中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

小澤征爾フェスティバル

2016年08月31日 20時08分49秒 | 日記
松本の小澤さんのフェスティバル。
夜7時開演のその日の午前中は、小澤さんが松本で宿泊するときに、大家さん?だったという大久保さんに会う。

大学の先輩との話から、わたしが小澤さんの評伝をかいているというと、「ぼくの高校時代の友人が、小澤さんに家をかしてるって、いってた」というところから紹介してもらった。

松本では大きな会社をいとなんでいるようである。
ホテルのロビーで待ち合わせて、そのままお昼がビュッフェになるところでお話しをきいた。

だいぶ長いあいだ小澤さんは、ほぼ一人で夏を過ごしていたようです。
手術をしてからは、大久保氏の会社が介護施設もやっていて栄養士や調理師がいるので、小澤の食事の管理までやっていたそう。

そもそも、大家さんではなくて、ホームステイとのこと。
かつて彼の父上のために新築した家が、ほとんど住まないうちに御他界。そこが空いていたそうで、ボランティア会長の「あおちゃんから家あいてたら貸してくれ。みんな収入のない人でもボランティアやっているんだから、そのくらいいいだろう」といわれたそうである。
つまり、家賃はなし、ということである。

最初は、外人の歌手が家族をつれてくるので、ホテルではないところに住みたいといったことから始まったらしい。奥さんは英語の勉強をふたたび始めた時期で、外人だったら提供してもいい、会話する機会もあるんじゃないか、というような条件を出したとか。

ところが、その家族が来なくなり、そのあとで、「オザワという人が住みたいといっていて、英語はほぼ完璧に話すんだが」というような提案があり、「どの楽器の人?」なんて、やりとりがあり、総監督というのがわかった次第。


オザワさんは、ともかくほっておいてくれ・・・という状態だったらしい。
家族が泊まることはなく、ボランティアのおばちゃんがきて、おかずをつくってチンをして食べられるようにするとか、自分で近くのスーパーによってきて、ご飯をたいて食べるとか・・・・。

敷地は1500坪とのことで・・・・つまりタングルウッドの自分の家のような雰囲気のなかで、オザワさんは譜面を読むなどs

セイジオザワ松本フェスティバル 初日

2016年08月22日 17時28分33秒 | 日記
8月17日、松本へ向かった。
以前から連絡をとっていたサイトウキネンフェスティバル時代に、一大ボランティア組織をつくりあげた青山さんと待ち合わせ。
高速バスが西塩尻インターあたりにきたら電話してくれ、といわれていたが、西塩尻がわからず・・・・・焦る。

さらに、バスで携帯電話お断り・・・の表示が!

青山さんとの待ち合わせがうまくいかないのでは、とそわそわ。。。
しかし、着いたとき電話して、ホテルにすぐにきてくれました。
すぐ。。。ほんとうにすぐで、荷物もとかぬまま、外出・・。

そもそもボランティアが、サイトウ・キネン・フェスを支えてきました!

青山さんは青年会議所会長をしていたころ、松本にできた市民ホールであるハーモニー・ホールにもかかわった方である。
どうやって、サイトウ・フェスでボランティアが組織され、どのように活動をつづけてきたのか、それはハーモニー・ホール時代にさかのぼっていた。

そもそもボランティアといえば、なんとなく介護などをイメージするが、音楽祭にボランティアという組織を持ち込んだのは、松本が日本ではじめてである。
松本って、日本で初めてが多いです。

鈴木メソードの鈴木鎮一さんが才能教育・・・いわゆる音楽教育とはいわず、情操教育として音楽教室をはじめたのも、そう。
松本民芸家具は、もちろん松本が発祥地。

青山さんとの会話は楽しく、喫茶店だけでは済まず、その後夕食も。
名産の馬肉(競馬好きとしてはちょっと心が痛みながら、肉の美味しさを競馬より先にしっていたわたし)、蜂の子、イナゴの佃煮(これらは初めて食した!)
自分で注文することはないと思うが、青山さんが注文し、えい!とおもって食べたら、美味しかった!

小澤さんも青山さんには全幅の信頼をおいていたよう。しかし、青山さんは3年前ぐらいに辞めてしまった。
なんでも市とごたごたしたとか。
そのとき小澤さんは、「僕にまかせて!そういうの僕得意だ」といったというのだが・・・。

小澤さんは、今年6月頃電話してきて、
「青山さん、またやってよ」といっていたらしいが、青山さんの復活は今年はなかったようです。

この晩は、夜の10時半ぐらいまで青山さんと・・・。
オリンピックをみて、午前一時ごろ就寝。

小澤フェスいよいよ開幕

2016年08月15日 18時29分26秒 | 日記
サイトウ・キネン・フェスティバル時代、長く公式ライターをつとめたのは、金井奈津子さんだ。
松本市と財団は、毎年の公演について公式記録というべき冊子を販売している。金井奈津子さんは、ヨーロッパの公演にもついていった。
わたしが斎藤秀雄の伝記をかき、小澤さんにも興味をもっているというので、事務局から金井奈津子さんやカメラマンの細萱博信さんを紹介された。
それはなんねんまえのことだっただろうか。

