先日、近所の本屋で「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の文庫版を見つけて、遅ればせながら読んでみた。
いや、色々なレビューやら書評やらが飛び交うだけのことはある、含蓄に富んだ内容であった。
そんな名文に敬意を表しつつ、私しか書かないような「え?そこかい!」と突っ込まれそうな感想を述べたい。
それは第十四章の「アイデンティティ熱のゆくえ」に出てくる生徒会長が「習っていた武術」についてだ。
ちょっとグリーンな「僕」は「空手」だと言っていたが、本当に空手なのだろうか。
いきなり回し蹴りを放つというのは、いかにもフルコンタクト系の空手っぽいとは思う。
だが、空手とは中国の、特に南方の武術が琉球で独自の発展を遂げたもの(だから私は空手は大和の文化とは思えない)で、中国人にとっては「自分たちの方が源流」という自負がある。
そこに反日感情なども相まって、中国人にとって空手というのは必ずしもいいイメージを持たれておらず、だからカンフー映画で空手使いが悪役・仇役という設定は定番である。
くだんの生徒会長の父親は、恐らく私より少し上の、ブルース・リーの直撃世代である可能性が高い。
もしこの父親が、子供の頃にブルース・リーの映画を観ていて、料理人でしかも何らかの拳術を習得しているというラウ・チェンのような人物であれば、生徒会長には空手を習わせるよりも、自分でその拳術を教えるであろう。
いやかなり設定が飛躍して妄想になってるけど。
あとこれは、中国武術に限った話ではないのだが、武術は古くて伝統的なものほど、いきなり回し蹴りでしかけるというのは考え辛い。
いや、それこそジークンドーならそれもありか。
ところで私も高校生の時に、カラテ(ベスト)・キッドを映画館で観たのだが、「ああ、西洋人にとって空手や日本文化というのはこういうイメージなのか」と思ったものだ。
もっとも日本人とて、そんなことは気にせずにあの映画を観ていただろう。
ついでに言うなら高校生の時分に、アーティスト名も曲名も忘れてしまったのだが、ブルース・リーを称える歌があって、でもその曲ではリーは空手使いということになっていて、でもでもその白人アーティストには悪気は全くなかっただろうし。
ブルース・リーもジャッキー・チェンも、西洋の映像作品では日本人という設定にされたことがあった。
そういえばミュータント・タートルズの忍術は韓国のものという設定だった。
そもそも西洋人にとって東洋人は大陸も半島も島国もごちゃ混ぜなのだ。
ましてや空手もカンフーも、とにかく東洋の打撃系戦闘術なら、まとめて「空手」だと認識していても不思議ではない。
いや実際には多くの日本人も「空手とカンフーってどう違うの?」といった感覚であろう。
ちょっとグリーンな「僕」は、こういった感覚は西洋人寄りなのだろうか。
それとも意外と?知識豊富で、その上で生徒会長が習っていたのは「空手」だと言ったのだろうか。
どんな武術の、どの流派を修業しているかということは、それなりに「アイデンティティ」に影響するものだ。
そしてそれは戦闘力の高さという、かなり原初的な価値観に基づいており、往々にして排他的になりがちである。
その象徴として、例えば「秘伝」というものがある。
「ウチの流派にはこんな秘伝がある。だからそれを知らない他流よりも強い」といった具合だ。
だがやはりインターネットの影響は大きく、以前なら秘伝とされていた動きも動画で観られるようになり、流派間の交流も進んでお互いにリスペクトするという姿勢が目立ち始めた(少なくとも表向きは)昨今、露骨な排他性は薄まる傾向にある。…かな。
私はその方がいいと思っているし、生徒会長の父親がそういう人物であれば、息子に空手を習わせることにも抵抗はなかろう。
いや実は生徒会長が習っていたのはテコンドーだったというオチかもしれないわけだが。
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