罪の中に生きてきた者が、それを悔い改めることによって、古い命から切り離され、信仰によって、イエス・キリストに繋がれる。使徒パウロは「すべてこれらの事は、神から出ている。」(Ⅱコリント5:18)と言っている。人が新しくされるのは、まさに神様のみわざ。
2)「新しくされる」ということは、 /「New creation」(新創造される)ということ。創世記で神が最初の人を創造されたように、十字架の贖いによって、キリストにつながれた私たちの内に、神の新たな創造のみ業が始まる。それは丁度、トンボが幼虫の時は水中でしか生きれない生き物であったにも関わらず、成虫になると、体内に変化がおこり、空中を飛びかう生き物に変身されるように、人は肉の姿で生まれ、キリストによって霊の世界で生きるものに変身される。真理を求めてイエス様のもとに来たニコデモに対してイエス様は、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と、仰られた。
3)「古い命」から「新しい命」へ/古い皮を脱いだセミはもうその皮の中に戻ってこない。新しく生まれたセミは、新鮮な木々の樹液を求める。その様に、肉の命から霊の命に移った人は、霊の糧である聖書のことばがと祈りと礼拝が何よりの糧になる。霊の世界に生きる者は霊の糧が必要だからである。それだけでなく、主イエスから注がれる真理の御霊によって、罪の意識から解放され、全き自由が与えられる。愛さなければならない人を憎ませ、赦さなければならない人を怒り、高ぶりと妬みの窮屈な服を着こんでもがき苦しんでいた全ての人に、イエス・キリストの十字架による死と復活により、全き自由の世界へと導き入れられる。新しい命の到来によって、古い命は過ぎ去るからである。
19日(月)
教区牧師会。車、バスと乗り継いで、福岡へ。牧師会開催前に、同僚とランチタイム。
柿の実の模ったデザートに感動♥ 教区諸教会に活き活きと働かれる主のめぐみの御業に心が躍る。私たちは来年度への教区のViSIONも話し合った。互いの教会の良き結実を願う。
20日(火)
6時早天祈祷会、会場教会の先生他、諸兄姉と共にみ言葉を頂きひたすら祈る。
マルコ1章から、V16、キリストの弟子は、キリストの心をもって神のみこころを喜ぶ。
V17,キリストの後からついていって、そこで見るものは、イエスの姿。
V35、働きの前に、祈りがある。みこころを知って行う。
V37,38,「急いで行くなら一人で、もっと遠くへ行くならみんなで!」とはアフリカの言い伝え。
「みんなで行って」一人以上で何かをするのは煩わしさがある。しかし、福音宣教はみんなでするもの。「そこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たののだから。」使命の自覚はあるか?
と、語られた。
帰りの、高速バスでの2時間半は、グッスリとねむりにつく。
21日(水)
聖書研究祈り会は、5名で、「新しい命」についてヨハネ3章から学び語り合い、祈った。
3章で、人目をはばかって、夜そ~と、主イエスのもとを訪れたニコデモは、3年半後、十字架で死なれたキリストの遺体を引き取りに行った。その当時の十字架での受刑者の遺体は、呪われたものとして処理されるほどのものであり、それは、祝福された神の民からの切り離されることも意味していたそうだが、大胆に、ご遺体を引き取りにいき、その結果は、ニコデモはエルサレムから議員をはく奪されただけでなく、追放され、一家は離散したということが、記録もされてもいるそうだ。
スゴイとしか言えない。
私は、先日、k学園高2C組の生徒が書いた感想文が郵送されてきて読んだばかりだったので、
水野源三さんのビデオを見た一人の女学生が、「キリスト教ってスゴイと思った」と書いてあったことを思い出していた。
今更に様に、弱さの中にある人にも、ここまでの力を与える、真の宗教の源を垣間見る思いがした。
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