2020年1月6日(月)
故M姉の葬儀。6時半過ぎ、暗やみの中車のエンジンを鳴らし、JR長崎駅へ。
7時過ぎのかもめ⇒鳥栖で新幹線へ⇒岡山から赤穂線香登駅下車、、、
いつもになく黒い服を着た多くの人が同じ方向へ向かう。
葬儀会場は、関西方面から来られた方々も多く、知り合いの牧師方も多数。
葬儀は、まるでコンサートの様に、彼女の音楽仲間の演奏で埋め尽くされ、
・・・けれども、大切な人を失った悲しみが天に届く、、、

告別説教の中から、死は遠くに待ち受けているものではなく、
私たちは死と共に生きていることを実感して帰ってくる。
帰路は、香登⇒三宮⇒神戸空港⇒長崎時津着は9時半過ぎ
三宮で、一人で食事をするには良いお店を見つけた!
ここを飛行機で神戸に来た時の楽しみの場所にしょう!
8日(水)新年祈祷会
礼拝に続いて、
一人一人ここでも新年の抱負を話し合う。
各々ご主人の救いを願う。
「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確信する」
神がその願いを起こされたなら、神が責任をもってくださるように!
9日(木)
2階のテラス側に光がサンサンとさして、心地良い。
背中に新年の光を浴びながらパソコンに向かう幸せ。
10日(金)
F師聖会メッセージに心と耳を傾ける。
私たちは決して易しくない人間関係の中で生かされていることを実感し、
だれもが悩んでいるだろうと思われる中、
F師は堂々、
「不満はあるだろう、それを言えばいい」
「ニアミスを起こすよりは賢く距離をおけばよい」と、言った内容を(少しことばが違っているかもしれませんが、)
話され、まるで、私を弁護して下さっているようで、
「そうなんだよナ~」と、うなづきながらも、
でも、F先生、それって大丈夫?、、、とも考える。
しかし、
人間関係は微妙??の一言に尽き、
人が生きている限り、この人間関係の悩みもまた尽きないだろうことを、
すべての人は覚悟しなければならないだろう。
(と、忘れないうちに書いておこう)
11日(土)
説教準備の中で、聖化大会のH師のメッセージに耳を傾けた。
キリスト者は、この「きよめ」の道は避けて通れない。
心がピュアでなければ、たとえクリスチャンであっても、
結果として肉の実を結んでしまう危険があるから。
「オマエは、キリストの十字架で共に死んでいるか?」
と、自問してみる。
12日(日)
礼拝後、報告をしていると、
ト、突然、一人の兄弟の目と手が空中を彷徨い始める。
「ド、どうされましたか?」
と、おそるおそる尋ねてみると、
「ホコリが飛んでいたので、、、」と、まあ、(*_*;
❁
和やかなスモールグループ。
先週口走った、「私一人にさせないで!」の一言の効果は絶大で、
礼拝堂にテーブルが用意されるや否や、
ササーーっと、皆の手で茶菓の準備がなされ、
昨晩私が飲みかけていたハーブティーもチャンと
そのテーブルに置かれていた。
(*^^)v
☆
一人の方が残られて、
真実な交わりのひと時が与えられ、
その方の人生を共有させて頂くめぐみに与った。
後は、ご聖霊のお働きが待たれる分野、
この方の救いの時を祈って待つことに、、、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます