中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

井口基成伝 鍵盤の血脈 第二回・・・井口一族の消息、姉弟も、愛子先生のご子息も、ああ、いまは。

2016年01月27日 16時59分15秒 | 日記
毎年、年賀状がなかなか書けなくなりました。

怠惰というのもあるのですが、書いている仕事をしているので、オフのときはあまり書きたくない・・・というのもあって。

でも今年は、どうしても書かなくてはいけない状況となりました。
「モーストリー・クラシック」の連載、井口基成伝が始まったからです。

連載第一回の最後のところにも書きましたが、これはもうずうーーーーーーーーと長年温めてきたテーマでした。

井口家ご一同さまには、ほんとうにお世話になったのです。たださまざまな事情があって、出版にいたらないこととなり・・・・。

で、ほんとうに久方ぶりに、井口基成伝のためにファイルした名刺ブックを開きました。

唯一、女優の井口恭子さんとは毎年年賀状のやりとりがあって、数年前までは彼女の舞台などをときどき見にいったりしていたのでしたが、このところすっかりご無沙汰となっていたのでした。

連載第二回には、彼女のお父様、つまり井口基成の弟さんの証言も出てきます。
おばさまの証言も出てきます。
いとこのかたの証言も出てきます。

みなさま、お元気なのでしょうか?

基成先生のご長男は、かつて東京工業大学の教授をしてらして、インタビューは同大学の教授室でした。
その後、筑波大学にいらしたということですが、ご自宅のご住所を教えていただいてなかったのです。

「HANAKO物語」は二年前に出版された本で、80年代創刊時の編集長が書いたものですが、なんとこのなかに、基成先生の次男が登場していました。
体型がそっくりだったとのこと。
三軒茶屋にそれは、それは凝りに凝った酒をおいたバーを開いていたようです。

ほかにお嬢様がたもいらっしゃいます。

そういう、かつてインタビューさせていただいた方々に、お年賀状を出したのです。

その結果、そのまま返ってきてしまった年賀状もあって、わたしは、ど、どうしたらいいのか!、と思い悩んだ次第です。

基成は誕生したときには、家で「もとしげ」と呼ばれていた、そんな話もご姉弟から聞いたものでした。

東芝につとめていた基成の妹、愛子先生・・・中村紘子はじめ錚々たるピアニストを育てた・・・のご長男も、前立腺癌をわずらわれて、亡くなってしまいました。祈

遅すぎた・・・遅すぎたのです。


井口基成伝はじまるのです

2016年01月12日 11時01分31秒 | 日記
モーストリークラシックに、連載した「小澤征爾異聞」。
これが終わりました。
というか、本当は、同誌のエハラ編集長は、じつは、じつは、井口基成伝を書いてほしいといってきたのでした。
井口伝については、おおお、何年前になるのでしょうか?

数えるのも怖いほど、むかーーーーしから、取材をしていて、それが、まずは井口家の事情で、出版はちょっと先にしてくれ、とご親戚筋からいわれ、そのあと、今度は出版社の事情であとにまわされーーーー先に朝比奈伝でしょう。朝比奈さんがご存命なのだから、ということでーーーーといろいろな事情でのびてきたという経緯があります。

現在、わたしめは、小澤征爾伝を執筆中で、とても井口基成伝に頭がいかない・・・・!
と、申し上げると、むむむ、それじゃ、先に小澤さんいきますか・・・・・ということになり、連載がすぐに始まったという次第です。

この小澤征爾伝は、今年、中央公論より、タイトルを変えて出版予定です。

この小澤伝が終わるや、「では来月から井口伝、いいですね。おねがいします」
とエハラ編集長!
ええええ!!!
わたしの小さい仕事部屋。
そこには小澤サン関係の資料が散乱。
ここに井口先生資料をブレンド・・・・。もう、、、、ごった煮状態の仕事部屋です。

でも、なんとか始まりました。
第一回の書き出し。。。プロローグ。
単行本のときには、プロローグを最後に書くわたしは、七転八倒でしたよ。

そして、第二回。かつて使っていたワープロに書いた原稿など・・・も出てきまして、井口さんとの長ーい、おつきあいが思い起こされたのでした。

関係者のかたがた、お待たせしました。
井口家のご親戚ご一同も、ご協力いただきました。なかにはご逝去されたかたもいて、胸が痛みます。今後ともよろしくおねがいします。

