中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

北欧音楽祭すわ

2018年10月09日 16時57分37秒 | 日記
北欧音楽祭すわを訪ねた。

これは下諏訪で行われている、諏訪交響楽団の武井勇二さんが実行委員長になって、すでに20年つづいている音楽祭だ。
これは岡谷市出身の指揮者・渡邉暁雄を顕彰して、企画されたものだ。

渡邉は戦後の日本の音楽界を牽引した指揮者であり、東京芸術大学では、岩城宏之や山本直純などの門下生が輩出する。

父忠雄は岡谷市出身で、下諏訪のキリスト教会に入り、牧師となってフィンランドに渡る。フィンランド神学校を出たのち、フィンランド人のシーリと知り合い、二人は当時としては珍しい国際結婚をしている。二人は岡谷に戻り、二人の男子をもうける。その次男が暁雄である。ちなみに兄は共同通信社にjはいり、ロンドンに長く居住しジャーナリストとして活躍した。

母シーリは、日本に来るときに、キャンドル立てがついているアップライトピアノを持ってきた。当時、日本にはピアノもろくにない状態。これは、のちにピアノ界の大御所井口基成の最初のピアノとなった。基成の父は日本キリスト教団の熱心な信者で、渡邉家と知り合いになった。そんな縁で、子供たちが音楽をするというときにこのピアノが井口家にもらわれていったのだった。このあたりは、現在「モーストリー・クラシック」で連載中の「鍵盤の血脈」を読んでいただきたいとおもいます。

さて、母である声楽家のシーリの才能と影響をうけて、
暁雄は、東京芸術大学を出て、ニューヨークのジュリアード音楽院に学んだ。

北欧音楽祭すわの名誉会長である暁雄の長男でピアニストの康雄によると、暁雄は、ピアノもヴァイオリンもうまかったそうだ。
彼は、芸大のヴァイオリンに学び、のちに井口基成と桐朋学園を創立する斎藤秀雄らと、室内楽運動などもしていた。

戦後になって、ジュリアードで指揮を学んだ。ここで暁雄は、劇場経営や楽団経営を学び、指揮をも学んだ。
これは日本人指揮者としては、初留学となる。

このときの知識をもちかえり、渡邉は、日本フィルハーモニー交響楽団の創立にかかわる。

康雄によると、「父と二人でタクシーにのって喋っていると、運転手さんに、日本語がお上手ですね、なんていわれる時代で、父はハーフということでいろいろ苦労したと思います」という話が、音楽祭のパーティーであった。
そうだよね、いまでこそ、認知されているけれど、大坂なおみさんとか、・・・日本人の優勝と騒がれているけれど、彼女も結構差別という目にあったと聞いています・・・それがときをさかのぼって、昭和の最初なのですから、当然、差別のなかで育ったはずです。

ただ面白いのは、暁雄さんが結婚した相手が、元総理大臣鳩山一郎の娘。最初は節子さんと恋に落ちたらしい。しかし、彼女は白血病で早くになくなった・・・。
その彼女にピアノを教えていたのは、井口基成の妹の愛子・・・・・鳩山家とはいろいろ縁が深い井口家ですが、これも「鍵盤の血脈」に譲りましょう。もうだいぶ前にこのことや、基成が芸術院賞をとったときのパーティーは鳩山御殿でした、という話を書きました。戦時中であるにもかかわらず、基成は酒を集め、寿司をにぎらせ・・・・。

暁雄は、それでも情熱的に、節子と結婚、亡くなってからは、なんとその妹の信子と結婚したのです。
何しろ、かっこいいです。

(続く)





井口ファミリーの率直・誠実さ

2018年09月10日 13時55分57秒 | 日記
「モーストリー・クラシック」で井口基成伝を執筆中です。

井口基成は、中村紘子の先生筋でもあります。

そのために、ご親戚、ご家族ご一同が、ほんとうに協力してくれました。

士族だったけれど、もともと東京の下町、隅田川の大橋生まれで、神田で育った井口基成。
下町の率直さが、ご家族にはあります。

ご兄弟、親戚とも、事実をずばり!!と。
諧謔をこめて、基成を批判的に捉えるような発言も多々あります。

それは下町っ子の率直さと、井口家のファミリー・ヒストリーが、あまりにも混乱した、苦しいまでのものだったからかもしれません。

息子さん、お嬢さん。ご親族。彼らの発言だけでも、井口家の物語ができそうなくらいでした。

いよいよ、お話は戦後に・・・・大業績となった楽譜の校訂や、桐朋学園音楽科設立の話にむかいます。

それにしても、災害が多い。

この夏休みは、妹・中丸三千繪がいる北海道を訪ねて、帯広の日本一といわれる花火をみたり、生まれて2週間ぐらいの子牛にバケツからミルクをのませたり、温泉にはいって楽しんできたりしたけど、その北海道が、たいへんな地震にみまわれました。帯広の病院はたいへんなことになってるようです。原発がないのが幸いでした。


