中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

日本航空一期生 「週刊ポスト」ー著者に訊け インタビュー

2015年03月18日 11時39分44秒 | 日記
この本を、まずはスチュワーデス本と勘違いする人は多い。

それは「一期生」というタイトルからかもしれない。
でも、じつは違う。これは、日本航空が創業された年に採用された社員達全員・・・・・つまりスチュワーデスはもちろん、営業マンも、整備員も、パイロットも、そして役職員まで、わたしは含んだ意味で、一期生と呼ばせてもらった。

それでもスチュワーデス一期生は神話だ!

わたしは大学を卒業して78年から5年間JALに勤務した。
JALなら、どんな職種でもいいとおもった。それは、当時のJALは世界一の輸送量をほこり、企業として一流だった。
いわゆる男女雇用法施行以前なので、大卒女子でも結局は一般企業では、嫁入り前の腰掛けとしかみなされていず、男性社員のアシスタント、お茶汲みが仕事。。。女は愛嬌の時代。愛想さえよければ、いい、という時代だったのです。。。。昔の話だわ!!!

地上職の試験も受ける手はずになっていたけれど、先にスチュワーデスの内定をもらいました。
そのまえにも、すでにバンク・オヴ・アメリカからも内定をもらっていましたが、面接官のおじさまたちと毎日顔をあわせ、満員電車にゆられて丸の内まで往復する日々を想像したら、なんだか、トーンダウンしてしまいました。憧れの、男女平等の外資だったのですが・・・。
JALにいくときめて、ある日電話器をにぎりました。
「内定いただいたのですが、すみません。ほかの企業にいきたいとおもいます」
 公衆電話から電話したことを覚えている。すると、バンク・オブ・アメリカの方は、
「どこにいくのですか?」
『JALです」
「え!!!JAL!JALなんかにいくの、うちを蹴って』
といわれたことを、明白におぼえております。
当時、バンク・オヴ・アメリカは世界一の銀行でしたから。。。。。

それでもわたしはJALを選んだのですね。
入社すると、まずは地上研修ということで、地上職員とおなじような仕事をします。わたしは、羽田の国際線VIP接遇グループというところに配属され、税関のところまで迎えにいったり、おくりにいったり、西武の堤義明さんが大勢の写真をつれて海外にいくときも、特別ルームにご案内したことがありましたね。このとき感じたのは、乗務員を選んでよかったということ・・・。結局、航空会社って、飛行機を飛ばすために全員が働いているということを実感しましたから。やはり飛行機に乗りたい!と、強くおもうようになりました。

そもそも初めて飛行機に乗ったのは、大学時代イギリスへ2ヶ月の語学研修に出かけたとき。ホームステイは楽しく、やはり海外とつながる仕事をしたいとおもうようになったきっかけです。
当時は南回りで30時間以上かかって、ヨーロッパに・・・・そのとき、スチュワーデスさんの笑顔に救われたことを思い出したのが、JAL応募のきっかけでしたね。やはり新聞広告で、何年ぶりかにスチュワーデスを募集することを知ったのでした。

その後、訓練所を経て・・・・(じつはこの時代が楽しかった!!!!この話はいずれ・・・!

晴れて国際線客室乗務員となりました。

週刊ポストで紹介された「日本航空一期生」つづきは。。。。。。。

歴代客室乗務員の間には、こんな通説が語り継がれているという。
<神話の一桁、化石の二桁、美貌の百期、知性の二百期>・・・・
「私ですか?もちろん<体力の三百期です!(笑)
成田開港の年に、百人単位で採用された私たちと、容姿端麗・語学堪能が絶対条件だった一期の方がたでは、プライドが違うし、今回取材するまでまさに神話的存在」
 なにしろ応募1300名に対し、採用15名の超難関を突破した<エアガール>一期生。そして、航空保安庁初代長官から日本航空専務に転じた故・松尾静磨氏ら技術者たちの生涯を軸に、日本が空をとりもどすまでの道程を、戦後史とあわせて描く。