その後、金井さんのご紹介で軽井沢の元町長も取材させていただいた。
軽井沢では小澤さんが指揮セミナーをしたいという意向があって、軽井沢にホールを建設・・・予定で町長は動き、それが選挙の争点となったこともあった。
その町長は、金井さんの叔父さんでもある。

その金井さんが、今回、「幸せのための憲法レッスン」なる書物を上梓した。もともとは松本の美味しい店を紹介する本を書いたり、東京育ちの彼女は、楽しい・・・ことのみ。。。。とご自分でも「ノンポリみーはー」的なライターだったのだという。
ところが、ある日、偶然、信濃毎日新聞社主筆の中馬清福さんのコラムに吸い寄せられた。
彼女が憲法に興味を持った日だった。
彼女は中馬さんに憲法レッスンを請う。
取材の申し込みだ。
その申し出を、中馬さんは受けた!

そうして始まった「憲法をお茶の間に、中馬清福さんに聞く」はタウン誌に5年半もつづく連載だった。
まったくポリティカルでなかった金井さんが、憲法をまもることが、自分や家族の幸せをまもる術だときづいていく過程だったという。

なんか不安な世界情勢。日本をめぐる周辺国の動きも怪しい昨今。

そんな時宜を得て、彼女はこのたび「幸せのための憲法レッスン」を上梓したのだ。

彼女から10冊ほどもとめ、わたしは小澤征爾さんのお兄さんの俊夫さんに送った。
俊夫先生は、大江健三郎らと、「9条をまもる会」を牽引している。

わたしは征爾さんの伝記を書くにあたって、俊夫先生もお訪ねしたが、そのときはのっけから安倍内閣がつづくのは良くない・・という話だった。
一方で、父上は、満州にて日本陸軍のために働いた!
そもそも征爾というお名前でもわかるだろう。
満州事変をおこした板垣征四郎と、石原莞爾からとったものなのだから。

しかし、子供たちは違う思想に生きている!
「もっとも征爾が政治的な動きをするのは難しいだろうね。スポンサーがあるから」という俊夫先生の言葉。

対中国発言などは、小澤さんは朝日新聞紙上では行っている。でもそのニュアンスは、中国が母国、いや、生まれた国というニュアンスでの発言だった。

まあ、そのときどきの感性で動いているのだろうね。
日本フィル事件などのときには、ストライキをした楽員たちから離れたこともあったし。
でもこのストライキも、そもそも小澤さんは勧めるような発言もあったのです。それは拙著で明らかにしますね。

金井さんは、会えば以前通り金井さんながら、憲法を知ることによって、世界観がかたまったようです。

今後、中国、北朝鮮など、わたしたちは日本の将来をどうすべきか、考えなくてはいけない事態がきそうです。

フランス人は戦わずして、パリ陥落となった。。。」

でもわたしは、そのやり方は、国民を大切にしたやり方だったのではないか、などと、弱腰ながら思ってしまうのです。
最後は、パルチザンでナチスに対抗・・・それまで機をうかがってひそんでいた・・・そんなフランス人らしい小賢しさというか、そんな感性を日本人ももつべきではないかと。
特攻など、日本人は潔すぎる。
そういえば、オリンピックでも、サッカーワールドカップでも、日本人は審判の言葉にけっこう素直。

そういう国って、戦争にむかない・・・とわたしは思う。
9条があったために、なんとかここまで日本はやってこられたのではないか・・・。
そんなふうなことを考える2016年の夏です。











モーストリークラシック「鍵盤の血脈」井口秋子、朝比奈隆→小澤フェス松本

2016年08月08日 20時33分31秒 | 日記
本日、天皇陛下のお言葉がありましたが、井口基成はかつては「ピアノ界の天皇」と言われた人物。
今月は、井口基成の妻、「音楽界の女王」といわれた井口秋子について書き、さきほど校了となりました。
今月20日発売となるでしょう。


秋子先生の妹さんが、朝比奈隆御大と、小学校の同級生だったという話も盛り込みました。
御大は、けっこう筆まめだったのね。
わたしは、そのハガキを秋子先生の妹さん、後藤竹さんから見せていただきました!

秋子先生は学生時代から優秀だった・・・
なにしろ東京音楽学校の卒業式では総代で、それが基成が秋子さんを知った最初だというのですから・・・・。
秋子さんが音楽にかける執念は、家族の悲願でもあった・・・・そんなものを感じます。

「モーストリー・クラシック」をぜひお読みください。


さて、今年も、松本に行きます。
サイトウ・キネン・フェスティバルあらため、セイジ・オザワ・フェスティバル松本に。
総合コーディネーターで、小澤さん側近の武井勇二さんからチケットが送られてきました。

小澤さんも、ベルリンを振った後に体調くずし、5月には新日本フィルの特別演奏会に登場したものの、予定していた「子供と魔法」の指揮はやめることにしたもよう。
オペラ自体は短いのに、それをキャンセル・・・とは。。。練習がきつくなったのでしょうか。
もっとも、80歳いやこの9月には81歳。
小澤さんは、いつになっても青年っぽい雰囲気なので、そういうお歳にはとてもおもえないのですけれど、それが現実・・・。

シンフォニーだけを振るようです。