全国あちこちでおきる災害。天災だよね、奈良時代なら。こんな天災がおきたとき、お寺つくったり。安倍さん、大丈夫でしょうか。

小澤征爾という神話・・・講演を行いました。

2018年07月04日 11時35分33秒 | 日記
6月初旬、東京・六本木の国際交流会館・・・重要文化財だそうです・・・において、「小澤征爾という神話」の講演をおこないました。
主催は、大阪にある國民会館。
これは鐘紡を創設した武藤山治を顕彰する組織で、その建物も歴史的なものとなっているようです。

当日は、約2時間にわたり、小澤征爾さんをめぐって資料から明らかになった小澤像や、関係者の取材のなかで浮かび上がってきた新事実についてなど、講演しました。

また日本人ばなれした小澤さんのリズム感・・・の紹介として、CDも聴いていただきました。
選曲はベートーヴェンの7番。朝比奈隆指揮・NHK交響楽団と、小澤指揮サイトウ・キネン・オーケストラを連続して、聴き比べてもらいました。
この比較鑑賞は評判がよかったです。

本当にまったく違います!

この講演の抜粋が、國民会館のホームページにのることになるようです。

言葉たりないところもあるけれど、概要は知っていただくことができます。

現在、拙著「小澤征爾という神話」は推敲段階。
今年、小澤さんは、松本でのフェスティバルで指揮はしないけれど、現地には滞在するようです。

すでに猛暑の夏!
体力を温存してほしいですね。


小澤征爾さん入院ー奥志賀高原ー愛子さまスキー

2018年04月09日 16時28分37秒 | 日記
小澤さんをめぐる本のために、小澤さんを追って何年がたつだろうか。

先日、大動脈の異変で入院の小澤さん。
検査も長引き、水戸室内も別府のアルゲリッチ音楽祭もキャンセルとなってしまった。

これでは、いよいよ夏の松本のフェスも??とおもいきや、夏の復帰をめざすという情報がはいってきた。
さすが、小澤さんである。

週末わたしは、なんと志賀高原へいった。
ここは小澤さんがまだ桐朋学園在学中、恩師斎藤秀雄らが好んでスキーにきていた場所である。
さらに、斎藤秀雄が最期に生徒たちを指揮した桐朋の合宿もおこなわれた場所である。
このとき、斎藤が指揮した「ディヴェルティメント」を小澤さんは、サイトウ•キネン・オーケストラのテーマソング?のようにしていて、アンコールやだれかが亡くなったとき、ご自分の病からの復帰で長い曲が指揮できなくなったときなどにとりあげてきた。

小澤さんは、志賀高原より、もっと山にある奥志賀高原で室内楽セミナーを長年おこなっている。
この奥志賀高原との縁も、そもそもはスキーからだった。
小澤さんは「どんな貧乏なときでもスキーをしてきた」というほどのスキー愛好家である。
病を得てからも、ひとりでも新幹線で奥志賀高原にむかったものである。
ケネディ賞を受賞した小澤さんは、その前かあとかどちらだったか、キャサリン・ケネディ前駐日米国大使とも滑っている。


ここに、小澤さんは別荘ももっている。
それは、奥志賀高原でスキー学校を開いている杉山進さんから土地を買ったものだ。
杉山さんは、コルチナ冬季オリンピックのアルペンスキー選手。
オーストリア国家が認定したスキー教師の資格をもつ。
スキー学校の先駆けのかたである。
この方が、小澤さんのスキーの先生でもある。
お歳は、小澤さんより三つ上。
そもそもは、小澤さんの子供たちが学校からいったスキー学校が杉山さんのところで、その縁で、小澤さんと杉山さんは出会う。
そんな縁で、小澤さんは杉山さんのスキー学校を借りて、そのカフェテリアや講堂やらで、室内楽セミナーをおこない、その最終日に、長野電鉄が小澤さんのためにたてた「森の音楽堂」で演奏会をおこなってきた。


杉山さんにお電話をする。
「こんど奥志賀にいくのですけど、どなたかに子供にスキーを教えていただきたい」
「その週末、僕は仕事なんだ、会いに行きたいけど、残念だなあ」

こうして奥志賀高原にでかけ、杉山スクールの先生に指導をうけることに。

シーズンが済んだこの時期の奥志賀は、客も少ない。
驚いたことに、外国人従業員が多い!
当然、客も欧米人、少しのアジア系。

小澤さんのために長野電鉄がたてた「森の音楽堂」は、ひっそりと静まりかえっている。
この音楽堂、どのくらいつかっているのか。
スキーが釜の飯よりも好きという夫がつぶやく。
「小澤さんのためにたてたのだろうけれど、あまり使われていないようだな。長野電鉄は、そんなお金を、長野行きの直行バスを出すとに投入すれば、もっとスキー客が集まるだろうに。この時期でもまだまだ奥志賀高原はスキーができるんだ。アクセスが悪すぎるから客があるまらない・・・」などと、スキー第一主義の発言をする。

