2018年7月26日(日)礼拝説教から
題「旅人の詩(うた)
詩篇121篇は、「旅人の詩」とも言われている。正確には、エルサレム神殿への「聖地巡礼者たちの歌」。現在エルサレムに、AD70のローマ軍進撃以後、目に見える建物としての神殿はない。イエス・キリストは、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう」(ヨハネ2:19)と言ったが復活のキリストこそ、新約時代の神殿。人生は、イエス・キリストと出会う旅であり、キリストが伴ってくださる巡礼の旅。人生の目的地は、この世の旅路を終えた時、造り主のみもとに行くことで、今日という一日もまた、天の御国への巡礼の旅(8節)の中にある一日。御国を仰ぎつつ、深く詩篇121篇を味わおう。
Ⅰ.神の助け(1-4)
作者は、シオンの山、神の住まわれる所を仰いで、「どこから私の助けは来るのだろうか」と尋ねる。真の助けは、天地を造られ、「私」をも造られた神からくる(2)。「どうか主があなたを助けて」(3)新共同訳。「主はあなたの足が滑るのを許しなさらない」(3)バークレー訳。いかなる不注意からの踏み違いも、あるいは圧倒するような誘惑も、信頼し従っているたましいをそこなうことはできない。(Ⅰコリ10:13)主に信頼する人を、主は「油断される」(まどろむ)ことなく見守り助けられる(3,4節)。
Ⅱ.神の守り(5-8)
「右の手をおおう陰」(5)働き、命の支える「右手」を守られる。「太陽」(6)は、日中を支配する力、「月」(6)は、夜を支配する力(創世記1:16-18)。主は、日中を支配する力からも、夜を支配する力からも守られる。つまり、昼も夜も関係なく、私たちは一寸の隙もないくらい神から目を注がれて、始終守られている(6節)。あらゆる悪から守られ、魂を守られる方(7)。8節「出る」は、旧約的には、巡礼への出発。「入る」は、エルサレムに到着し、祭事に参加するために神殿に入っていくことを意味した。しかし、新約的には、「出る」は、この世の人生を終えて、この世のから死ぬということになり、「入る」とは、永遠の命、復活の命を持って、造り主である神のもとに入っていくことを意味する。
さいごに、ルターの言葉から、
「我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」
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