小澤征爾異聞 最終回となりました。

2015年11月24日 13時02分30秒 | 日記
産経新聞発行の月刊誌「モーストリー・クラシック」で連載してきた、「小澤征爾異聞」が最終回となりました。

当初の予定を大幅にこえて、長い連載となりました。
わりあい読者の反応がよかったときいています。

編集部では毎月、アンケートをとってるようなのですが、一番面白い記事に選ばれてきたときいています。
もっとも、一番つまらないのに選ばれた回もあるようです。
それはそれで、書き手としては納得し、そういう過激な!?反応も喜ばしくおもっています。

おそらくあの回だと、いうことが想像できますので。
小澤さんの、これまで語られていなかった暗闇を書いた回が、そうだろう、と想像できるからです。

小澤さんは天皇、ぼくはいつまでたっても、首相どまり・・・といったのは、指揮者井上道義さんでした。
それほど小澤さんは神聖化されてまいりました。

わたしが朝比奈伝を書いたとき、ここまで書くのか、と、やはり、そのように感じた読者はいたはずです。
でも、わたしが朝比奈さんを大好きで、それなのに、さまざまなことを書いたということを、結局は朝比奈ファンも認めてくれたものです。
人間ですからね。人間くささがあるはずなのです。

そういうところが、ほんとうに愛おしい・・・とわたしは感じるのです。
それで、もっともっとその人物が好きになっていくのです。

人間はミステリー・・・それがわたしの執筆動機です。

小澤さんを探る旅は、来年までつづきました。

詳細は、来年発行予定の中央公論新社の単行本にご期待ください。

なお、来月からは、ピアニスト井口基成、妻秋子、妹愛子の評伝となります。


日本航空の聖火号 文藝春秋ー巻頭エッセイを書く

2015年11月09日 17時02分36秒 | 日記
今年「日本航空一期生」を出版したあと、いろいろな出会いがあった。取材中はもちろんだったが、出版後にはさらに多くの日本航空0Bのかたたちと出会い、また再会を果たすことができた。

4月、出版を記念してJAL一期生の会をしようと、提案してくれたのが鷹司信兼さんだった。
その後、その会に大勢参加してくださった、鶴丸会の会に呼んでいただいた。

鶴丸会の歴史は古いらしい。つまり一期生というようなパイロット、客室、整備の方々などが大勢会員になっているのだ。
其の席には、1964年の東京オリンピックの聖火号を操縦、客室サービスをした方々がいた。
その話を、11月10日発売の月刊文芸春秋の巻頭エッセイにわたしは書いている。

その後、さらに客乗0B会に招かれた。これは男性パーサー出身者だけでつくられた会です。
女性は、わたしと、志賀ごず江さん。志賀さんは、二年間スチューワーデスをして21歳でパーサーと職場結婚、専業主婦になるもその後、慶應の通信教育で四年間法学をまなび、なん、なん、なんと13年かけて1990年に司法試験に合格したというのだ。スチュワーデスの期はJALで「神話の一ケタ、化石の二ケタ、美貌の100期、知性の200期、体力の300期」といわれ、わたしが体力という最底辺にくらべて、志賀さんは、化石の方なのである。
すごい!一期生の小野悠子さん(本で第一番目に登場します)も、すごいタフなチャレンジを子育てのあとにしたかただが、JALの先輩がたというのは、ほんとうにど根性がある!!!感激しました!
また、そのほかにも、1980年代に飛んでいたわたしが面識のあるかたがたが、ずらり!
訓練所長だった成田さんも!
お隣でよくよくお話すれば、成田さんの義理の弟さんは、文学座のたかお鷹さんだというではないか!!!

司会の黒木さんもしゃべりもすごい!
さすがにあちこち講演をしまくっているかたである。
なに、癌になってしまったって!食道がん・・・それも話の明るいネタにしてしまってらっしゃるのは、もうもう尊敬にあたいします。

会長の入江さんも、ソフトな語り口ながら、確固たる芯を、当時から見せつけられてきました。栃木ご出身というのは、今回はじめてしったのですけれど。わたしも茨城、北関東のなまりはなかなかぬけませんです。
ご一緒にとんだ大先輩と、このように再会できたことが、ほんとうに嬉しくおもいました。
当時、編集者から勧められたときは、「あまりいい思いでないから。。。。」といって、ともかく最初はぐずぐずと筆が進まなかったわたしです・・・・。ありがとう、和気さん。




加藤武さん葬儀と、小沢征爾異聞

2015年10月06日 09時28分17秒 | 日記
モーストリー・クラシックに連載の「小沢征爾異聞」の原稿を送信。
今回は、小沢さんとウィーンフィルが主なところだ!