たしかに少ない。
スキー人口はますます減っているようで、下手な私は、間違った方向に滑って行って、マイゲレンテ状態が続いた。
だれもいない森のなかを滑る・・・・・これはたいへんに気持ちがいい!!!
増えてほしくない。、、、、スキー客。
でも、夫は経済人でもないのに、繁栄を口にする。

志賀高原の地元発行の冊子によると、愛子さまも、三月末にはいらしたようである。
そうそう、ここには毎年、皇太子夫妻がいらしているのだ。杉山さんが指導にあたられてきた、とも聞いた。
愛子さまもお小さいときから滑っているのだろう。
上級コースを滑られるほどの腕?というか、足?をもってらっしゃるらしい。
颯爽たる滑りのほどを見せる写真が掲載されていた。

小澤さんは、一時軽井沢で講習をおこなうことをめざしていた時期がある。軽井沢が天皇ご一家の保養地の一つであるとすれば、ここ奥志賀高原は、皇太子ご夫妻の保養地の一つ。
天皇になられたら、ここ奥志賀高原の注目度があがるのでしょう。

昨日は雪が降った。
奥志賀高原ではまだまだ春スキーが楽しめそうである。
小澤さんが、この冬もスキーをしたかどうか。ひとりで新幹線にのってでも、冬の長野に通った小澤さんである。
ぜったいに滑ったと確信している。そのときちょっと息苦しく感じたのかしら。それで検査にいったら____
ということもありそうである。

夏の松本での復活、楽しみにしています。






小平奈緒選手の伯母様は、松本での小澤征爾フェスのー

2018年02月19日 15時11分27秒 | 日記
小平奈緒選手、金おめでとう!!!
オランダへの留学!!!!決意!!!!
一発勝負を仕留めるこの美しい、マニッシュな獣。彼女の伯母様は、ー小澤征爾さんが松本市で行なっているフェスティバルの仕掛人、元エプソン勤務の武井勇二さんのおくさまえです。チトヤヤコシイ?。

武井さんは、1980年代、小澤さんがどこかでフェスティバルができないか、といったときに、エプソンの中村社長ー世界で初めてクオーツ時計を開発したーを口説いて、スポンサーとして、松本にフェスティバルを持って来させた仕掛人なのです。
以来、ご本人曰く、おいらが先に死ぬか、小澤さんが逝くか、ーというくらいで、フェスティバルの要、総合コーディネーターを務め、小澤さんを支えてきました。
この武井さんの奥様が、小平奈緒選手のおばさまのみちこさま。
活発で、シャキリとなさっている素敵な方で、
フェスティバルのときの演奏会でも、私が〜すぐにおそばに寄りたくなる方です。
なんでもみちこさんは、わりあい最近登山をはじめられ、で、こノー奥様、ーさすが、ガンガン登られてるいうです。
一方で、勇二さんの方は、諏訪交響楽団では若いときにヴィオラ弾いていたくらいで、そんな若いときに小澤さんとしりあったくらいの音楽狂。
みちこさまに付き合って登山することもあるらしいのですが、滑落もあって。。。。。
しかし、ともかく、
世界一というのは、epsonにしろ、小平奈緒選手にとって、みじかなものだったようです。
小澤さんも、比べることが難しい音楽だけれど、世界一と言われるオペラハウスの音楽監督でした!
このオリンピックがはじまってから、毎日武井さんのことも、おもいだしていたわたしでした。

なおさんおめでとうううううう!!!!!!



大学センター試験に出た朝比奈隆

2018年02月10日 11時48分23秒 | 日記
ありがとう!!!

のぶのぶさーん!!
朝比奈先生の記述は、センター試験世界史BP.46
第4問C文にありますーとのこと!!!
シュテルン氏がらみでしたか!!!
今年はムーミンでも話題になったけれど、一般常識のようなものが問われる時代になったのかな、、、、
そういえば、かつての、戦前の旧制高校は、教養主義で素晴らしかったといったのは、朝比奈さんの親友、住友と三井銀行を合併させた、三井住友銀行最高顧問となった伊部恭之助氏でした!
ー伊部さが語る朝比奈さん、学生時代のやんちゃでおっちょこちょいの朝比奈さん、「オーケストラ、それは我なり、朝比奈隆四つの試練」ー試練のーその2にかかわってきます!!
お懐かしい朝比奈さーーーーん!!!!

試験に登場して、さぞかし喜んでいるでしょう。

「書くのは自由だ」といって、書く権利と自由を認めてくれたうえで、色々ー語ってくれたあああ。
大人物です!!
そんな巡り合った人が、歴史のなかに生きるのを見るのは、格別なものです。

大学センター試験に出た朝比奈隆

2018年02月09日 10時26分25秒 | 日記
ありがとう!!!

