「信仰とは、」ヘブル11:1-6
私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを信じることによって救われました。神の子とされた私たちが、神を信じる信仰によって生きることは神のみ旨ですが、では、「信仰」とは?
1.信仰の定義について、(1)
見えるものは、見えないものから出来上がっている。例えば、家ができる為には家の設計者が、服ができる為には、服のデザイナーがいるように、私たちの人生もまた人生の創造者がいる。イエス・キリストを通して神の子とされた私たちは、人生の全てを創造者から「信仰」によって相続する者とされている。新改訳(旧)は11節を「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と訳す。端的に、信仰=保証 信仰=確信。例えば、小切手はお金ではないが、銀行でお金に換えることができる保証書。そのように、信仰とは神様からの保証書と同じであるとみ言は語っている。神様から純粋な確信が私たちの心に深く植えつけられる時、それは、小切手を得たことと同じで、まだ現金は見ていなくても、銀行の受付に行けば、確実にお金を手にできる。小切手の裏には、イエス・キリストというサインが押されている。 ※決して、自分の願望や欲望を強く念じることによって、思いがかなえられるということではない(マタイ6:7「異邦人の祈り」)。
真の信仰は、どこに基盤を置いているかが大切で、神の言葉の上に信仰を置く時、神による御業が始まる。ヨハネ1:1の「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」の「ことば」「ロゴス」の別訳は、「道、デザイン、計画、型、理想」等。神はみ言葉によって、全てをデザイン(創造)された。この驚くべき神の言葉が、イエス・キリストを通して、今、私たちに与えられている。 (その様な意味で、信仰とは神のことばによって生きることとも言える)
2.神に喜ばれる信仰について (6)
マルコ9章で、「口をきけなくする霊にとりつかれた」(17)息子の父親は、「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください。」(22)と、イエス様に願い出た。その時イエスは、「もしできれば、と言うのか、信じる者には、どんな事でもできる」(23)と、答えられ、父親はすぐに「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(24)と言い直し、子どもは無事癒された。ここでの大きな課題は、「しかしできますれば、」と願ったこと。英語では「if You can do」、これは大変不信仰な求め方。私たちもまた、「もし、みこころならば、」と祈る時にも、「本当にみこころだったらどうしよう」と、二心を潜めてその様に言う場合もあり、また、「み旨に従おう」と、決心して一心に祈る場合もあるが、神のみ旨と確信できているならば、単純にそれを求めれば良いので、それは、すでにきかれている祈りとも言える。マルコ11:22-23の「神を信じなさい」(22)は「神の信仰を持て」という意味で、信仰もまた、神様が与えてくださるので、神様から来る信仰を持てということ。ですから自分の信仰が薄く、現状に間に合わない時には、「主よ、あなたの信仰をください。」と、神に信仰が与えられることを願うことが大切。
9章の父親の「不信仰な私をお助けください」(24)のギリシャ語は、本来「信じます。どうか、私の信仰の足りない部分を助けてください」と言う意味で、私たちの信仰が不完全且不信仰であっても、神様は信仰の足りない部分を助けて下さる。神様は、「信仰」の管を通して、この地上に主のみ思いを現実にしようと、常に働いておられ、神の御業が地上で成されるために、私たちの信仰を必要とされているので、不完全なままでも、純真に、幼子のように、私たちが必要を神様に願いでることを喜び、待っていて下さる。「もし、信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」(ヘブル10:38) 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身に求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(6)。たとえ、小さい信仰でも、主は喜んで求める者に答えられる。
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