聖書:マルコによる福音書14章32節~42節
題「しかし、わたしの思いではなく」
レントを迎え、今日はゲッセマネの主を仰ぎましょう。
ゲッセマネで主イエスが発せられたお言葉の中から
①「悲しみ」(34)
②「しかし、わたしの思いでなく」(36)
③「みこころのままに」(36)
のお言葉の中から主の御足跡を偲びたいと思います。
①「悲しみ」(34)
最後の晩餐を終えられた主は、十字架を前にして祈りの園へ行かれました。
お弟子たちとは、「石を投げて届くほど離れたところ」(ルカ22:41)で 一人祈られました。
マルコは園での主イエスのお姿を「恐れおののき、また悩みはじめて」(33)と描き、
主イエスご自身、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」(34)と仰っておられます。
私たちは、良い人は悩まないようなイメージを抱きます。
また、信仰が深くなれば、苦しみも苦しみとは思えなくなるような思いを抱いていることがあります。
しかし、神の御子でいらっしゃられる主イエスは、十字架を前にして大変なお苦しみの中におられます。
この時主イエスは逃げ出すことも可能でした。
けれどもこの苦しみの中に留まり続けられたのです。
先日一人の極悪犯罪人が捕らえられる場面がテレビから放映されていました。
その時彼を捕らえた警察官だった人が、「彼は震えていました」と証言しておられました。
彼は自分の犯罪を悔やんで震えたのでしょうか?
彼の弟子だった人たちが警察官に追われている中、彼らにとって師と仰がれていたその人は、
一人特別な隠し部屋で1千万円と共に息を潜めて隠れていたのです。
遂に警察に発見された時、これからの悲惨な自分の運命の悲しみで震えたのでした。
しかし、主イエスは人類への愛ゆえに、罪の贖いの必要のために、悲しみ祈られたのでした。
②「しかし、わたしの思いでなく」(36)
最後の晩餐の席上、主イエスはユダに対して、
「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネ13:27)と仰られました。
会計係のユダの心の中にも色々な思いが交差していたことでしょう。
主イエスやお弟子仲間を喜ばせたいと思う思いも沢山あったに違いありません。
主イエスもまたサタンがユダの中に入った時、
「あなたがしようとしていることは良くないことだからヤメなさい」と止めることもなさらず、
「しようとしていることを、今すぐするが良い」と言われたのです。
旧約聖書から人類との間に契約をなされたことが成就しようとしているその時が遂に来たことを主はご存じだったからです。
TEVは「hurry and do what you must.」と訳しています。「いそげ」とまで言われたのです。
主イエスは神の時に全く忠実だったのです。
ユダは自分のしたい思いを優先し、
イエス様は、「しかし、わたしの思いでなく」と、父なる神のみ思いを優先されたのでした。
③「みこころのままに」(36)
主イエスの祈りは「わたしの思いでなく、みこころのままになさってください」という祈りでした。
丸屋真也氏は「健全な信仰とは何か」という著書の中で、
「みこころと自分の確信の違い」を指摘して、
「みこころは神ご自身のおこころであって、自分の確信とは区別されなければならない」と書いています。
私自身、自分の確信をみこころと思っているところに誤算があったことに気付かされ、
信仰生活がちぐはぐしてゆく原因の糸口のようなものを知らされました。
主イエスは自分の確信でなく、天の父のみこころを天津ことなく受け入れられました。
人類への愛、永遠のご計画、十字架こそ自らの使命の場所であることを深く確信し、
地上におけるご自身のみ思いはすべて天の父のみこころの前に退けられたのでした。
みこころを行うことについて、大きく揺れ迷うことはありませんか。
YESとNOの差はほんのわずかであるかもしれません。
しかし、私たちの信仰の先頭を歩まれるゲッセマネの主のお姿は、
私たちのこれからのあゆみへの模範であり、
力強いメッセージです。
(16日のメッセージより)
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、
神のみ座の右に座するに至ったのである」(ヘブル12:3)
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