のぶのぶさーん!!
朝比奈先生の記述は、センター試験世界史BP.46
第4問C文にありますーとのこと!!!
シュテルン氏がらみでしたか!!!
今年はムーミンでも話題になったけれど、一般常識のようなものが問われる時代になったのかな、、、、
そういえば、かつての、戦前の旧制高校は、教養主義で素晴らしかったといったのは、朝比奈さんの親友、住友と三井銀行を合併させた、三井住友銀行最高顧問となった伊部恭之助氏でした!
ー伊部さが語る朝比奈さん、学生時代のやんちゃでおっちょこちょいの朝比奈さん、「オーケストラ、それは我なり、朝比奈隆四つの試練」ー試練のーその2にかかわってきます!!
お懐かしい朝比奈さーーーーん!!!!

試験に登場して、さぞかし喜んでいるでしょう。

「書くのは自由だ」といって、書く権利と自由を認めてくれたうえで、色々ー語ってくれたあああ。
大人物です!!
そんな巡り合った人が、歴史のなかに生きるのを見るのは、格別なものです。

朝比奈隆が大学センター試験問題に!!!

2018年02月07日 09時40分58秒 | 日記
小澤征爾さんについての取材で、新日本フィルの創立当初からマネージャー、のちには楽団主幹として小澤さんを支えた松原千代繁さんに取材!
場所はサントリーホール前のフレンチ。

松原さんには、「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練」でもお世話になった。その出版の際には、麻布などのバーでご馳走にもなっていました。おしゃれで、凄く頭の回転の知識もある方である。
中公文庫になってから、そういえばゆっくりお話しもしていなかったわけで、文庫を持参しました!

すると、「今年の大学センター試験で、朝比奈さんの問題が出たのよ」とおっしゃるではないか!!!
「問題は、朝比奈隆とハルビン交響楽団について述べよ、だった」
「え!!!!」
日本史の問題なのか、センター試験にうといわたしは、わからず、叫んでしまった。
「そういう 時代になったのよ」
歴史のなかで生き残り、戦争中に日本が支配した上海の交響楽団の指揮者として、軍部にとりたてられて向かった朝比奈さん。ーー
この本は、ご本人にも十数回にわたって取材。
ー日の丸を背負っていきましたよ!!
といっていた。
そもそもー朝比奈が大陸に向かったには、上海交響楽団にとりたてれることになったからだ。ー面白いから是非この本を読んでほしい。織田作之助賞もいただきましたよ!

上海に朝比奈を推薦したのは陸軍将校の中川牧三だった。

中川さんは京都出身、わたしがお目にかかったときは90歳を超えていたのか、いないのか。ー背の高いかっこいいオジサマであった。モテてモテてしかたがなく、何回結婚したのだろうか、、、という音楽家である。声楽家で、イタリア留学もしていたから語学も得意。
かれが朝比奈をとりたてたのは、 「 日本人離れした体型と、顔つき、性格的にも鷹揚で、外国人楽員の心をぐっと掴める指揮者だから、わたしの一存で決めた」
ボロボロのホームレスのような格好で上海に着いた朝比奈だったらしい。
中川先生の話も実に面白いので、本文をーどうぞ!!!

さらにその後、朝比奈は高給が出る満州のハルビン交響楽団の指揮者へ。
そこでは、関東大震災で大杉栄を虐殺した甘粕正彦が、復権していた。
ー李香蘭と、ぼくが、甘粕さんの両手に華、というか。
と、朝比奈さんは愉快そうに語ったものだった。


小澤征爾さんをめぐるノンフィクション本の取材

2017年12月21日 16時49分59秒 | 日記
いよいよ大詰めの取材となってきました!

今回は、新日本フィルハーモニー交響楽団で、長く、ながーーーーーーーくコンサートマスターをつとめ、また小澤さんと秋山和慶さんがはじめたサイトウ・キネン・オーケストラでも、創立当時から現在にいたる30数年にわたってコンサートマスターをつとめている豊嶋泰嗣さんのお話をききました!

新日本フィル定期の練習後、楽屋に訪ね、そこで約一時間半。
小澤さんは、新日本フィルではイラつきを見せることがあったということ。サイトウ・キネンではまったく見せなかったとのこと、そのコントラストは、驚きでした。

そもそも、小澤さんというかたは、神経がとがったかたです。
一般には、なにかフランクな、人のいい、かんじのいい方、という印象なのですが、いったん音楽ともなると、あるいはビジネスともなると、それは一変します。

そういう詳細を、豊嶋さんのお話からも確認できました。

さらに、豊嶋さんは、「小澤さんは、もっと音楽に接する時間を多くすべきだ」ともおっしゃっている。そもそも病気になるまでは、いわば単身赴任を数十年にわたってつづけてきた小澤さん。最近は日本で、家族といっしょなので、音楽よりも家族が優先となっているのでしょう。
来年一月に予定されていたベルリン・フィルの公演も、キャンセルとなってしまいました。
具合がいま、悪いわけでなく、長く飛行時間のあと、仕事という緊張に堪えられないと、判断したらしい。

秋には、家族たちとハワイにもでかけてはいるので、ファンのかたがたはご安心を!