なぜ小沢さんは稀な演目をオペラでとりあげるのか?
ウィーンとはどんな歌劇場なのか?

そのあたりをまとめたつもりである。

原稿の合間を縫って、青山葬儀所でおこなわれた連載俳優の加藤武さんの葬儀にいく。文学座葬という連絡も白い封筒でもらった。加藤さんらしい、律儀なやりかたを彷彿とさせる。
杉村春子伝のときに取材させてもらって以来、おつきあいがあった。

荻窪に住んでいた頃、加藤さんと偶然にあうこともあった。
自転車にのって、駅周辺に買い物にくるのだ。
毎日?!・・・たしか、そういった!・・・・スポールクラブにかよっていて、若い女性や年取った女性たちといっしょにエアロビクスをしているのだといっていた。
今年の夏は暑かった。訃報をしったのは、そんな夏のさかり。
スポーツクラブのサウナで倒れたというのだ。
ばかな!!!!

あまりにも無念。
昨年は、「夏の盛りの蝉のように」で主演をつとめ、三越劇場にみにいった。こちらはひどい風邪をおしていったので、楽屋見舞いを受け付けにあずけてかえってきてしまった。
後日、礼状をいただいた。加藤さんは、いつも律儀な男性だった。
江戸っ子でもある。曲がったことがきらい。
北村和夫さんは、「竹を割ったような性格だから」といっていて、わたしがすぎむらさんの取材をしていて、加藤さんの名前をだすと、ちょっと大丈夫か、という心配をしてくれたのだ。カツ!!とやられるとおもったのだろう。
でも、加藤さんとの相性はよかった。
本出版後も、この本をサライの書評を担当しているというので、誌面で紹介しようといってくれた。

気象は江戸っ子、しかし、容姿は、どちらかというと洋風な武さん。
黒澤映画では大きな役が何回もついている。

そういえば、日経のかたたちがつくっていた文楽研究会に、わたしからお誘いしたこともあった。
そのあとの飲み会にも出席してくれて、住大夫師匠と、なんやかんや、と詳しい芸について、語り合っていた。
そのときの証拠写真は、わたしの宝物でもある。

杉村伝でお世話になった江守徹さんが、葬儀委員長だった。ちょっと口がおもく病の後遺症をおもわせたが、こころにぐっときた。演出家の西川信広さんは書いた弔辞を読んだが、そのエピソーどが面白かったが、なぜ読み間違えるか。緊張しているのでしょう。こういうところ、役者はちがいます。
文学座の葬儀は、杉村さんのときも、北村さんの弔辞が泣けてきた。役者がこころをこめてやるのだから、芝居以上のものが出てくるようだ。

わたしもいろいろなかたがたにおめにかかってきた。そういう始末、そういうおつきあいを、取材だけでなく、きちんとつづけていくのが、今後の夢なのです。
なぜかいつも仕事におわれております。
合掌

日本フィルから新日本フィルへ 小沢征爾さんの関わり方

2015年08月04日 10時30分06秒 | 日記
日本フィル創立して間もなく、小沢征爾さんは渡邉曉雄さんのもとで、副指揮者となります。
そのときに、初めて関わったのが、小澤さんが一昨年サイトウキネンフェスでとりあげたー子どもと魔法ーでした!

やがてー小澤さんは渡邉さんにかわって、日本フィルの首席指揮者となります。

日本フィルは、若いオーケストラであり、小澤さんのほうにも仲間意識がありました。
有名なN響事件がおこったときも、小澤さんの側に立ち、小澤さんを励ますための演奏会も、日本フィルが演奏したのです。

にほんrは高度成長をとげましたが、その後不況に陥ります。
楽員たちの生活も苦しくなり、権利意識も芽生えた時代に突入します。世の中は安保や赤軍派でゆれる70年代。
讀賣交響楽団にまず労働組合ができ、N響にも、そして、日本フィルにもやっと組合ができました。
小澤さんんも大賛成です。
だって、小澤さん自身、アメリカでは音楽家の組合に入ってましたから。

ところが、組合がストライキを決行したことによって、存在そのものがあやしくなりー。
フジサンケイグループが親会社です。
鹿内信隆がフジの社長でもありました。

その結果が、おとりつぶし。
日本フィルを解散すると通告してきたのです!

