8月31日Welcome礼拝
説教「捜した羊、見つけた銀貨」
聖書:ルカによる福音書15章1-10節
この聖書の箇所を三区分すれば、
取税人や罪人たち(1-3)のこと、
いなくなった1匹の羊(4-7)の喩えと無くした銀貨(8-10)の喩え話に分けることができます。
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まず、1-3節で、律法学者やパリサイ人の宗教家たちは、
イエス様が取税人や罪人たちと親しくしている様子をみて、
「この人は罪人を迎えて一緒に食事をしている」と、あからさまにイエス様を批判しました。
そこで、イエス様は喩え話を通して、罪人に対する神様のみ思いについて、諄諄と語られたのでした。
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まず、「いなくなった1匹の羊」の喩え(4-7)から、
どこまでも捜し求める羊飼いについて話されました。
羊飼いは、99匹の羊を野原においても、いなくなった1匹の羊を見つけるまで捜し求めるというのです。
近視眼の羊たちは群れて生きる習性があります。
1匹で生きる事は困難な弱い動物です。
迷い出た羊は遠くを見ることができないので、帰る方向もわからず、
彷徨っている内に、狼などの獣の餌食になってしまうことが多い。
そこで羊飼いは、その日の内になんとしてもその羊を捜し出したいと思うのです。
山々や谷底までも捜し、ついにその1匹を見つけたときの喜びを大きさは、
発見した羊を両肩に乗せ、家に帰ってきて友人たちや隣りの人を呼び集めて、
「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うほどに、
その喜びは大きいとイエス様は話されました。
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続いて、イエス様は「無くした銀貨」(8-10)の喩え話をされました。
実は、この無くした銀貨は、10枚で一つの首飾りになるその1枚だったそうです。
その1枚がなければ首飾りとしては使えませんネ。
他の色合い、装飾の施し様からして、その1枚は他に変えることができない1枚だったでしょう。
ですから、その女性はどうしてもその銀貨を捜さなければなりません。
しかも、その1枚は大人の人が一日働いた労賃に等しく高価なものだったのです。
家中箒で掃いたり、ベッドの下を潜ってみたり、それはそれは細かく捜したことでしょう。
けれども、その1枚を見つけた時の喜びはどんなに大きいことか、
9節に、「そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』
と言うであろう。」書かれているほどです。
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そのように、イエス様は罪人が悔い改めて神のもとに帰ってくることを願っておられると語られたのでした。
迷いでた羊を羊飼いが発見し、羊飼いの手の中に抱かれたことに対して、
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、
悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、
天にあるであろう」(7)と話され、
なくした銀貨を見つけたことに対してもまた、
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、
神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」(10)と仰られました。
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取税人や罪人を忌み嫌う律法学者やパリサイ人の宗教家たちに対して、
イエス様は、天の父のみ心は彼らを捨てきることではなく、
彼らが神に立ち返ることこそが神の大きな喜びであることを彼らにお示しになられました。
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この話は更に続き、次の放蕩息子の喩えを通して、
罪人へのみ父のみ旨を明らかにされてゆきます。
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