豊嶋さんとのお話がつづき、時計はすでに20:30
「どこかでご飯たべましょうか」
と声をかけずにはいられませんでした!
「いいですね」

そういうところが好きですよ。朝比奈伝のときも、豊嶋さんは貴重な証言をしてくれました。今回も、喜んで(マネージャー談)笑顔で、取材OKと。


向かった先は、白金の住宅街にある店。豊嶋さんは現在、京都芸術大学で教鞭をとってもいるそうだけれど、麻布にもマンションをかまえてらっしゃるとのことで、いきつけのお店でした!
カウンターだけのお店。なかはほぼ満員で、すごい熱気です。住宅街の隠れ家という雰囲気。
豊嶋さんがあらかじめ電話してくれていたために、マスターがいちばん奥の席を二席とってくれていました。

すると、そこには征爾さんの長男の征悦さんがいらっしゃるではないですか。それも、カウンターがロの字だか、コの字型になっているのだけれど、そのなかにいる。スタッフの側にはいっているのです。

彼が10才ぐらいから知っている豊嶋さん。
そして、征悦さんのお席がわたしたちの隣でした。
わたしは、いちばん端の席にすわろうとしましたが、豊嶋さん、
「取材、取材したらいいよお」
と、わたしを彼の脇に座らせるのでした。
それから、30分ぐらい、どうして役者になったのですか、という素朴な疑問からはじまり、息子からみた小澤征爾さんについてすこしばかり聞いちゃいました。でも、オフなのに、悪いな・・・という常識人的なところが、わたしにはございまして・・・・

たまたま「トットちゃん」という昼の連続ドラマも録画しているわたしです。
黒柳徹子さんのお父さんは、元NHK交響楽団(新交響楽団)にいて、わたしが伝記(「嬉遊曲、鳴りやまず」)を書いた同団の首席チェロ奏者だった斎藤秀雄ときわめて近い関係でしたから、斎藤さんがテレビにも登場するのではないか、と。また奥さんである黒柳朝さんは、その斎藤伝のときに、取材をさせてもらい、いろいろ面白い当時のだんなさまと斎藤さんとの関係、音楽のお話をうかがったという縁もあり、見ずにいられましょうか、という気持ちで録画しているのでした。
そこに征悦さんが、インド人系の役で出演していたというわけで、話はもりあがりました!

とても素直な・・・・そういえば、松本のフェスティバルで、数年前、はじめて征悦さんを見ました。長く通っている松本ですが、初めてでした。
同伴しているのは、滝川クリステル・・・。
ふたりは、しかし、別れてしまった。豊嶋さんとだけの会話で、豊嶋さんは、「もう終わった」
ふたりの結婚は、小澤家側の反対で成就しませんでした。
いい加減、お酒がすすんだ状態になってきた私は、
「反対されても押し切ればいいのに」
と豊嶋さんにいってしまった。

いい青年です。
小澤家は結束の固い一族ですから、なかなか他者を受け入れられません。
長女の征良さんのところも・・・・・。
結局、小澤家の人だけになってしまっています。
彼には幸せになってほしいなあ。
「トットちゃん」のインド系の役をみると、彼の人柄がそのままでているのではないか、と思うくらいです。
お正月には、TBS系で、小池百合子をモデルとしかたのような番組をやるそうで、そこに出演する!といってました!
今後のご活躍を祈ってますよお・
また、豊嶋さんも、今後、京都でも大車輪のご活躍を期待できそうです!!1





水戸室内管弦楽団100回定期演奏会のよもやま話

2017年10月19日 16時02分50秒 | 日記
水戸も100回を迎えるのかあ。
それにしても友の会会員になっていても、小澤さんが振る演奏会というのは、まったくチケットがとれたことはない。ただし、なぜかキャンセルが出るらしく、当日朝には販売されるようで、これは、小澤さんが前回アルゲリッチと共演したときもそうだった。
しかし、東京に住んでいては、なかなか当時朝早く並ぶのは難しい。

それにしてもチケットの値段が!!!!
前回も今回も、そんなに高いチケットではいけないし、またツテをたどって必死になるというのも、気が引けて・・・そのままにしていた。

ところが、本の10日前ほどにあった方から、「水戸こないの?」といわれ、「とてもとても」というと、「おいでなさいよ。チケット取るから」とのことで、なにやら関係者には入手ルートがあるようである。

結局わたしは、その日水戸にいた。
雨が肌寒く振る晩であった。芸術館前のそば屋「萬庵」による。ここは地元の人に紹介された店だが(わたしは茨城出身で、水戸には知り合いも親戚もいる。生まれは水戸から40分ほどの下館である)、ここで楽員の人にあったこともあり、(チェロの松波恵子さん)、それで取材を申し込んだこともありました!