小澤征爾異聞第5回 小澤のボストン響デビューを目にした渡邉康雄さんインタビュー

2015年07月27日 13時49分55秒 | 日記
モーストリークラシック連載の小澤征爾異聞も第五回。

今回はピアニストの渡邉康雄さんのインタビューを載せることができました。

渡邉さんは、父曉雄が指揮者。
芸大付属高校で作曲科、そしてボストンの留学してピアノを学んだそうです。

そして、ニューイングラインド音楽院在学中に小澤さんのボストン響デビューをきくことになります。
その日は、チケットもぎりの仕事をしていたらしいですよ。

小澤さんが指揮者としてどういうふうに、楽員の心をつかんでいくか、また、小澤さんのそのころの音楽がどのように衝撃的だったかをかたってくれました。

お育ちのよさも、インタビューで随所に感じられました。
それはやはり正直で、率直で、性格がよい、というところです。
祖父は、自民党創立時の第一代総裁です。
ですから、従兄弟に鳩山邦夫元首相などがいるわけで・・・。
そのなかで、音楽の道を選んだのは、やはりお父様の影響・・・「だって音楽やるしかないでしょう」というわけです。

小澤さんの日本デビューは日本フィル。そのときの指揮者が曉雄さんですから、そちらからも小澤さんのお話をきいているようですし、皇室での室内楽などにも、よくいってらしたようです。

小澤さんって、そういう皇室などでも、まったく普通と同じようで。。。
「え、おれ、指揮するの?きょうはうまい飯たべられるとだけおもってきたのに」___なんていうことも平気でおっしゃるかただそうです。
天皇直訴は、しっていたけど、そういう口のききかたをするかただったのですね。
よほど民主主義的感覚が発達しているというか・・・。

朝比奈千足さん、オーストラリアの叙勲パーティー

2015年07月14日 15時17分26秒 | 日記
朝比奈隆御大のご長男である朝比奈千足さんが、オーストラリアに対する長年の功績が認められ、勲章を受けられました。

ごく親しい方々が集う受賞パーティーにお招きをうけ、行って参りました!

わたしが評伝を書いた朝比奈隆さん。そのときに率直なお話を御聴き出来たことは、この評伝が評価をいただくことにもつながったとおもいます。(2009年、織田作之助賞大賞をいただきました)

ちくちくと胸が痛むような出生だった朝比奈隆さん。

取材をしていても、お母様のお話がなかなかきけず、おかしいなあ・・・とおもいつつ。
「うちは墓が二つあるんだよ」
などと、おっしゃって、菩提寺まで教えていただき、お訪ねしたり・・・。

なにか秘密がある・・・・。

そういう感じを、千足さんも、子供のころから抱いていたといいます。
そして、慶應を卒業して、ハンブルクにクラリネットと指揮のために留学。

そのとき、お父様から明かされた真実。

でも、わたしは思いました。偉大な仕事を成し遂げた人物って、かならず子供のころに苦しい時期がある、若いときに苦いことがある・・・と。
朝比奈隆さんが、あれほど音楽に情熱をかたむけたのも、アイデンティティーをもとめたからでしょう。
「オーケストラ、それは我なり朝比奈隆、四つの試練」

読んでみてください。

それに御大が晩年うちこんだブルックナー。
この日、かつて黛敏郎が司会をつとめていたときの「題名のない音楽会」を、元テレビ朝日の担当ディレクターが映し出しました。朝比奈千足さんが、登場した日のものです。
そこで、黛さんが、「あなたはこのごろブルックナーをさかんに演奏会でとりあげているけれど、それに原典版なんですよね」

そうです。ブルックナーは、千足さんが帰国した演奏会でとりあげられ、まだそのころブルックーナーを指揮する人は日本にはいなくて・・・・それをお父様は、すっかりいただいてしまったというわけだった??・

「千足さんがもちこんだなによりの証拠ですね」
 と、わたしがいうと、「こんなの撮ってたんだね。自分ではすっかり忘れていたよ」
 と千足さん。

わたしには、「渡邉康雄さんも取材していたほうがいいよ。曉雄さんのことあるからね」
おふたりは、大指揮者の息子という関係で?、ずっと交流をしているのだとか、と。

なんと、なんと、その前日に、わたしはピアニストの康雄さんのご自宅にお電話をして、取材を申し込んでいたのでした。


千足さんは、オーストラリアに移住することも考えているそうです。地元のオーケストラを日本の国内大演奏旅行につれてきたり、あちらの生活は、ほんとうに素晴らしいようです。

この日は、かつての慶應時代、ワグネルのオーケストラのご友人や、マネージメントのかた、オーストラリアやドイツ留学中のお知り合い、テレビ朝日関係者など、和気あいあいと楽しい時間を過ごしました。わたしは、取材をさせていただいたのと、慶應音楽三田会の関係もありました。