と、「週刊ポスト」ではつづきます。
そして

四度の兵役を経て、逓信省航空局で伊丹空港建設などにかかわった松尾は終戦時、42歳。昭和13年の国策会社「大日本航空」発足以降、驚異的な進化をとげた日本の航空力を恐れるGHQは航空局にも閉鎖を命じたが、松尾は各航空施設の管理が滞れば困るのは占領軍だと直談判。航空保安部(のちに庁)開設をゆるされると各地に散った技術者や操縦士を呼び寄せ、日本の航空技術は解体を免れたともいえた。
 一方、外資各社は国際線運航を開始し、あくまで国内線の自主運航を主張する松尾に対し、外資に託すべく動いたのが第二次吉田内閣の貿易庁長官・白洲次郎だ。吉田は言う。
<航空事業などというものは金のかかる贅沢な事業で、しかもひとつも儲からない>
「たしかに今聞くと、一理ある気もしますが、もしあの時白洲さんがパン・アメリカン航空を誘致していたら、日本の空は他国の手に渡っていたかもしれない。戦争に負けて占領それていても、日本の空には日本の飛行機が復活してほしいな、ってやっぱり思うんです」
 
そして、昭和26年、GHQは国内輸送の営業部門だけを担う民間会社設立を一社に限り許可。藤山噯一郎率いる「日本航空」や、旧大日本航空を母体とするこれまた「日本航空」など五社が手を挙げ、これらを一本化する形で「日本航空株式会社」が設立される。
(その後、昭和28年に特殊法人化)

*****と、「週刊ポスト」はつづきます。

そうねえ、、、書いていても驚いたのは、
日本航空が設立されたとき、資本金はたった一億円・・・完全民間資本の会社だったこと。わたしの時代は半官半民で、親方日の丸と批判されることもありました。

当時は飛行機一機が3億円したから、飛行機一機すら買えない資本金でのスタートだったこと。
占領下、独立前の日本の窮乏をあらわしていますね。
それでも日本航空は、去年まで日航ホテルがあった銀座のあの場所に、本社兼営業所をかまえた。
かつてそこには、古い三階建ての時計店があり、改修をしたものの、社長室は畳敷きのままだった・・・・のです。




日本航空一期生 白水社 週刊ポスト 

2015年03月16日 12時13分14秒 | 日記
週刊ポストのポスト・ブック・レヴュー「著者に訊け!」に掲載されたインタビューの評判がいい!

いわくー「戦後、航空事業を封じられた日本人が屈辱の中で培った技術と矜持で”日本の空”を支えた」

二ページにわたる著者インタビューは類をみないですね。この分量があるから、内容がくわしく判るのでしょうね。

また著者写真も、どどどどーーーーん!と、デカイ、という言葉がぴったりの全身写真に、著者氏名の活字もまたデカイ!

わたしがインタビューを受けたのは、広尾のF・O・B

同席の編集長の松本さんは「150冊ぐらいおくられくるけど、カバーが目立った」といってくれた。

ー日本航空草創期の苦難と歓喜を描いた渾身のノンフィクション
 とこのコラムの冒頭に、本の写真と、そのコピーである。


唐仁原さんが製作してくれたカバーと帯は、全体がトリコロールカラーである。ちょっと昔懐かしい木星号の絵と、一期生スチュワーデスとおもわれる日本航空第一号の制服姿。
ライターの橋本さんは、女性ながら骨太の文体で、これが読ませるわけである。

ーー日本の空に、日本の航空機が飛ぶ。そんなごく当たり前の光景が全く当たり前ではなかったことに、中丸美繪著『日本航空一期生』では。改めて気づかされる。
  1945年11月、GHQは<航空禁止令>を発令。航空事業や製造、学術研究に至るまで、敗戦国・日本では一切の航空活動がきんじられ、当時の新聞にはこんな句あ載った。<わが空はわが空ならず秋の空>ー。
  そんなゼロどころかマイナスから、日航ならぬ<日本の航空会社>を作り上げた一期生の奮闘を綴る著者自身、78年から客室乗務員として5年間勤務。古巣の今に心を痛める日航OG
だ。もちろんどんな会社にも草創期はある。が、それらがなぜこうも眩しく、圧倒的魅力を放つのか、私たちは今こそ業種を越えて考え直す時期なのかもしれない。

「創業期って、どこでもそうなんだよね」と編集長。
「とくにJALの場合は、戦後史とかさなっていて___」
そんなふうに、インタビューは始まったのだった。