その日は、カウンターにひとり・・・店は、なんとなくこれから演奏会に行きそうな人々で賑わっていた。

そこに、二人の女性がわたしの脇に座った。
茨城の人は気さくだ。
江戸英雄さんもそうだった。言わずと知れた小澤さんの最初の夫人江戸京子さんのお父さん。
わたしが江戸さんを三井不動産本社に訪たとき、当方が茨城出身としると、ああ懐かしい茨城弁で「茨城出身で、よくこんなこと(書くという仕事)やってんなあ」とおっしゃった。
茨城の文化にコンプレックスをもっている江戸さんであった。

その彼が芸術館創立時の事務長である。
小澤さんが館長に就任したとき「ここは、ぼくの最初の女房の京子ちゃんの親父さんの生まれ故郷なんです」なんてことまで、いってしまう。

そんな江戸さんは、まさに茨城人の率直さで、わたしが当時取材していた、斎藤秀雄の生涯について語ってくれたものだ。桐朋学園の創立は、父兄であった江戸さん、さらに奥様の弘子先生ほかの先生方、さらに音楽科を受け入れた懐の深い桐朋の生江義男校長の協力なしにはできなかった。そのうえ、妹純子さん、涼子さんも桐朋である。江戸さんは父兄として、桐朋に音楽科をつくることに尽力した。

さて、そんな人懐っこい茨城人から萬庵で話しかけられた。
「演奏会にこれからいくのですか』「きょうのチケット代いくらですか』
「25000円でした。S席は30000でしたけど」
 チケットを知り合いから手渡された時、S券でなくてよかった、と思ったものである。
 すると、「これまで一番高いチケットは15000円だったのに、前回小澤さんが出たときは28000円がS席。どうなっちゃんでしょう」

彼女たちはどうやら美術愛好家らしいのである。芸術館ではもっぱら美術鑑賞らしく、かなりな人々と見た。
音楽界のこのチケットの値段はまったくもって理解できないことだろう。

しかし、会場をみると、ほぼ満席である。
指揮者に対面する席が空いているのがわたしの席からは見えた。

そして、小澤さんの登場は、第9の3、4楽章。
もちろん拍手がバポラークが指揮台を降りると、起きましたよ!
ここまででも素晴らしい演奏で、このまま聴きたい気持ちだったが。
ここで聴くほうも一息いれなければならない。
小澤さんがすぐ登場するのでなく、指揮台には椅子が置かれ、ステージマネージャーが高さや安全性をためしているのか、そこに座って、ペットボトルを置き、楽譜を置いた!!!!「暗譜の神様」といわれる小澤さんは、今年はアンプをしていない。夏の松本でもそうだったし、ここ水戸でも!!!もう暗譜はやめたのかもしれない。
小澤さんの登場で、また拍手が起こった。

疾走するベートーヴェンである。
最後は、フルートのトーンドゥルの音がピーーーーーーと響きわたっていた。
皆、必死の、全力投球のベートーヴェンであり、その疾走感たるや!!!

そういう演奏会でした!





中丸三千繪コンサートに井上道義さん

2017年06月22日 10時12分10秒 | 日記
紀尾井ホールで、三千繪のリサイタルがあった。ふた見ると、井上道義さんがきている。
妹のリサイタルにいらっしゃるのは、久しぶりではないか!
「道義さん、どうして? みちえから連絡がいったんですか?」
「いや、こっちから連絡したの。どうしてるかな、と思って」
 
わたしは、小沢征爾さんの伝記を執筆中で、道義さんにも取材をして自宅を訪ねている。マンションの一階の部屋は、そのマンションの一階すべてを占領しているような広い部屋で、庭にでるとプールがあり、そこにアヒルがいた。なんでも、まひるという名前だそうだ。

小澤伝は脱稿寸前になってきて、道義さんにはいちど原稿の確認をとりたいと思っていたところだ。
「京都で講演会をするから、来ない?」
 芸術についてだそうで、これまでだれもいわなかったことをいう・・・という。行きたい!!!

 道義さんは、アバドに才能を見出された人物だ。
 アバドがなくなったとき、小澤さんは朝日のインタビューで、「自己管理がうまいクラウディオなので」治るとおもっていた、とかなんとかいうコメントをよせていたが、産経新聞に載った井上道義の追悼文は、もうすこしアバドがどんな人か、道義さん自身のことをも交えて書かれた心に響くものだった。
 小澤さんはカラヤンやバーンスタインに可愛がられ、ひきあげてもらったが、それと同じことが道義さんにも起こったはずなのだ。

ところが、彼は自分からアバドを離れてしまった。

それは自分は斎藤秀雄とチェリビダッケの弟子と自認していて、アバド・・・に、とは思わなかったこと。
アバドの音楽も好きじゃなかった、ことなど。

小澤さんはカラヤンを最後までしっかりと師として仰いでいた。
 
率直な道義さん。
大阪フィルを辞めた理由もたずねてみた。
それはどうやら、自分が思ったことをできない状況にあるから、ということらしい。
大阪フィルは、大阪の補助を京都ほど受けられない。
組合が強く・・・・など。
音楽はお金がかかるものである。
そういうことらしい。

小澤さんですら、原発には大反対らしいのだが、自分で声をあげることはない。
それは企業にスポンサーになってもらわなくてはならない、ということがあるから、とお兄さんの俊夫さんはいっていた。

音楽とお金・・・・。

これはそもそも音楽が王侯貴族のものだった時代から、ワーグナーの時代をへて、かわらないですなあ。



小澤征爾伝ー日本航空元機長の白崎さんを取材する

2017年04月25日 13時20分31秒 | 日記
日本航空時代の同期が、小澤さんの大ファンだったというのは、驚きだった!