天国のお父様も、きっと喜んでいらっしゃるでしょう。

二次会は、若輩のわたしは、ご遠慮させていただきましたが、千足さんのおくさまから、オーストラリアのおいしいチョコレートをいただき、音楽三田会会長の作曲家、小森さんとパーティーを後にしました。
小森さんは、広尾在住のはず。ごいっしょの方向なら、タクシー相乗りとおもっていたのですが、なんと、広尾から中目黒に引っ越しされたとか。
ううう、広尾は、坂が多くて、タクシーたくさんとおっているから、すぐにのってしまう。家族みなでそんなことをしていたら、月に10マンタクシー代がかかってしまって・・・という理由だそうでございます。

むむむ、わたしもつい、タクシーをつかってしまい、むむむ、とおもっている日々なのでございます。



小澤征爾さんと日本フィルハーモニーの問題 本荘玲子さんの証言

2015年07月06日 12時16分51秒 | 日記
「モーストリー・クラシック」の「小澤征爾異聞」の連載が第5回を迎えました。

この号では、小澤征爾さんと、日本フィルハーモニーの問題をさぐります。

小澤さんが日本のオーケストラえ、初めてポストを得たのは、日本フィルの副指揮者としてでした。

渡邉曉雄さんが創立指揮者で、彼のアシスタントだったのです。

その後、指揮者としてコンクールなどを獲得して、華々しく日本にも帰国するのですが、N響と問題をおこします。

そのとき、小澤さんを励ましたのも、日本フィル。

いつも仲間のような存在でした。

渡邉曉雄さんが退くと、小澤さんが首席指揮者になります。

そして、今度は・・・・・????

小澤さんの日本フィルとの関係は、その後、小澤さんが世界的活躍をするようになってからも、おこなった興味深いことがつぎつぎとおこります。

日本フィルも、「1に日フィル、2に桐朋、3、4がなくて、5にN響」といわれたと、本荘玲子さんが証言してくれました。
本荘さんも、日本フィルにエキストラとしていっていました。

小澤征爾異聞 モーストリークラシック連載 水野成夫さんと小澤さんの関係

2015年06月08日 10時41分51秒 | 日記
今月号のモーストリークラシックの連載は、いよいよ日本フィルと小澤さんのことです。

来年日本フィルは創立60周年。
あらたにインキネンが首席指揮者に就任となります。インキネンは日本フィルでシベリウス・チクルスをおこなってきました。彼にいわせると、やはり日本フィルにとってシベリウスはお家芸といえるもののようです。

それはなぜか?
創立指揮者の渡邊暁雄さんのお母様がフィンランド人だったこともあり、彼が積極的にシベリウスやそのほかの現代曲をとりあげたからです。
当時のN響のプログラムとも比較してしまいました。

また小澤さんと日本フィルとの関係のはじまりは?・・

渡邊さんが斎藤秀雄と親しく、室内楽などもいっしょにやっていたところからです。

さらに小澤さんと日本フィルの関係には、財界人水野成夫さんが関わってきます。

このかたも、財界四天王といわれた人物です。

今回は、多彩な人々の登場となりました。ぜひ、モーストリークラシックを読んでくださいね!

うちでは、猫のちいこちゃんがこのところ、夜中や明け方になきます。

このところあまりかまってやらないせでしょう。

猫って、嫉妬の動物ですからね。

仕事で、わたしがデスクにすわっていると、必ず机のうえにきています。
いまもすぐ左で、横になり、半分おなかを出した形で寝ています。

小澤征爾異聞ー「モーストリー・クラシック」

2015年05月14日 14時16分39秒 | 日記
「モーストリー・クラシック」の連載も三回となる。月刊といえど、書いたらすぐにまた翌月の準備をするという状態です。

また、周辺取材もすすめていて、先日はミューズ川崎で演奏会をした徳永二男さんのところにいってきました。

演奏会は盛りだくさん。徳永さんのトークも、会場の響きの話からはじまり、またお父様がヴァイオリニストだった話も加わり・・・。

徳永さんのお父さんは、九州の八女生まれだという。その後東京音楽学校から、東京交響楽団にはいり、徳永さんは、ヴァイオリンが涙か汗かわからないくらい汚れるほど、スパルタでお父様からしごかれたのだという。

斎藤秀雄門下で、斎藤からもこっぴどく叱られたはずです。
いえ、ご本人も、楽屋にお訪ねするとそういってらっしゃいました。

演奏はさすが、長年N響のコンサートマスターをつとめただけあって、・・・・というか、斎藤秀雄が認めた才能・・・だから、技巧的にも素晴らしい。ただけっこう大胆で、細かいことは気にしないというタイプかな、という演奏でした。

そういえば、お兄さんのチェロの徳永兼一郎さん(N響首席チェリスト)も、だいぶ以前に大腸がんで以前になくなってしまったけれど、そういうかたでした。
斎藤秀雄伝の取材のときに、御聴きした話によると・・・
「学生のとき、近くの高校生たちとけんかをして停学になったことがあっった。ほかの先生は学校のためにならねえ、とかいったけど、斎藤先生だけは、停学になって暇だったら、チェロやれ、といった。遅刻以外、音楽以外で先生に怒られたことはない」
と面白いお話を披露してくれた。

もっとも、その音楽のこころは、斎藤からしっかりと受け継いでいて、こうも話してくれた。
「歌えといわれても、自分ではやっているつもりでも、表現として現れてこないことがあるんです。その気分だけなって錯覚をおこすんです。先生の情熱は確かに激しく、『浄夜』にはそれが出ている。先生の「浄夜』は官能的で感情が豊かだった。
 感情が入るといい加減なテンポにもっていくことが多いけれぼ、テンポにも厳しかった。N響では最近まで先生がボイングを書いた楽譜をつかっていたんですよね。先生のは色鉛筆をつかっているし、消した上にまた書いてあったり、譜面はぐちゃぐちゃだからわかる。N響にはすばらしい指揮者がたくさんきますが、解釈で先生とおなじことをいう。懐かしいな、これ先生がよくいってたな、と思うんです。たとえば、ブラームスの三連音符とほかの作曲家のそれとは違うとか。感情、フィーリングでやるのは危険なんです」
 
兼一郎さん、いいお話ししてくれたな・・・・といま、そのページをくっておもいました。
屈託のないお人柄。これって徳永兄弟の特色なのですね。
そうそう、兄弟でN響といえば、堀伝、了介兄弟も。あちらも、屈託ない、性格が好ましい方々。オーケストラって、やはり首席ともなると、人柄というのが大切なんだなあ・・・・N響はその辺をみて採用したのかな・・・と理事長の有馬大五郎さんのことにも思いをはせる私。


一方で有馬さんは、小澤さんのことはどうおもっていたのなあ・・・とおもいます。


「日本航空一期生」関連では、鷹司さんの会のときの集合写真を、鶴丸会のかたからおくっていただきました。


「日本航空一期生」から「小澤征爾異聞」へ ・・・・霞ヶ関ビルのパーティー

2015年05月01日 14時33分39秒 | 日記
日本航空一期生出版関連のエピソードを書くべきなのだが、このところおわれているのが、「小澤征爾異聞」の連載だ。

これは「モーストリー・クラシック」という産経新聞発行の音楽雑誌で、この三月から連載がはじまった。

まだ頭は「日本航空一期生」でいっぱいのとき。

そもそもその締め切り翌日が、「日本航空一期生の会」ということで、わたしが取材させていただいたJAL創立当時の社員の方々や、そのころの関係者が一同に参会するというものであった。

場所は、霞会館。
それは、霞ヶ関ビルにあって、旧華族の方々が会員となっている場所なのである。
そもそも霞ヶ関ビルがたつ以前、そこには華族会館があったらしい。それを立て直す形で、三井不動産が開発したのだとか。

発案者は鷹司信兼さん。
鷹司さんは94歳。JALの草創期の地上職社員です。
この鷹司さんが霞会館の会員であるため、そこで私の本ができたら、当時の人たちで集まろう、と言い出したのがきっかけです。
(鷹司家は藤原鎌足にさかのぼる公家。五摂家のの名門)


日経書評『日本航空一期生』

2015年04月06日 11時32分55秒 | 日記
ありがとうございます!
日経新聞に書評が出ました!