たまたま「日本航空一期生」の話から、いまわたしが何を書いているのか、という話になり・・・・

小澤征爾さんの評伝・・・というと、「うちの主人が小澤さんのファンで、よく知っている」というではありませんか!

小澤さんは、航空会社の人は、わりあい心を許しているようで、全日空の熟女のキャビンアテンダントの方からは、小澤さんとニューヨーク便で一緒になることが多く、そういうときは、みなでニューヨークついたらご飯食べようよ、というので、何回もごいっしょしたました。。。というのである。

さて、白崎さんとわたしの同期の妻と、三人で恵比寿の蕎麦会席の店で会う。
半個室である。
「一度、会ってみたかった」といわれました。というのは、彼は「嬉遊曲鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯」も、「オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練」も読んでくださっていて、妻の同期でこんな本かいているのは、どんなやつだろう、と思っていたようなのである。

さて、蕎麦をすすりながら、本題にはいる。こうなると、ランチどころではない。
だから取材のときは、なるべくお茶にしているのだ。
箸をつかうより、ペンを走らせ、メモをとるほうが忙しいのである。
それなのに、それにも慣れているわたしは、箸とペンを両方、使い、食もすすんでします。

さて、本題にもどる。
白崎さんの場合は、JALだったから、というメリットはだいぶあとに訪れる。
彼は札幌生まれで、小学校から管楽器を・・・・札幌放送管弦楽団ジュニアにも所属していたそうだ。
小澤さんを最初に聞いたのは、まだ日本フィルが分裂するまえの札幌公演だそう・・・。

そのあと、JALに訓練生としてサンフランシスコでの訓練中・・小澤さんがサンフランシスコ交響楽団の音楽監督をしていた時代も、聞いたそうである。

そして、彼は機長になり、世界の音楽会に行くようになった・・・・。

そして、ある日、ニューヨーク便の操縦桿をにぎっているとき、スチュワーデスから「機長、きょうは小澤征爾さんが搭乗なさっています」との報告をうけるのだった。

じゃあ、会おう、ということになり、小澤さんを操縦室に見学に誘い、ーそのころはテロという危険もない時代ー公演くるなら、いってよ、といわれ、カーネギーホールのボストン交響楽団を指揮する小澤さんを聞きに行くことになっていたとのことで、それからの長い付き合いがはじまったというわけだそうである。

パリでは小澤さんとご飯をたべ、ボストンでは小澤さんにシンフォニーホールを案内してもらった。
ロンドンのウィーンフィルのときはチケットが入手できず、楽屋まえで小澤さんを待ち伏せ・・・チケットを用意してくれた。
ウィーンのニューイヤーのときは、チケットつきのツアーで、ウィーンにのりこみ、リハーサルからきかせてもらう・・・・。

と。。。徹底してます。

なんと一時から6時まで、三人も話はつづいたのであった。「日本航空一期生」の話も混じり、それだけの時間があっても、それでも話足りない・・・盛り上がりでした。


水戸で林真理子さん、岩井志麻子さん、文春の浅利茉莉子さんと

2017年02月21日 18時15分50秒 | 日記
わたしは茨城県下館市出身。
このたび、妹の中丸三千繪が大会委員長となる「エンジン01文化戦略会議」が、水戸で開催されることになり、招かれました。
林真理子さんが、この会議の幹事長!

200人くらいの、ーいわゆる文化人というのでしょうか、ーが、この会に所属していて、年に一度、全国の地方自治体の力をかりて、座談やシンポジウムをおこなうというものです。

先週金曜日から、初日は、県民文化センターでシンポジウム、コンサートなどが開かれました。
水戸藩の成り立ち・・・・では、井沢元彦さん、現・徳川15代当主、池辺晋一郎さんらのシンポジウム。コンサートでは、三千繪や仲道郁代さん、熊本マリさんらがつぎつぎと登場しました。
もりあがりましたね!

また、その後のオープニングパーティーでいただいた、常陸牛のお寿司の美味しかったこと!
一皿に2巻ずつのっていましたが、ついついおかわりしてしまいました。

あとできくところによると、ロースのさらに真ん中の部分で、一巻2000円もするのだとか。
通常はどこで、食べられるのでしょうかあああああ!

翌日は、茨城大学に場所をうつして、10いくつの教室で、同時に講座が開かれるというもの。一時限から四時限まで。

わたしは、林さん、岩井さん、浅利さんと。浅利さんは、芥川賞作家を育てた新進の編集者。出版界人々の組み合わせで、当日30分前にあつまって打ち合わせをするとのことでした。
「文学のあることないこと」という、なんとも、ぼんやりしたテーマ!

前日のパーティーで林さんにあったとき、なにを話せばいいのでしょうか・・・・?とお聞きすると、「そうなの、いったいだれが決めたの?!」と焦っているご様子。
「中丸さん、司会してください!」といいわたされ、幹事長の仰せに、うなづくわたし。

宿泊先のホテルでは、みなの共通点がなにかをさぐるネット三昧でした。

しかし、翌日になると、幹事長さまは、「わたしが司会やります」とのこと。当然、そうですよねえ。

でも、林さん、それだけで打ち合わせがないんですよおおお。

まあ、みな心臓に毛がはえているからか、わりにスムーズにもりあがりました。
岩井さんは、ソープとか、暴力とか、最近興味をもってらっしゃる。また林さんは、純文学の作品がよくわからない。。。というような話で、なぜか、わたしが、それらを弁護するような形になっているな、と思いながら、マイクをにぎってしまって。。。。
わたしって、窮極のバランス人間。和をもって尊しとする、という人間なんだな、とおもいつつ、「本がなぜうれないのか」とか、いう林幹事長の最近の課題をさまよいながら・・・・。

人物伝で面白いのは、男女関係・・と林さん。
ノンフィクションだと、クレームがくるというような話が、わたしに振られたとき、

わたしが書いた杉村春子伝について・・・
そのことで、話したことは人工流産の話になりました。

それは、女優という世間的な地位がそういう時代であったこと。それによって、杉村さんが女優として立つ決意ができたことなどは、うううう、結局、触れることができなかったのが、残念でしたあああ。

また、斎藤秀雄についても、お弟子さんが、先生に子供がいなかったから、僕たちを可愛がってくれた。。。という話がぬけてしまいました。
斎藤秀雄には、らい病との噂があり、やはり奥さんが人工流産をしてしまっていたのでした。

成功のうらには、かならず悲しい歴史があるものです。





井口基成伝は、今回は愛子先生の若かりしころの活躍、江戸京子さん、大江博さんのお話も掲載

2017年02月06日 12時16分31秒 | 日記
先週から風邪ひきです。そのため薬を飲んでいて、頭は朦朧・・・・。
それでも締め切りはやってくる!
「モーストリー・クラシック」
井口基成、愛子、秋子伝。

今回は基成先生がフランスより帰国。愛子先生の活躍ぶりです。

それに、ああ・・・基成の師であるイーブ・ナット!
基成がフランスを去ったあと、腸の手術が繰り返される!

グルメでグルマン。美食は病のもとなのですね。基成も、後年、まったく同じようなことに!!!

今回は基成帰国のころに愛子先生の活躍が始まったところ。たまたま「新・風訊会」(加藤国立公文書館館長の主催する会にはいっています)で、外交官の大江博さんがTPPについて語ってくれ、な、なんと、雑談のなかで、愛子先生孫弟子とわかりました。高校時代、会ったときのことを話してくれ、さっそく「モーストリー」の第15回に書きました。すごい、強烈な言葉を、吐く愛子先生!

江戸京子さん・・・小澤さんと結婚していましたね・・からはナットの話と、基成先生の話を聞きました。

江戸京子さんには、小澤さんとのことも訊いています。

これは小澤伝を楽しみに!

率直な感じのいいかたでしsた。
小澤さんは、記者会見などでも、「別れた女房の京子ちゃん」といったり、「別れた女房の京子ちゃんの親父さんの出身の茨城」などと、いろいろ修辞をつかいます。

小澤征爾伝の取材 ホルンの大野総一郎さん

2017年01月23日 21時52分45秒 | 日記

「モーストリー・クラシック」で連載した「小澤征爾異聞」を大幅加筆して、現在評伝を執筆中。
 先日は、ホルンの大野総一郎さんを取材してきました。

大野さんは、小澤さんが、サイトウ・キネン・オーケストラの初期のメンバー。
まだSKOが、日本でフェスティバルを創設するまえ、海外でまず演奏会をしていましたが、そのころからのメンバーです。
松本でおこなわれるようになったサイトウ・キネン・フェスティバルにも、第一回から参加していて、宴会の幹事!でもあったそう。

当時から、つい最近まで、フランクフルト放送管弦楽団の団員でした。ドイツ在住30年あまり。

そんな大野さん。
ドイツ音楽については知り尽くしています。
小澤さんのブラームスは、「面白いんだよね」
といいます。
またワーグナーについては、「小澤さんのアプローチは甘い」ともいいます。
「ぼくらがウイーンにいったとき、楽章の合間に席を立った観客がいた。ウィーンでは、ベートーヴェンとモーツァルトが振れないと、指揮者として認められない」
そんなことなど、まったく音楽家として率直に語ってくれたのです。

そんなこと、これまで聞いたことも、マスコミに報道されてもいません。
大野さんの取材で、これまでに見えてこなかったヨーロッパにおける小澤さんの音楽に対する評価も知ることができました。