<敗戦後、日本は航空にかかわる事業を禁じられた。運航や製造はおろか、教育や研究までも御法度となり、すでにあった飛行機は軍用のみならず民用も破壊された。
 そうやって失われた「空」を取り戻そうと日本航空を立ち上げ、発展させた人たちの奮闘を描いた、ノンフィクションだ。後の日航の姿からは想像できない草創期のパワーが伝わってくる。多彩な顔ぶれの中でも魅力的なのは、松尾静磨という人物だ。。。。。>

そう、わたしが描きたかったのは、経営の際にも採算よりもまず安全を優先した松尾の姿勢だ。」
「臆病者といわれる勇気をもて」の標語を生んだ人物で、彼こそは日本の航空界の父ともいっていい。

日経書評はつづく。

<インタビューや様々な資料をつうじて紹介されるエピソードの数々は胸に響き、読み飽きない。たとえば、客室乗務員の一期生を『エアガール」の名称で募集した際は「容姿端麗」が応募資格だった。「かつてはそんな空恐ろしい条件があった」と、著者は敬意とユーモアをこめて書く。日本の社会が「別の世界のように思える時代」を鮮やかに描き出した一冊だ>

としめくくられる。

いろいろ反響がきた。メール、電話・・・。


日本航空一期生 「週刊ポスト」ー著者に訊け インタビュー

2015年03月18日 11時39分44秒 | 日記
この本を、まずはスチュワーデス本と勘違いする人は多い。

それは「一期生」というタイトルからかもしれない。
でも、じつは違う。これは、日本航空が創業された年に採用された社員達全員・・・・・つまりスチュワーデスはもちろん、営業マンも、整備員も、パイロットも、そして役職員まで、わたしは含んだ意味で、一期生と呼ばせてもらった。

それでもスチュワーデス一期生は神話だ!

わたしは大学を卒業して78年から5年間JALに勤務した。
JALなら、どんな職種でもいいとおもった。それは、当時のJALは世界一の輸送量をほこり、企業として一流だった。
いわゆる男女雇用法施行以前なので、大卒女子でも結局は一般企業では、嫁入り前の腰掛けとしかみなされていず、男性社員のアシスタント、お茶汲みが仕事。。。女は愛嬌の時代。愛想さえよければ、いい、という時代だったのです。。。。昔の話だわ!!!

地上職の試験も受ける手はずになっていたけれど、先にスチュワーデスの内定をもらいました。
そのまえにも、すでにバンク・オヴ・アメリカからも内定をもらっていましたが、面接官のおじさまたちと毎日顔をあわせ、満員電車にゆられて丸の内まで往復する日々を想像したら、なんだか、トーンダウンしてしまいました。憧れの、男女平等の外資だったのですが・・・。
JALにいくときめて、ある日電話器をにぎりました。
「内定いただいたのですが、すみません。ほかの企業にいきたいとおもいます」
 公衆電話から電話したことを覚えている。すると、バンク・オブ・アメリカの方は、
「どこにいくのですか?」
『JALです」
「え!!!JAL!JALなんかにいくの、うちを蹴って』
といわれたことを、明白におぼえております。
当時、バンク・オヴ・アメリカは世界一の銀行でしたから。。。。。

それでもわたしはJALを選んだのですね。
入社すると、まずは地上研修ということで、地上職員とおなじような仕事をします。わたしは、羽田の国際線VIP接遇グループというところに配属され、税関のところまで迎えにいったり、おくりにいったり、西武の堤義明さんが大勢の写真をつれて海外にいくときも、特別ルームにご案内したことがありましたね。このとき感じたのは、乗務員を選んでよかったということ・・・。結局、航空会社って、飛行機を飛ばすために全員が働いているということを実感しましたから。やはり飛行機に乗りたい!と、強くおもうようになりました。

そもそも初めて飛行機に乗ったのは、大学時代イギリスへ2ヶ月の語学研修に出かけたとき。ホームステイは楽しく、やはり海外とつながる仕事をしたいとおもうようになったきっかけです。
当時は南回りで30時間以上かかって、ヨーロッパに・・・・そのとき、スチュワーデスさんの笑顔に救われたことを思い出したのが、JAL応募のきっかけでしたね。やはり新聞広告で、何年ぶりかにスチュワーデスを募集することを知ったのでした。

その後、訓練所を経て・・・・(じつはこの時代が楽しかった!!!!この話はいずれ・・・!

晴れて国際線客室乗務員となりました。

週刊ポストで紹介された「日本航空一期生」つづきは。。。。。。。

歴代客室乗務員の間には、こんな通説が語り継がれているという。
<神話の一桁、化石の二桁、美貌の百期、知性の二百期>・・・・
「私ですか?もちろん<体力の三百期です!(笑)
成田開港の年に、百人単位で採用された私たちと、容姿端麗・語学堪能が絶対条件だった一期の方がたでは、プライドが違うし、今回取材するまでまさに神話的存在」
 なにしろ応募1300名に対し、採用15名の超難関を突破した<エアガール>一期生。そして、航空保安庁初代長官から日本航空専務に転じた故・松尾静磨氏ら技術者たちの生涯を軸に、日本が空をとりもどすまでの道程を、戦後史とあわせて描く。

と、「週刊ポスト」ではつづきます。
そして

四度の兵役を経て、逓信省航空局で伊丹空港建設などにかかわった松尾は終戦時、42歳。昭和13年の国策会社「大日本航空」発足以降、驚異的な進化をとげた日本の航空力を恐れるGHQは航空局にも閉鎖を命じたが、松尾は各航空施設の管理が滞れば困るのは占領軍だと直談判。航空保安部(のちに庁)開設をゆるされると各地に散った技術者や操縦士を呼び寄せ、日本の航空技術は解体を免れたともいえた。
 一方、外資各社は国際線運航を開始し、あくまで国内線の自主運航を主張する松尾に対し、外資に託すべく動いたのが第二次吉田内閣の貿易庁長官・白洲次郎だ。吉田は言う。
<航空事業などというものは金のかかる贅沢な事業で、しかもひとつも儲からない>
「たしかに今聞くと、一理ある気もしますが、もしあの時白洲さんがパン・アメリカン航空を誘致していたら、日本の空は他国の手に渡っていたかもしれない。戦争に負けて占領それていても、日本の空には日本の飛行機が復活してほしいな、ってやっぱり思うんです」
 
そして、昭和26年、GHQは国内輸送の営業部門だけを担う民間会社設立を一社に限り許可。藤山噯一郎率いる「日本航空」や、旧大日本航空を母体とするこれまた「日本航空」など五社が手を挙げ、これらを一本化する形で「日本航空株式会社」が設立される。
(その後、昭和28年に特殊法人化)

*****と、「週刊ポスト」はつづきます。

そうねえ、、、書いていても驚いたのは、
日本航空が設立されたとき、資本金はたった一億円・・・完全民間資本の会社だったこと。わたしの時代は半官半民で、親方日の丸と批判されることもありました。

当時は飛行機一機が3億円したから、飛行機一機すら買えない資本金でのスタートだったこと。
占領下、独立前の日本の窮乏をあらわしていますね。
それでも日本航空は、去年まで日航ホテルがあった銀座のあの場所に、本社兼営業所をかまえた。
かつてそこには、古い三階建ての時計店があり、改修をしたものの、社長室は畳敷きのままだった・・・・のです。




日本航空一期生 白水社 週刊ポスト 

2015年03月16日 12時13分14秒 | 日記
週刊ポストのポスト・ブック・レヴュー「著者に訊け!」に掲載されたインタビューの評判がいい!

いわくー「戦後、航空事業を封じられた日本人が屈辱の中で培った技術と矜持で”日本の空”を支えた」

二ページにわたる著者インタビューは類をみないですね。この分量があるから、内容がくわしく判るのでしょうね。

また著者写真も、どどどどーーーーん!と、デカイ、という言葉がぴったりの全身写真に、著者氏名の活字もまたデカイ!

わたしがインタビューを受けたのは、広尾のF・O・B

同席の編集長の松本さんは「150冊ぐらいおくられくるけど、カバーが目立った」といってくれた。

ー日本航空草創期の苦難と歓喜を描いた渾身のノンフィクション
 とこのコラムの冒頭に、本の写真と、そのコピーである。


唐仁原さんが製作してくれたカバーと帯は、全体がトリコロールカラーである。ちょっと昔懐かしい木星号の絵と、一期生スチュワーデスとおもわれる日本航空第一号の制服姿。
ライターの橋本さんは、女性ながら骨太の文体で、これが読ませるわけである。

ーー日本の空に、日本の航空機が飛ぶ。そんなごく当たり前の光景が全く当たり前ではなかったことに、中丸美繪著『日本航空一期生』では。改めて気づかされる。
  1945年11月、GHQは<航空禁止令>を発令。航空事業や製造、学術研究に至るまで、敗戦国・日本では一切の航空活動がきんじられ、当時の新聞にはこんな句あ載った。<わが空はわが空ならず秋の空>ー。
  そんなゼロどころかマイナスから、日航ならぬ<日本の航空会社>を作り上げた一期生の奮闘を綴る著者自身、78年から客室乗務員として5年間勤務。古巣の今に心を痛める日航OG
だ。もちろんどんな会社にも草創期はある。が、それらがなぜこうも眩しく、圧倒的魅力を放つのか、私たちは今こそ業種を越えて考え直す時期なのかもしれない。

「創業期って、どこでもそうなんだよね」と編集長。
「とくにJALの場合は、戦後史とかさなっていて___」
そんなふうに、インタビューは始まったのだった。